第3話 前へ、前へ

 チチチッと鳥の囀りを耳がピクリと受け取る。朝の気配を感じ取りながら、ゆっくりと体を起こそうとするがそれは何かに遮られた。

見れば昨日の少女が僕の体を両腕で掴んでいる。

「……」

「んんにゅう……わん……わ」

 幸せそうに目尻と口元を緩ませた少女の顔がコロリと僕の瞳に飛び込んだ。

ああ…そいえば…そうだった。

 今までの経緯をはっきりと思い出した僕はとりあえず周りに誰もいない事を確認した。

だが今外に出ようと動けば、僕の鱗はきっと彼女を傷つけてしまうだろう。

怪我を負わされた相手をまさか撫でる程この子も無神経ではないはずだ。

 僕は彼女を起こす事にした。

『ガ…』

「わん…わん…」

『ガア……』

「ジュリアァ…それ…私、の…。私の……ステッキなのっ!!」

 脈絡のない悪夢の末、終劇と共に起き上がる。

そのヘッドバッドは案の定僕の横腹に激突。

岩のようなそれはその衝撃真っ向から受け止め、跳ね返した。

「痛ァい……」

 少女は透き通るように白い額の少し赤くなった部分を目を開けずに擦り、その内頭を左右に振り始めた。

 目をつぶったままメトロノームのように、頭の尻尾を揺らす彼女。サラサラと砂のように流れる朝の時間を噛み締めてしまっている現状に僕はハッとした。

こんな事している場合じゃない。他に人間が来る前に逃げなくては。

『ガウっ!』

「ンぬぅっ!」

ビクリと肩を跳ねさせ、止まる彼女。

起きているかもわからない垂れた目尻を擦り、今の状態を飲み込んだかのように口を開いた。

「そうだ、あなたの名前考えたの」

よし、きっとまだ夢の中だ。

もう1度鳴こうと息を吸うと、彼女は不意に僕の体を抱き寄せた。

「わんちゃんの体、固いの。ゴツゴツしてるし…。でも、温かいね」

服の内側にある、大きく柔らかな何かに鼻腔を塞がれる。

「……」

『……』

あれ、寝てない?この人。

止められた呼吸が限界を迎え、慌てて手足をばたつかせる。

腹を叩くその衝撃に彼女はハッとし、抱きしめていた腕を緩めた。

「あ、ごめんね。わんわん、苦しい?」

わんわんって何だ。

「おすわりもできるんだ。偉いの」

犬じゃないってのに。


 疲れてきた僕の胸中を他所に、彼女は徐に突然胸を張り、わざとらしく咳をする。

栄誉ある命名式の始まりのようだ。

僕もその式に見合うように礼儀正しく、鋼鉄のムチのようにしなる尻尾を体に巻き付けた。

「わんわんの名前は…『スルト』!」

ドクン、と心臓が跳ねるのを感じた。

どこかで、聞いたことのある名前、だ。

でも、確か、きっと、僕の名前では…なかった、はず……だ。

じゃあ…僕の名前、は………。

 「あ、間違えたの。それは違う人のお名前」

春の日差しのように柔らかな声に僕の思考は遮られる。

ジットリと濡れた本体を他所に、彼女は再び口を開いた。

「あなたの名前は『マス』!」

 二文字のゴロの悪いそれを、彼女は嬉しそうに何度も宙に浮かべる。

マス…マス……。

馴染まないその名前に、僕は居心地の悪さを感じ身じろぎをした。

 「…あ、私の名前、私イリデン・フラール…っていうの。イリーちゃんって呼んで?」

朝の静かな時間は砂時計のように、正確な時を告げずに流れていく。鳴いていた鳥はいつの間にか飛んでいき、この場に残るのは僕と彼女だけ。途方に暮れるのは僕だけだと信じたい。

 すると少女…イリーは突然立ち上がり。

「行こ」

僕を呼び、小屋の外へ歩き出した。

太陽の光に眩しく光る、綺麗な肌。

「マス、行こう」

 小屋の影に隠れる僕を、彼女は呼んだ。

 ついていく理由もないし、行ったところで何が起こるかわかったもんじゃない。

でも僕の右前足は彼女の元へと土を踏んでいた。

まだ耳に慣れない名前を乞うように、あの肌の温もりを求めるように、前へ。

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