第23話「まあいいんだよ」ほんとにか!?

4月30日

どういうわけだか、一向に頭の中のもやっと感がとれない。


PCにかじりついてるせいかなと思って、しばらく離れてみたが、関係ないようだ。


朝、母が見せたがっていた近所の藤棚を見て、写真にとって、帰ってきたらゴミを出す。


ついでに公園でゆっくりのんびり、空を見上げてベンチで休憩。


時はことさらゆっくりと過ぎていくようだ。


近所のパパさんが子供さんとカートで枯葉の詰まったビニール袋をゴミ集積所に運んでいく。


なにもかも、日常のなにもかもが、うわーっと、わたくしをいじけさせる。


散歩帰りに、その近所のパパさんちを通りすがったので、



「おはようございます」



とだけ、お義理で言って、帰ったら祖母が草むしりをする、と言い出す。


別にうちの庭は、石畳が足に響くから、芝が生えてるくらいでちょうどいいんだが。


部屋でジッとしていたら、ニャンコの姿がない。祖母にゴミ袋はどこだと言われて、四十五リットルの袋二つをとっていく。


ニャンコがいた!


玄関前の枯葉を集めたちっちゃい小山を縫うように、うろうろっとして、へたりと腹を道路に着けて、へなあっとうち伏せる。


よし、そのままでいろよ、と思っていると目を離したすきに近所のおうちの雨どいの下へそろ~っと歩いていってしまう。


まいったな。


家で与えている水より、雨水が良いとは。


そんなことが二回もあった。


ポリバケツにたまった枯葉ゴミを祖母の集めた袋にまとめて入れ、また集積所へ持っていく。


帰りに、休日を楽しむ男児二名が公園の方向へと歩いてくる。


向こうから中央へ向かってくる人は、実はこの通りの住人ではない。


が、律儀に会釈して、わたくしは、



「こんにちは」



と言って通り過ぎた。


にこやかに、と言うわけにいかなかったのは、残念だが、眉間のあたりに重いものが垂れこめているのでご勘弁願いたい。


昼食を摂り、ポストの鳴る音がしたので玄関に出る。


すると……理不尽に抗議するように猫の鳴き声がし、ニャンコ~そこにいたのか~となる。


ポストには父母に封書と、郵便物の不在届が入っていた。


その通知に記されていたのは、皮肉にも、母と一緒に? いや祖母と一緒に散歩をしていた時間帯だった。


笑えない。


玄関先に寝そべるニャンコをながめつつ、郵便物を手にしたまま暇を持て余していた。


そう、わたくしの憂鬱の原因は暇、なのであった。


猫に薬を飲ませ、水を与え。


そして暇になると猫の姿を追っている。


これが原因でなくてなんだろう。


しかし、横たわった猫のぺちゃんこの腹が静かに上下するのを見るにつけ、ああ、自分は今度こそこの子を看とるんだ。


今度こそ、誰にも奪われず、取り去られず、隔てられることなく、わたくしの見ている前で終わらせることができる。


わたくしの愛猫の生と死とを。


彼が、後肢をよたつかせながら、庭へと続く階段を見下ろしているのを見て、ああ、もう自分では降りられないんだなと後になって悟る。


なにもかもが、すっきりしないまま、午前は過ぎた。

     ☆☆☆

この日、コメントをいただきました。

聞きかじっただけで正しいか定かでない噂話をひとつ。


主に(野生)動物は、生成された食品、飲み物は苦手なんだとか。


不純物がないから「キレイ」と限らない”世界”かもしれません。


水道水を1日?寝かせた「水」を混ぜて給餌するやったかな、、

     ☆☆☆

コメントを返しました。


そうですね。


気づくとニャンコは花瓶の水を飲んだり、してましたし……。


塩素が匂うから「危険」と思うのかもしれませんね。


アメリカンショートヘア―は模様からして、野生の猫の血を色濃く継いでるようでもありますし。


花瓶の水を与えてみようと思います。


ありがとうございます!

     ☆☆☆

同日。

暇だけど、いや暇だからこそ、いろいろ考えてしまうのだが……。


雑念のほとんどは忘れてしまう。


いつの間にそんなの身に着けた……悟ったのか、わたくし。


いざというときのために、座禅は一時期やってました。


ただ、あれはやはり宗教なので、心の安寧のためにするというのは、本筋からは外れてないけれど、信仰心が別のベクトルむいてる(笑) とかいうわたくしには、瞑想の方が向いている気がします。


背筋を正し、楽な呼吸で目は半眼に。


頭上に光のイメージを描き、それが徐々に体をめぐるところをイメージ。


そして、体の一部分やどこかしらに違和感があったり、不自然な力がこもっているところがあったら、そこを意識しながら、光で癒していく。


全身をめぐった光が再び頭上に昇って、収束していくところをイメージするまでが一回。


だいたい、五回をワンセットで一日二回もすれば頭はすっきりする。


魔術の特訓か! いんだけどね。



座禅はひたすら苦行よ。


苦しいんだけど、足が痛いんだけど、どうでもいいことを考えてしまうんだけど、無視する。


それだけ。


悟りの境地なんかない。


悟りを手放すのが悟り。


日々これ禅業。

悩みがあったら、座禅する。


自分の中で変えて行けるみたいな状況と、そうでない状況を漠然ととらえる。


一切は受け身である。



そりゃ、禅僧だって、悩みがなかったら一人で籠ったりはしないわけで。


打つ手があるなら、解決してるはずの、悩みそのものを抱え込んでるから、座禅するわけで。


朝に道を知ったなら、夕に死んでもいいと言った人間もまたいた。


わたくしが何をできるだろう。


してきたことの結果がこの境地なのだ。


そしてこれから起こることも、今までしてきたとおりの結果。


何も変わらない。


しかし心持は変わる。


受け入れること。


さようなら、今日の自分。


諸行無常、ああ……。



とかいいつつ、おせんべぱりぱり食べてますからね(笑)


ごはんおいしい。ああ、うまい。南無……。


というわたくしの抱える矛盾は、仏性と聖性と神を信じるという、めちゃくちゃな信仰によるものと考える。


日本人でなかったら、とっくに変人扱いだ。


いや、いまでも変人とは言われてると思うけれども。


自覚のある分は、まともなのよ……。


まるで、ファンタジー世界を「地」で生きている感覚。


これが日本人なのか? いいや、わたくしだ。


仏教徒だ。


そういうことになってるし、死んだら火葬にしてもらう。


親が死んだら、一番近いお寺さんの檀家としてお世話になる。


だけどわたくし個人の発想法は「神様はいる。ご覧になっている」なのだ。



とある仏教系大学で開催された、書道の展覧会を覗いたならば。



「神明照覧」



とわかりやすい書体で書いてあった。



「神よ、ご覧ぜよ」



という意味だと思う。


じゃあ、神様を信じているってことだね? 神様がいるって人も、仏教徒の中にはいるんだ……ちょっと、不思議。


     ☆☆☆

同日。

今日はなんだか幸せだったな。


ソファに腰かけながら、愛猫を手元に置く、その死を見届けられるという喜びをかみしめ。


ベッドに横になりながら、猫が近づいてくる、そばへ登ってくる気配を感じる。


その間、なにごとか理屈っぽいことは考えていたんだけれど、暇人のすることだから、すべてがどうでもいい。


ここにいる幸せ。


共に存在することの喜び。


そんな想いでいっぱいだった。


まあ中には、苦しい胸の内を表現したなら、どうなるか、なんてことも考えたし、実際書きたかったけれど、主観でいっぱいになってて、独りよがりだった気もした。


まあ、いいんだよ。


今ニャンコが、急いでわたくしのベッドの中(掛け布団の中)へもぐっていったけれど、飼ってて初めてみた現場(笑) 。まあいいのよ。


わたくしの目の届かないところで逝っちゃう気なのかなあ、とか大げさかなあ。

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