ホリー・シェリンガムとアルバ・ホーン

伊達隼雄

ホリー・シェリンガムとアルバ・ホーン

「アルバ! アルバ!」


 大きな声で二度呼ぶ時は、あらゆるものを放ってさっさと私のところに来い――声の様子からしても、お嬢様は不機嫌らしい。

 私は洗い物をそのままに、手だけ水で流して玄関に駆けた。


「お帰りなさいませ、お嬢様」

「アルバ、食事よ! 今すぐ何かを作りなさい!」


 あんた飯食いに行ったんだろうが――とは、口が裂けても言えない。


「かしこまりました。しばし、お時間を」


 私は召物を脱がせながら、主が所望するであろう献立を組み上げる。イライラしているので、なるべく食い出があるものがいいだろう。お酒はかえって散らしすぎてまずい。サラダは多めに――


 そんなことを考えながら、お嬢様の着替えに入ろうとしたとき、私はその身体にある印に気づいた。


「今は聞かないでちょうだい。あとでぶちまけるから」


 私の未熟で、僅かに手が止まった瞬間の思考を読まれてしまった。主を煩わすのはメイドとして減点ものだ。

 着替えが終わり、お嬢様は食卓についた。私は新聞をそばに置くが、手を伸ばす様子はない。



 ホリー・シェリンガムは二十八歳。さほど有名ではない資産家の長女に生まれている。二十歳を過ぎたとき、一人暮らしを決意。実家を飛び出し、とてもめんどくさい現在の住居で仕事をしながら静かに暮らしていた。

 これが荒れるようになったのが、妹たちが先に結婚してから。親からの催促もうるさく、シェリンガムは荒れに荒れた。そうしているうちに、家事も煩わしくなり、メイドを雇うことになった。そして、採用されたのが私――アルバ・ホーンというわけだ。


 きっかけは簡単なことだった。私は幾度となく、シェリンガムの屋敷を見ていた。朝のアルバイトの途中でいつも目の前を通り、そこに住むであろう令嬢に心を馳せていた。

 シェリンガムがメイドの募集をかけたとき、私はこれを運命であると思った。私は救いようがなく、ロマンチストだった。

 学校に入学した時より、初めて男性の家に行った時より、はるかに胸を高鳴らせながら赴いた面接。あの日のことは今でも覚えている。



 私以外に誰もいなかった。

 シェリンガムは「うわっ、本当に来た!」と驚いていた。予定の時間より二時間遅れての面接開始だった。面接は三分もせずに終わった。即採用だ。



 格好から入るべしと言うお嬢様と町にエプロンドレスを買いに行ったとき、私は仕立て屋の職人から「変わった奴がいたものだ」と言われてしまった。

 シェリンガムは、とても美しい。しかし、内面がとても悪い。子供っぽくて、気が短くて、人を見下し、わがままを金と権力と美貌で押し切る。負の面を強く持ち、それを隠そうともしない。町でも評判はよろしくなかった。


 お嬢様の評判を知らず、子供じみた憧れだけでメイドになろうとした私がいけなかったのだ。シェリンガムと暮らすようになってからというもの、私は苦労の連続である。給料も休みも出るので、職場環境が悪いというわけではない。何より、窓から見る景色は最高だ。しかし、他でもないシェリンガムが優美な仕事の瞬間を断ち切ってくれる。ある時は、落ち込みで、ある時は怒りで、ある時は喜びで。

 私の人生は、シェリンガムの屋敷を見つけた時に決まっていたのだ。


「アルバ、お酒」

「かしこまりました」


 こういう機嫌の時に酒を飲ませると明日が悲しいことになるから避けていたのだけれど、言われたのでは仕方がない。安い果実酒を出して、気持ちを下げてもらおう。


「注いで」

「はい」


 酒瓶を開け、レードルで適量をすくいあげる。グラスはお嬢様の目の前に持ち上げ、果実の色に染まるわずかな時を堪能してもらう。シェリンガムがうっとりする瞬間なのだ。それを知った時、私は何度もこの動作を練習した。お嬢様の世界の全てが美しくあるように、私は必死だった。


 コトン。グラスをテーブルに戻す。

 お嬢様は一気に飲み干された。


「次」

「はい」


 同じように注ぐ。

 今日の荒れ方は少しまずい。着替えのときに気づいていたが、殿方と何かあったのだろう――



「食べ物。早く」

「かしこまりました」


 果実酒を持っていこうとすると、止められた。仕方なく、その場に置いておく。


 食べてくると言って出ていったので、何も用意していない。私が食べていた、タコを添えた魚介のスープなら温めるだけでできるけど……今、食べてくれるかな。バゲットをつければ大丈夫か。何よりも、機嫌を直してもらわなければならない。

 彩りを直し、コンロに火を入れる。その間もずっと、どうしよう、どうしようと悩んだ。

 シェリンガムはひどい人間だが、私が仕える人だ。何よりも敬愛すべき人だ。彼女の悩みなど、早くどぶにでも捨ててしまいたい。その術を知ることができれば――


「いけない、いけない」


 少し時間を置くことをお嬢様に伝えなければ。

 私はちらっと火を確認したあと、卓で酒を浴びているであろうシェリンガムに向かった。


「お嬢様、もうしばしのお時間をいただきたく――」

「あああああああ! ああ! うう! あううう! ふぬ! ふぬ! あううう……!」


 タイミング悪し。感情の沸点に到達したらしく、大泣きして項垂れていた。手が暴れている。

 私は急いで駆け寄り、酒瓶とグラスが破壊される前に遠ざけた。

 彼女の背をさすろうとしたが、振り払われた。しまった。これは私が悪い。触れてよしと言われなければ、やってはならないことだ。


「食べ物ぉ! 早く!」

「しばしのお時間をいただきます。すぐに、温かなスープが出来上がりますよ」

「温かくなんてないわよ! うああああ! うう!」


 冷たくされたらしい。


「お嬢様、ご安心を。スープは温かいものです」

「知ってるわよ、バカ! ううう……」


 お嬢様の泣き声がみるみる小さくなっていく。本格的に落ち込み始めた。このあとにくるのは、愚痴である。

 私は、少し下がって控えていた。


「うう……アルバぁ、アルバは結婚しないの?」

「はい」

「なんでよ。十九でしょ」

「お嬢様のそばにいるためです」

「しなさいよ」

「一秒でも長く、そばにいるためには不要です」

「私はいたくないわよ。結婚すればいいじゃない。バカな男つかまえればいいじゃない」

「不要です」

「……不要じゃないのよ、男にとっては。あいつらバカだ。クズだ。女をアクセサリーぐらいにしか考えてないんだ。だから値踏みばっかりするんだ。見え見えだ。結婚してやるって思ってる。してやるってなにさ。バカ。バカ。見下されるの嫌いだ。見下してやる」


 全てにおいて自分に帰ってくる危険性をはらんだ呪詛が延々と呟かれた。


「妹が結婚してるからなんだってんだ。それを言えば私が首を縦に振ると思ったのか。私は私だ。妹じゃない。関係ないじゃない。比べるな。比べた奴は逆に比べてやる。あいつ嫌いだ。楽しめなかった。焦るにしたってひどすぎだ。言ったら言ったであいつクズだ」


 ――要するに、集まりの中、バカな女と断定されて扱われたらしい。

 私は心の中で溜息をつく。お嬢様がバカなのは事実だからだ。

 これがあるから、行かなくていいのに……。


「アルバ、食べ物」

「もうすぐです」

「食べたい」

「もうすぐです」

「楽になりたい」

「私がいます」


 お嬢様の呪詛が止まった。泣きはらした顔でこちらに向き、手招きする。

 私は、それに従った。

 ほどよく近づくと、丸められるように抱きしめられた。よだれと涙が髪にまとわりつきそうだ。吐息が生暖かい。酒くさい。


「アルバ、アルバ、助けて」

「無理です」

「助けてよぉ……アルバ、助けて」

「無理です」


 そろそろ、スープを取りに行かなければならないのに、お嬢様は放してくださらなかった。私も、特に抵抗しなかった。話しかけられれば相槌を打つだけだ。


 ホリー・シェリンガムはダメな人間だ。しかし、悪意にはことさら敏感で、それを真っ向からぶつけられると、何よりも深く傷つく。そうであるのは、シェリンガムの本質が善人であり、他者の善性を無意識に求め、それが全てに等しく備わっていると信じ込んでいるからだ。

 シェリンガムは、脆い人間だ。

 おそらく、一生涯これは続くだろう。


 しばらくして、解放された私はスープを出した。お嬢様は黙々と口に運んでいった。感想などない。自己嫌悪の渦がその身を包んでいるうちは、何もしゃべる気になれないのだ。


 ふと、私は窓から外を見た。夜行性の鳥が枝にとまっていた。瞬きだけで、去れ、去れ、と念じてみると、どこかへと飛んで行った。

 鳥は、よく見る。


 ここは樹の上にある屋敷。孤独に打ち震える私のお嬢様が作り上げた砦。誰もここには悪意をぶつけられない。大木の緑がそれらすべてをやわらげてしまう。

 おやすみなさい、お嬢様、おやすみなさい。

 あなたはいつも巨木に抱かれているのですから。


 なんと愚かしい人であっても、あなたはいつも壊れかけるその身なのです。

 ここで休んでください。葉はいつも風の音符に乗せて奏でていますよ。


 下界に降りればあなたはいつもの悪いお嬢様。またそうあってください。

 ホリー・シェリンガムのそばに、いつまでもアルバ・ホーンは控えています。



「アルバ、眠い。戻っていいわ……」

「かしこまりました」


 寝室でしばらく、無言の時を過ごした私たちは、お嬢様の命によって一日を終える。

 部屋の明かりを消す。月光だけが差し込む。


「アルバ」


 今日一番美しい声は、月の女神のものではない。


「おやすみなさい。今日もありがとう」


 女神よりも、美しい人がそこにいる。


「おやすみなさい、シェリンガム」

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ホリー・シェリンガムとアルバ・ホーン 伊達隼雄 @hayao_ito

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