act.29 新郎・新婦の戦い
二人の戦いを、ネシェルとラファルは固唾を飲んで見守っていた。
かすかな物音に気がつきネシェルが目線を差し向けると、ボールガンの銃口がクフィルの姿を追うように静かにスライドしていくところだった。
「死ね、クフィル。父親の命を奪ったものと同じ毒で」ボールガンを両手でかまえ、ホーネットが嫌らしげにニヤリと笑う。「今度は即死級の猛毒だぞ」
その直後、銃が宙に舞う様を、ホーネットは理解できずに見送るだけだった。
すぐさまネシェルが蹴りによって銃を跳ね上げたことに気がつく。
怒り心頭に発したホーネットは、一瞬で矛先を切り替え、ネシェルを激しく睨みつけた。
「何をする! 関係のない奴はひっこんでいろ!」
その理不尽かつ身勝手な激高を真正面から受け止め、ネシェルはホーネットを軽蔑にまみれた哀れみのまなざしで見下してみせた。
「本当に手に入れたいものがあるのなら、そんなものに頼らずに自分の手で掴み取ったらどうなの」
「ネシェルさん」
あっ気に取られるホーネットから視線をはずし、心配そうにそう呟いたラファルへちらと目配せするネシェル。
「必要ない、ラファル。私がやる」
かくして、正装に身を包んだ新郎と一億のウエディング・ドレスを纏った花嫁が、互いの譲れぬ主張をかけて、結婚式の当日に夫婦ゲンカをおっ始めることとなった。
痴話ゲンカの見届け人は、祝福者の代表、ラファルだった。
「どうやら教育が必要なようだな。これからの円滑な共同生活のためにも……」
言い終わらぬうちに、ホーネットが仰向けに倒れ込んでいく。
開戦早々、電光石火、ネシェルの掌底がホーネットの顎を揺らしたからだ。
打ち付けた頭を揺らめかせつつ、信じられないといった表情で顎を押さえながら、何とかホーネットが立ち上がる。
そのダメージも払拭し切れぬタイミングで、ダンと右足から踏み込み、ミサイルのような小さな影がホーネット目がけて襲いかかっていった。
柔軟かつ容赦のない連続蹴りに圧倒され、どんどん後方へと追い詰められていくホーネット。
しかしその直後に間合いを取ったのはネシェルの方だった。
「く!」
小さくうめき、ネシェルが攻撃をやめて退く。
ホーネットの両手には小型だが両側に刃を持つ、鋭利な短刀が握り込まれていた。
神妙な様子で視線を下げると、純白のドレスの腹部がぱっくりと割れ、ネシェルの胸からへそにかけて露となっていた。
刃先が皮膚へ届いていないことを確認し、改めてネシェルがホーネットを睨みつける。
「花嫁に刃物を突きつける新郎がどこの世界にいるの」
その皮肉すら軽く聞き流し、狂気に満ちた表情で冷ややかに笑うホーネット。
「これは教育だ。しつけだ。おしおきだ!」
「社長!」
「いいから」
飛び出しかけたラファルの物言いを、ネシェルが顔も向けずに制する。
それから、怒りに燃えるまなざしをホーネットに差し向けたまま、ネシェルは地を這うドレスの裾を、腰のあたりまで引き裂いてみせた。
左足を前に出し、ガーターベルトがのぞく片足が根元から丸ごと現れる。
「これで動きやすくなった」
ぶすっと告げたネシェルに、ホーネットが落胆のジェスチャーを投げかけた。
「やれやれ、一億のドレスが台無しだ。損害は一生をかけてでも償ってもらうぞ。極めて短い一生ではありそうだがな」
「先に破ったのはそっちでしょ」ホーネットの恫喝に微塵にも臆することなく、口をへの字に曲げてネシェルが吐き捨てる。「こんなものよりクーガーの制服の方が百倍素敵だわ」
「なんとまあ、品のない王女だ!」
時間稼ぎによって無事回復を終えるや、ホーネットが獲物をしとめるべく牙を剥いて飛びかかっていく。
鼻先をかすめた高速の刃先を避けた際に、高い踵が邪魔をしてネシェルはよろめくこととなった。
それを見逃さずに、一気に決めようと前に出るホーネット。
「ふっふふふ。よく頑張った方だが、靴を脱がなかったのは失敗だったな。踏み込みが甘いから何もかもが弱い。これだから女は役に立たんのだ。チャンスを自らの詰めの甘さでおめおめと手放す。所詮、浅知恵を巡らす程度が関の山だ」
「大きなお世話!」
綺麗にまとめていたネシェルの髪が、ホーネットの凶刃により弾けて広がる。
それはラファルの目には、花びらが広がるように優雅にそよぎ、陽射しを受けて煌いて見えた。
「これはまた、なんというみすぼらしい格好だ。見ているだけで哀れな気持ちになってくる。思わず何かを恵んでやりたくなるほどにだ!」
横薙ぎの攻撃レンジから退いて間合いを取り、ホーネットを睨みつけたまま、ドレスからのぞかせた右膝の包帯をほどくネシェル。
それで後ろ髪を縛って纏め、もう一度両足でコンクリートの地面を踏みしめた。
ふうー、と深く息を吐き出し、ネシェルが光を放つ両眼に力を込める。
「やっと体があったまった。もう手加減しないから」
「なるほど。昨日はケガのせいで本来の力が出せなかったということか」両手に持ったナイフを陽にかざし、ホーネットがニヤリと笑った。「しかし、やはりその踵の高い靴を脱がなかったのはまずかったな。威力半減だ。脱ぐチャンスは今しかなかったのになっ!」
深い間合いを一瞬のうちに縮め、直線の軌道でナイフを突き刺すホーネット。
迷いもなくその切っ先が狙う先には、ネシェルの心臓があった。
「別に死んでいてもこちらはかまわないのだよ、ラビ」
ネシェルの抱いた疑問に、ホーネットが勝手に答え始める。
「式の後で花嫁が突然死んだ。それでつじつまは合う。おっと、その前に、リングの交換だけはすませておかなければならなかったな。それまではギリギリ生かしておくことにするか。その左手だけでも!」
ホーネットの邪悪な毒にあてられ、退いたヒールの踵が地面にひっかかり、再びよろめくネシェル。
その焦燥の表情を見逃すホーネットではなかった。
「さらばだ、愛しの我が妻よ!」
凶刃の輝きを受け、ホーネットの両眼が狂気の光を放った。
その刹那、ホーネットが繰り出したナイフが、カツ、という音を立ててその場にとどまる。
足を大きく振り上げたハイヒールの裏側に、刃先が刺さって止まったのだった。
「く!」
焦るホーネットを冷静に見据え、ナイフを受け止めたヒールを捻って弾き飛ばすネシェル。
続けざまに払われた別の一本も、一閃のまわし蹴りによってその手首ごと砕き折られることとなった。
「ぐああっ! 手が!」
左手を押さえてホーネットが後退する。
その顔は無様なほどにゆがんでいた。
まるで悪妻に怯える恐妻家のごとくに。
「これでもうリングの交換はできなくなったわね」
「笑わせるな! 低能な小娘の分際でこざかしい! まだ右手が無事だ! 足も両方ある。鍛えに鍛え抜いた腹筋もだ。やれるものならやってみろ!」
「だったら次は首から下をまるごとへし折ってやる!」
「ひいいいっ!」
地に置いた左足を起点に、ネシェルの猛ラッシュが始まる。
右から左。
右から返しての右。
右、左、右、左、右、左、左、右。
連続の蹴り技は常に一定の弧を描き、美しいリズムと曲線を奏で続けた。
そのリズムに同調するように、一億の値を彩る装飾品の数々が、花吹雪のごとくに弾けては飛ぶ。
開かれた純白のドレスの裾が青く澄んだ空の彼方へと融け出し、さながら花びらの舞いのようだった。
その幻想的な光景に、立ち会い人の立場すら忘れ、ラファルが心を奪われる。
「美しい……」
それは遠巻きに見守るホーネットの部下達も同様だった。
「花嫁が舞っている」
「美しいぞ」
「これほど美しい花嫁ならば、誰が奪いに来ようと不思議ではない」
「彼女こそ、幸福の花嫁に相応しい」
「それに比べてうちの社長のあの醜い姿はどうだ」
「みっともないな」
「情けないぞ」
「断じてあの花嫁には相応しくない!」
「断じてだ!」
「俺の方が!」
「いや、俺の方が」
「いや、どっちも無理だ!」
「というより、むしろ俺も蹴られたい」
「むしろ俺もだ」
「いや、俺こそむしろだ!」
無数の蹴りをまともに浴びて意識が飛びつつあるホーネットが、顔をぱんぱんに腫らし、ほげほげと天を仰ぐ。
その顔を哀れむように眺め、ため息まじりのネシェルがホーネットに背中を向けた。
ふいに訪れた一瞬のチャンスに、ともし火となりかけていたホーネットの邪心が反応する。
もとよりすべてが露呈していた無防備なネシェルの背中目がけ、ホーネットは邪悪な爪を突き立てようと音も発せず飛びかかっていった。
すうう~、と深呼吸し、肩を高く高くいからせるネシェル。
ホーネットが違和感に気づいた時には、すべてが手遅れだった。
キラリ両眼を煌かせ、腰だめの姿勢から繰り出した渾身の掌底を、振り向きざまに見舞うネシェル。
それはがっしりと根を張った下半身から大地の力すら伝え、ホーネットの身体をくの字に折り曲げながら、そのみぞおち深くへと突き刺さっていった。
「ぐええ!」とうめきあげ、数メートルも吹き飛んでいく哀れな新郎。
怯えるその顔を見下ろし、這いつくばって逃げ出そうとする恐妻家の夫を、妻が後ろから追い詰めた。
「どうして靴を脱がなかったのか教えてあげる」冷ややかにそう告げ、ホーネットを足蹴にして踏みつけるネシェル。「こうやって、あんたを思い切り踏みつけるためよ」
ぎりぎりと奥歯を噛みしめながら。
「くえぇ……」
白目を剥き悶絶するホーネット。
ぴくぴくと痙攣しながら燃えカスとなった本日の主役たる社長兼新郎の無様な最後に、ラファルはこめかみを押さえて目をそむけることしかできなかった。
途端に巻き起こる部下達の大騒ぎ。
「うわあ、社長が花嫁にやられた」
「うわあ、社長が花嫁に落とされた」
「うわあ、社長が花嫁に負けた」
「うわあ、社長が花嫁の尻に敷かれた」
「うわあ、かっこ悪いぞ」
「うわあ、ざまあみろ!」
「ブラボー!」
「鬼嫁の勝ちだ!」
「鬼嫁かっこいいぞ!」
「鬼嫁万歳!」
「ブラボー!」
その客観的な感想に、はっとなって我に返るネシェル。
ラファルと目が合い、にょきっと丸出しになった太ももを慌てて引き戻した。
「これはまた、お恥ずかしいところを……」
「いえ」咄嗟に照れたようにまた目をそむけ、ラファルが楽しそうにくすっと笑った。「素敵でしたよ」
「……」
その頃、クフィルとファントムの対決は熾烈を極めようとしていた。
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