それは何かと尋ねたら

我是空子

善行≠善果

先日、セールでごった返している店内で、迷子の男の子と遭遇した。

男の子は零れそうな涙を小さな男のプライドで必至に堪えながら「マ マ、ママ」と小さな声で母親を呼んでいた。

はぐれてしまったのかも?という現状を子供なりに判断をしようとする気持ちが不安と混濁し聞こえるか聞こえない小さな声となる。


人間は何かしろの不測の状況に陥った時、まず初めに自分に問いかけるように小さく呟く習性があるように思う。

例えば、宝くじに当たったとしよう。「マジで?」「やばっ。」などと出る言葉は現状を把握しようとしているからではないか?


周りは、買い物に集中する女性ばかりで腰の高さに達するか達さないかほどの背丈の男の子の存在に気づかない。

普段帽子をかぶって歩いているせいか、私の視野は比較的足元にあることが多く、母親に持たされたのだろう沢山のセール品の洋服をギュッと抱きしめ、周りを見回しているその男の子が目に入ってしまった。


「迷子」。


一度は通り過ぎるものの、もう一度、もう一度。そして、もう一度振り返ってみる。

人混みの通路で小さく「ママ」と小さな声で母を呼んでいている。

細く小さな男の子が片足を軸にして前に後ろに円を描くように動く様はまるでコンパスのようだ。

私は別段優しい人間でもない、子供を聖母マリアさんのように博愛しているわけでもない。でも時折、幼いこどもに対してということではなく、困っていそうな他人ヒトに対して釣り糸の先についたブイのように正義感のようの人間愛のようのものが浮き沈みする。

そんな風にきまぐれに善良人にぶって親切にして良かったと思えることなど年賀状のお年玉があたるような確率だ。


まだ私が高校生だった頃。

放課後、帰宅して着替えを済ませ、近所のスーパーへちゃりんこで行くと、小学低学年ほどの男の子が駐輪所に行儀よく止められているママチャリを蹴り飛ばし、ドミノ倒しにするという、親の顔がみてみたいと思わせるような悪事を働いていた。

「そんなことしたらアカンやん!手伝ったるから一緒に直そう!」

犯行現場を押さえられた男の子は逃げることもできず、自分で蹴り倒したママチャリをしぶしぶ起こし始めた。

「何やってるの?帰るで!」と呼んだのはその男の子の母親で、自分のバカ息子が駐輪所で何をしていたのか、なぜ自転車を並べているのかすら子供本人にも私にも聞こうともしない。

それどころか、

「おばちゃんの自転車に勝手に触ったらアカンやろ!」

今、おばちゃんって言いました?確かに高校時代おデブちゃんだった私は歳よりも老けて見えたかもしれないけれど、子連れの母親におばちゃんと呼ばれる高校生はそうそう世の中には居ないと思うのです。


つまり、がらにもなく親切ことなんてしなければ良かったと思う方が圧倒的に多いとういうことになる。

それなのに、その日は見つけてしまったその男の子を置き去りにすることができず膝を下した。


「どうした?ママと来たの?」

私を見る男の子の目には不信感が溢れている。

前方の視界を遮るように深々とかぶった帽子の奥に表情は見えるわけがない。子供でなくても口だけしか見えない顔というの表情に乏しく畏怖を感じるのは普通の事だ。わたしは帽子を脱いだ。

「ぼく。名前は?」

「しゅん。」

「ママの名前は?」

「・・・。」

「ママがどんなお洋服着てたか覚えてる?」

「ううん。」

母親に持たされたのだろうか、腕いっぱいに抱えた未来の商品で男のは少しずつ零れる涙を拭く。

「大丈夫。ママ、探そうね。一緒に。」

小さな肩を両手で摩りながら立ち上がり、周りを見渡す。

探そうと言ったものの、この子のお母さんの名前も分からない。しゅんくんのお母さんと叫べば良い。

セール会場でなんだかわからない香水の匂いが混じった熱気のこもる空気を肺に入るだけ吸い込んだ。「しゅ」。

「しゅん!どこに行ってたの?探したじゃないの!」

子供を見つけた安堵というよりも、面倒なことにならなうて良かったと言うような声に感じる。

「知らない人と話したらダメだってママいつも言ってるでしょ!」

迷子を助けるなんて大袈裟なことは言いませんけれど、お母さん探しを手伝おうとしていたというのに、一瞬にして誘拐未遂の容疑者になってしまった。警戒と言うより憎悪の目を男の子の母親はわたしに向けながら二人は人混みの中へ消えて行った。

「しゅんくん。ママ見つかって良かったね~。」

肺をいっぱいにした空気は徐々に萎んで行く白風船のように少しずつ空っぽになった。風船の上にきっと書かれていただろう標語「一日一善」はもはやなんと書かれていたのかわからないほどに小さくシワシワに形をかえた。

「わたし、連れ去ろうとしたわけじゃないんですけど」風船に残った空気を吐き出し、帽子を被り直した。


自分の都合で小さな子供の手を放し、小さな胸を一瞬でも不安にさせる母親に限って自分の至らなさが見えておらず、自分の不出来さを棚に上げて他人の親切を疑ってかかり、自分以外の世間を責め立てる。世の中一体どうなってるんだ?

良い教育を与え、良い学校に行かせ、何不自由なくものを与えてやることは子供を育てていく上で大切な事だろうし、必要な事だろう。

でも、自分の義務や責任は果たされず、他人を疑ってかかり、他人を責め立て、他人の悪口だけを聞かされて育つ子供が明るい未来を作っていけるとは思えない。

孵化したひよこが初めて目にしたものを親と思い、付きまとうように、悪であろうが善であろうが、子供は自分の周りにいる人間の癖や素行を無限のスポンジのように吸収し模写するわけだから、あの男の子の母親ももちろんのこと、世の中に居る大人が良いお手本になることが必要なんだろうと思うんだな。

未婚者でも、既婚者でも、子供がいても、いなくても、大人としての義務。

そういう私も気まぐれな善良人なわけだから、大人としての義務を果たせているのか、周りに警鐘するまえに、自問することから始めなきゃ。

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