「学校には言っといたから。もうあんた学校やめるって」


 驚いたのは翌日の母の言葉だった。そこまでしてくれる事に期待をしていなかっただけに母のこの言葉は予想外だった。


「ありがとう」


 思わずそう言ったが、よく考えれば僕は間違っていた。

 行かないと言ったからって、二つ返事でそれを処理していまう親なんて正常じゃない。これで転校の処理でもしてくれるのであれば別だが、それ以降母がそんな動きを見せる事は当然のようになかった。

 母にとって、僕のこれからなんてもはやどうでもよくなっていたのだ。


 その頃から僕は深夜徘徊が趣味になっていた。人気のない静かな夜だけが僕の存在を認め包み込んでくれた。ずっと味わう事の出来なかった満足感だった。そうして僕は毎日のように夜を練り歩いた。だが、その平穏すら僕には許されなかった

 いつものように僕は夜の中に溶け込んでいた。しかしひんやりした夜風を浴びながら気分よく歩いていた。だがその日はどこか違った。何かに空気を邪魔されている。そんな微かな違和感がひっかかって外れなかった。そして程なくしてその正体を知る事となった。



「おい」


 唐突にドスのきいた声が僕の背中に突き刺さった。驚いて振り返るとそこには父の姿があった。


「お前、何やってんだ?」


 もうずいぶんと姿を見ていなかった姿。

 何故こんな所に父がいるのか。

 ここにいるという事は、家に戻ってきたのだろうか。

 だがもうそんな事はどうでもよかった。


「何って。別に関係ないじゃん」


 今更父親面される筋合いもないと僕はぶっきらぼうに答えた。

 僕が何をしていようが、そっちがしてきた自分勝手に比べれば何て事のない行動だ。


「あ? なんだこのガキ。調子のってんじゃねえぞ」


 低くどっしりとした声は僕の恐怖心を無理矢理叩き起こすほどに鋭利だった。その瞬間怖くて僕は走り出していた。


「おい! 待てコラ!」


 もうそれは我が子に向けるような言葉ではなかった。尖った声はそれだけで心を抉り取

られるような気分にさせた。

 昔は違った。かわいいなと眩しい笑顔で僕の頭を撫で、優しく接してくれた。それが今やまるで正反対だ。

僕はまた泣いていた。なんでこんな人生になったんだ。僕が何かを間違えたのか。僕はただこの世に生まれてきただけなのに。それなのにこの仕打ちはなんだ。今の僕にはどこにも落ち着いて過ごせる場所はなかった。

 気付けば鬱蒼とした木々の中を僕は走っていた。その後ろから荒々しい足音が追いかけてきていた。


 ――僕は今何から逃げてるんだろう。


 ふと冷静によぎったその思いは、僕の足に急速にブレーキをかけた。

 その瞬間、全てがどうでもよくなった。


 ――もう、いいや。


 僕はそこで足を止めた。そして後ろを振り向いた。

 その時になって僕は、ここしばらくまともに父の顔を見てきていなかった事を知った。

 荒々しく肩を上下させ呼吸する目の前の男。吊り上った目とこけた頬。中途半端に生えた髭。それはもう僕の知っている父親どころか、他人とも呼べるほどに遠いものだった。


「追いかけっこは終わりか?」


 父だったモノがのそりのそりと僕に近付いてくる。なんとなく、ああ殺されるのかもなと思った。でもそれで良かった。死は今の僕にとって救いでしかなかった。自分で自分を殺す勇気もなかった。だったらちょうどいい。

 父は僕の目の前で足を止めた。

 僕は父が自分を殺してくれる瞬間を待った。

 父の手が僕の方に伸びてくる。


「お前は本当にかわいい顔をしてるな」


 自分の間違いに気付いた時にはもう遅く、父の真っ直ぐな欲望が僕の服を乱暴に剥がそうとした。父の目的は僕が思っていたものとはあまりにもかけ離れていた。


「間違いなんだよ。お前が男だなんて。なんで男なんだよ。そんなに綺麗な顔してるくせに、何で男なんだよ」


 必死に抵抗するものの尚も父の手は力を緩めない。父の手が乱暴に体をまさぐりながらその下まで忍び込もうとしてくる。今まで感じた事のないおぞましさが全身をかけめぐる。


「や、め……!」


 ――どうして?


 仕事で疲れていても、幼い僕に嫌な顔一つせず付き合ってくれた。いろんな所に遊びに連れて行ってくれた。僕の手を引いて、歩幅の小さい僕を心配して何度も僕の様子を確認してくれた。

 だが今、あの時間がまるで嘘や幻のようにその手は乱暴に僕を汚そうとしている。


「やめろ!」


 僕は力を振り絞り父の体を思いっきり押した。その瞬間、全身がふわりと浮きあがった。


 ――え?


 地面の感覚が消失し、ひゅっと小さく風が耳の横を通り過ぎた。何が起きたのかも分からぬまま浮遊感に支配された。

だが間もなくして激しい衝撃が全身に伝った。痛いという感覚が追いつかぬまま頭が激しく揺れ、首から上が吹き飛ぶような衝撃が数度続いた所で、意識は一瞬で白に塗りつぶされた。


 ――これでもう、終わり……?


 これまでの生に思いを馳せる事も出来ぬまま、僕は自分の命に幕が下ろされていくのを黙って見つめる事しか出来なかった。

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