35?


 視界が暗転し、五感が箱の外へと再構築されるように元に戻る。

 ヘッドセットを外すとそこは元いた2つ目の部屋だった。赤いラインライトが四角い部屋の輪郭を浮かび上がらせる。部屋の真ん中には今私を箱の中へ誘った椅子型の装置がある。私は椅子から離れると、二つだけ段を降りた。椅子が置いてある場所はほんの少しだけ高くなっている。

 そうだ、確かどこかの壁に月が映っていたはず。ぐるりと部屋を見渡すが、月は見当たらない。部屋の出入り口もまだ壁と同化したままだ。ひとまず残りの数階を降りて左の壁に近付く。目を凝らすが、それは継ぎ目のない壁に他ならない。


「ハルカ」


「え?」


 振り返ると、ケイコがいた。そんなはずはない。ケイコは仮想箱の中の――


「ケイコ!」


 気が付くと私はケイコに抱き着いていた。柔らかい、確かに感触がある、ケイコがここにいる。


「元気出しなよー。なんか落ち込んでるでしょ」


「そんなことないよ」


「そんなことある。仮想箱はね、平和ボケしたあたしら基準で作ってあるんだ。ハルカは解釈し過ぎるみたいだから……」


 ケイコに泣くなと言われてしまった。私はなんだか涙もろくなってしまったようだ。でもせっかく安心しきった私にあろうことか不穏な推測が働く。“あたしら”“ハルカは”ケイコはそういう言い方をした。


「箱は閉じている、ってね」


 ケイコも私を包んだ。私が聞きたくなかった言葉を言わなければならないケイコの声も震えていた。

 少しの間二人とも黙っていて、仮想箱が残酷に再現したヒトの温もりに浸る。間違いなくそこにはお互いがいて、夢の中よりもずっとはっきりと感覚が持てている。

 しばらくそうしていた。ずっとそうしていたかった。


「最初はただびっくりさせようとも思ったんだけどな。箱の外、上手く再現できてるでしょ」


「うん、うん……」


「さっきは聞けなかったけど、聞かせて。ハルカはどこか遠いところから来たの?」


「そう認識できている時もある……みたいな答えになっちゃうかな。ケイコは、特別なんだよね?」


 特別。なんだか飾り気の無い言葉しか見つからなかった。箱の中の他の登場人物とは違っていて欲しい、たまたま自分と波長が合った、ただそれだけとはどうしても思いたくない、そんな意味を込めたいのに。


「さあ、どうでしょー。箱の中で変に個を持ってしまって、何かを模索する人もいるんだ。すればするほど無理だと分かるけどね。あたしはそんな感じ」


「もう一度箱に入ったら、ケイコは私のことを覚えているの?」


「ハルカを悲しませたくないから、覚えてないってハッキリ言うよ。そのあたしがこのあたしであることを、今のあたしは叶えられない」


 ケイコが言葉にしてくれたカギを解釈して、私は心の中で可能性を探った。そして私が関与できない概念に祈った。



「さて。あの踊り手にはできない踊りがあります。何でしょー」


 細長いワイングラス型のテーブルを囲んで話している時の表情でケイコがクイズを出した。少し眠そうな、けれども隙を見せたら悪戯しそうな、そんな表情。厚めのメガネのレンズの奥に大きな瞳が光る。

 クイズの答えはすぐに思い付いた。私が答えることを知っているかのようにケイコは仮想箱の中へ誘う椅子に近付き、手をかざした。椅子は薄っすらと淡い光の粒子を放出しながら透明度を上げ、消滅した。小さな四角い舞台の出来上がりだ。ケイコが私の方に向き直る。今度は手のひらの向きを変えて私に差し出す。私は少し高くなったその場所へと近づき、ケイコの手を取った。


「リードもフォローも知らないよ?」


「あたしも。でもいいじゃない」


 思えば、至極の身体の振る舞いに寄り添う音楽の主張は殆どゼロに近かった。しかしゼロにはならず記憶に残らない程度に響いていた。今また聞こえているこれは、箱の中の音が漏れ出して聞こえているのだろうか、それともケイコの演出だろうか。記憶を集めて見よう見まねで手足を動かし、相手の動作を支え、真似て、彩り、自らもまた個の流れを創る。

 得意なはずの言葉を閉じて身を任せたコミュニケーションは、そのかけがえのない時間にあらゆる価値を与えてくれた。


 またね、ケイコ。

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