06_SandBox_03_
「何をしているのですか?」
女性の声に男は返答しなかった。代わりにコンソールに『何をしているの?』と入力する。返答を記憶させたのだ。これ以降、この会話応答プログラムは「何をしているのですか?」と聞く代わりに「何をしているの?」と聞くようになる。これを何度繰り返したのか分からない。ただ“取り戻したい”という想いが、男を動かしている。
安い製品しか買えなかった。妻をコピーすることはできなかった。こんな会話プログラムにいくら返答の仕方を教えたところで妻を再現などできはしない――その考えだけは絶対にできなかった。頭の中で妻を覚えている。自分は覚えている。自分の記憶をダビングすることはもちろんできていないが、残っているあらゆる記録を大切に管理した。覚えていられるあらゆることを手に入る記憶媒体に片っ端から記録した。
「何をしているの?」
「君の手を握っているんだよ」
「手に力がかけられていることは分かるわ」
それに体温は無かった。体温を感じ取ってもらうこともまだできなかった。資金作りに奔走疲弊し、まずは手を握った。
「手を握られていることはわかるわ」
応答を覚えさせ、それをまた一歩妻に近づける。
悲痛な姿だった。目を背けたくなったが、意識視点はまだ男を見るように固定されていた。
夢を見ているのだろうか。私は何をしていたんだっけ。どこにいたんだっけ。フィルムの再生はやや飛ばし飛ばしに進んでいく。妻は少しずつ人の定義を獲得していき、男は少しずつ弱っていった。そしていつの間にか、男が見ている妻の姿を私自身も見ていた。
ぼんやりとした視界だった。その視界がぐらりと揺れ、埃のたまった床に倒れこむ。身体の感覚も男と共有しているようで、全身が痛みと疲労をとうに超えていることが分かった。ただ、意志だけが彼を維持している。その意志までもが染み込むように私に伝わってくる。
「あなた? 助けを呼ぶわよ?」
「……いや、呼ばなくていい」
「どうして? かなり危険な状態よ?」
妻は妻らしい口調で妻らしく自分を気遣ってくれている。ありもしない力を振り絞り、衰えた腕で鉛のような上半身を支え、どうにか自分の顔を持ち上げる。妻の顔が見たい。
「あぁ……」
「何? あなた?」
それは紛れもない妻だった。安いボディを精一杯改造してヒトの身体に近付けた。いまやそれはこちらに手をさし伸ばし、自分を支えてくれようとしている。
「大丈夫? やっぱり助けを――」
いらない。もう自分が助からないことは分かっている。だが理由はそれではなく、ついに生きる目的を遂げたからだ。
そこには妻がいた。
暖かいものを頬に感じた。枯れ果てた涙が湧き出してくる。いったいどこにこの滴の元があったのだろう。もう何日も水を飲んでいないはずなのに、ヒトの体とは不思議なものだ。柔らかい素材を使ったことが報われたのか、妻の手が人肌のようにその一筋の涙に触れた。涙はさらに溢れてきた。
男が目を閉じる。妻は夫を支えるため、わずかに持ち上がった上半身の下に膝を入れた。男にはそう見えていた。
ふと、男と感覚が離れた。視界も男の視点ではなくなる。男と、ヒトを模した機械である妻を眺める形になった。男の視界ではなくなった今、それはやはり妻ではなかった。
「もう一度…………逢えるかな……」
消えそうな声で男が言う。妻は生命活動が消えていく夫を抱え込むように、抱き寄せるように自らの身体に引き寄せた。
妻が何か答えた。夫が教えた返答とは違う言葉だった。
男が最後に発した言葉は、一つの祈りを残した。男と視点を共有していた間、男は妻にもう一度会えていたように見えたのに、その言葉はそうではないかのように受け取れてしまう。私と彼との共有が断たれた後、男は最後の最後に魔法が解けてしまったのでないか。あるいは自分で解いてしまったのではないか。
最後まで男の目には妻が映っていて欲しかった。そうであったことを祈るばかりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます