ハルピュイア

Harpyia Harpyia、その注目すべき生態

                        K大学鳥類学助教授 鳥飼とりかい啄木たくぼく

 男性の人生の大半は、孤独を埋める作業に費やされる。

 ネオン街を惰性で飲み歩く男たちの酩酊に濡れた双眸の奥を見たまえ。馴染みの娼婦に会うために足繁く色町に通う男たちの物悲しい恍惚に染まる頬を見たまえ。もっと内気な青年になれば、ただ意中の女性を胸に描きながら、触れられない切なさに、人知れず身悶えることしかできない。

 かれらの誰しもが、それぞれの胸に言葉にできない深い孤独を抱えている。あるいは、夜の街に通い詰めるほど、その闇は際限なく深みを増していくのだ。

 鬱屈とした日々を過ごす愛すべき同胞たちすべてに朗報である――いまから此処に書き留めるわたしの研究報告は、多くの孤独に苦しむ若者を、あるいは希望を失った老人を、絶望の淵から救うことができるだろうと信じる。

 このたびわれわれがニューギニア島で発見した新種生物――学名Harpyia Harpyiaを、もっと多くの人々に知ってもらえれば、あるいは――と。



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2013 / 06 / 09 22 : 08 : 26


 つぐみさん、今夜はどうもありがとう。ひさしぶりにいい酒が飲めたよ。お酒の善し悪しというのは、なにを飲むかではなく、結局のところ誰と飲むかに尽きるのだから。つぐみさんみたいな華やかな女性と飲む酒はほんとうに格別だ。日々の研究での疲れが、みるみる癒されていくようだよ。

 なんせぼくがふだん研究室でやっていることといえば、次世代シーケンサーによる鳥類のゲノム解析。de novoアセンブルの手法と併せて、すでに配列の決定しているニワトリのゲノム配列を鋳型に対象配列を貼りつけるマッピングの手法を用いて解析を行うというものなんだけど、ひどく地味で骨の折れる作業でね。

 ぼくが鳥類の生態や遺伝子に興味をもったのは、子供のころ、恐竜が好きだったからだ。現生鳥類はドロマエオサウルスのような小型獣脚類から進化したといわれていて――おっと、この話はここまで。

 ぼくはこのとおり、若い女性にとっては退屈な話しかできない男だ。だけど、きみはいやな顔ひとつせずきいてくれた。ぼくはそれが、すごく嬉しかった。明日からまた一週間、がんばれる。週末にまた、店で会おう。



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 日本の国土の二倍の面積を誇るニューギニア島は、別名“鳥たちの楽園”と呼ばれている。現在、確認されているだけでおよそ八〇〇種におよぶ多種多様な鳥類が飛び交い、そのなかの四〇〇種がカンムリバトに代表される島の固有種なのだ。

 なかでもとりわけ特異な形態をもつハルピュイアは、これまでUMAマニアの間ではその名を知られていたものの、その正体は永らくあきらかにされていなかった。存在自体、ほとんど都市伝説のような扱いでしかなかったのだ。

 それには理由がある。ハルピュイアの棲息する島中央高地の雲霧林は、現地パプア系部族によって禁域として扱われており、よそ者の侵入が頑なに拒まれてきた歴史があるからだ。

 過去、幾人もの動物学者、植物学者がこの地へ入域を試み、そのほとんどが這う這うの体で追い返されてきた。残りのわずかな例外は、人知れず現地部族によって殺害されたとも噂されている。穏やかではない。

 わたしとパートナーである鳥類行動学者、長玄坊ちょうげんぼう海人かいと博士が入域に成功するまで、どれだけの苦労と権謀術数を要したかは、軽く付記するに留めよう。

ただ私にいえるのは――この研究のためならば、あらゆる古い道徳にいっさいの価値を見いださない、ということだけだ――。



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2013 / 07/ 02 23 : 22 : 33


 今夜もとても楽しかった。恥ずかしいことに、ぼくはあの手の店で遊んだ経験は初めてで、いわゆる夜の女性というものに少なからず偏見があった。つぐみさんのようなやさしい女性に会えるとは、思っていなかったよ。

 栗色の細い髪、白い肌、華やかで柔らかな雰囲気、甘い声――ぼくはきみに会って初めて、本物の女性というものを知れた気がする。大学や研究所で見てきたようなのは、女でさえない。きみは謙遜するけど、製菓学校の学費を賄うために夜の仕事に勤しむだなんて、だれにでもできることじゃない。パティシエになりたいという夢を語るきみをみていると、進むべき道はちがうけど、ぼくも負けていられない、と奮起させられる。

 また会いたい。週末が待ち遠しい。ぼくはいままで鳥類の研究で頭がいっぱいだった。変わり者だって、周りから莫迦にされて。でもきみに対しては、鳥とおなじか、それ以上に興味がある。いっとくけど、これは最高の褒め言葉だ。

 ぼくはもっときみのことを深く知りたい。どんな人生を歩んできたのか。なにが好きなのか。いままでに出会ったいちばんすばらしい本。すばらしい映画。会ったときに、またきかせてくれ。嗚呼、話の内容もそうだけど、きみの囀るような心地よい声を、いつまでもきいていられたら!



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 ハルピュイアはきわめて稀な進化を遂げた一属一種の亜鳥類とでも呼ぶべき新種生物である。体高約三〇センチ、嘴を持たず、前脚から発達した翼に三本の鉤爪を持つ。翼の色はまちまちだが、いずれも日本人の伝統的な着物のように艶やかで美しい。なにより、翼と下半身が鳥のそれでありながら、顔から胸までにかけて人間の女性の姿に酷似するという、きわめて特異な形態的特徴を持つ。流れるような長い睫毛、幽かに紅のさす白い頬、真珠のような唇に微笑を浮かべ、艶やかな黒髪や輝かしい栗色の髪を靡かせて仲睦まじく飛びかうさまは、神秘的でさえある。

 驚くべきことだが、ハルピュイアに雄はいない。正確にいうならば、雄も生まれるには生まれるが雛のうちに親鳥に殺されるのである。結果、ハルピュイアは雌だけで社会生活を営む――そして単為生殖によってのみ、その数を殖やすのだ。乙女のような、というさきほどの比喩表現は、此処に至って正確さを失う――彼女たちハルピュイアは、事実、そのすべてが穢れなき処女なのである。

 単為生殖はハチやハダニなど無脊椎動物だけにみられる生態と思われがちだが、そうではない。爬虫類の例ではオガサワラヤモリやビルマニシキヘビなど枚挙にいとまがなく、果ては世界最大のトカゲであるコモドオオトカゲについても二〇〇六年、ロンドン動物園とチェスター動物園の二カ所で単為生殖の例が報告されている。しかし、鳥類の単為生殖の例はハルピュイアが初めてであり、きわめて意義深い発見だといえるだろう。

 ハルピュイアの雄は雌に比べ、体格的にも免疫面でも極端に脆弱で、かれらを養育するのは種の保存の観点からコストに見合わない。彼女たちの単為生殖は、冷徹でありながら進化上の理に適ったシステムともいえる。苦しむことがないよう一瞬で雛の首を折る親鳥の手腕は、まさに見事のひとことだ。

 また、群れに年老いた個体がみられないのも、ハルピュイアのきわだった特徴のひとつである。正確な寿命はわからないが、恐らく老化が進んだ個体は群れを離れ、人知れず死んでいくのだろう。まるで醜く老いさらばえた姿を晒すのを厭うように。

 つまり、彼女たちはその可憐な容貌どおり、群れのすべてが純潔な処女であり、しかも群れは常に優美な若さに包まれている。なんという耽美的でロマンチックな生態だろうか。その姿はみる者すべてを魅惑し、癒してくれること請け合いだ。――



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2013 / 07 / 07 28 : 02 : 37


 店の外できみと食事ができるなんて、ほんとうに夢みたいだ。高い店でもないのに喜ぶそぶりをみせてくれたり、お酒を飲むペースも弱いぼくに合わせてくれたり、きみの細やかな心配りには感謝しかない。

 きみはとても品がある。ほかの女の子のように、やたらものをねだったりしない。ぼくのなさけない懐事情を、察してくれているのだろう。それでいてほかの客と変わることなく笑顔で接してくれる。ふしぎなものだ、そんなおくゆかしく可憐なきみだからこそ、かえってなにかしてあげたくなる。してあげなくては、と思ってしまう。来週はきみの誕生日だったね。その日ぐらいは、ぼくにもなにか贈り物をさせてくれ。



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 本項ではハルピュイアの発話能力について記す。彼女たちは人間の上半身により近い形態を持つゆえに、舌も肉厚で声帯も人間のそれに近く、オウムよりもさらに複雑な発話を可能とする上、なによりその声は人間のソプラノ・ボイスに似た美しさがある。

 ただし、ゲノム解析の結果、おなじ発話鳥類とはいえニューギニア島に群生するオウムとは系統学的にまったくの遠縁である。むしろ最古の鳥類と目される始祖鳥アルケオプテリクスの直系の子孫と考えるのが自然のようだ。始祖鳥は進化の袋小路に入って絶滅したとされているから、これが進化学上のどれほど大きな発見か理解して戴けよう。嘴がない、翼に生える鉤爪など、現生鳥類とは異なる特徴を数多く持つのもそれなら納得できる。発話能力を得るに至ったのは、収斂進化の法則によるものであろう。

 共同研究者である長玄坊氏はハルピュイアの群れでも特に美しい顔だちの黒髪の個体を選び――かれは彼女にスピカと名づけた――言葉を覚えこませようと試みた。

 文学にも造詣が深い長玄坊氏は、持ち前のシニカルな性格から、芥川龍之介の「侏儒の言葉」の一節をスピカに投げかけた。

「恋愛はただ性欲の詩的表現をうけたものである」ふん――とかれは鼻を鳴らす。「ほら、スピカ。いえるか?」

 するとスピカはやさしい微笑を浮かべ、こう答えたのだ。

「せつなる恋の心は、尊きこと神のごとし」

 それは樋口一葉が随筆のなかで師である半井桃水への慕情をしたためた言葉である――これにはわれわれもおおいに泡を喰った。当然にしてわれわれは、そんな言葉を教えてはいない。それに、これまで日本人がこの禁域に足を踏み入れたことがないこともあきらかだった。

 長玄坊氏はもう一度、こんどはジェロームの辛辣な警句を復唱させようと試みた。

「恋ははしかと同じで、誰でも一度はかかる」

 スピカは澄んだ声で答える。

「愛する人と共に過ごした数時間、数日もしくは数年を経験しない人は、幸福とはいかなるものであるかを知らない」

 スタンダールの警句だ――スピカはまるで文学少女のような聡明な眸でわれわれをみつめていた。どこまでも柔らかく、やさしい表情で。

一度ならず二度までも彼女が口にした思いがけない言葉に、われわれは声を失った。彼女たちハルピュイアがただ単純に人間の言葉を真似るだけではない、ということはあきらかだ。

 知能の高いオウムなどは言葉の意味を理解して人間の表情を読みとり適切な言葉を選んで会話することができるという。しかしいくつかのテストの結果、ハルピュイアの知能はそれほど高いものではない。オウムやカラスなどとは比較にならないほど、彼女らは愚鈍なのである。

 彼女らが生来的に持つ驚くべき対話能力の正体とは、いったいなんなのであろうか――。



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2013 / 09 / 29 23 : 39 : 53


 お誕生日、おめでとう。今夜はきみを慕う客がたくさん来ていて、ろくに話もできなかった。だからせめて、メールで祝わせてくれ。これからの一年間が、きみにとっていい日々になりますように。きみは若い、この先いくつも歳をかさねてますます美しくなるだろう、だけど、どうかいまのやさしさだけは、いつまでもそのままでありますように。

 今夜はきみのためにポンパドールを開けた。すこしでもきみの学費のたしになればいいんだけど。ただ、あとの客がリシャールを入れたから、きみはそっちのテーブルに流れてしまった。あんなにくやしかったことはない。きみは純粋な女性だ、あんないやみな男に靡くような女性ではないと頭でわかっていても、心穏やかではいられない。

 でも、今夜のことで決心がついた。ぼくはこれから大きな仕事に入る。ニューギニア島の鳥類の調査――しかも新種のね。いままでだれもみたことのないような、すごいやつだ。首尾よく日本に持ち帰ることができれば、莫大な研究費が入るはず。食性や繁殖、飼育法の研究結果しだいでは、新しいペットとして売り出すこともできるだろう。まさに、金の卵だよ。危険と困難を伴う道ではあるけど、ぼくはきみに少しでもふさわしい男になりたい。

 もし、もしもだ、仕事が滞りなく済んだら――正式に、ぼくの恋人になってくれはしないだろうか。



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 結論からいおう。彼女たちハルピュイアはあきらかに人間の思考を読みとり、その人間がもっとも欲する適切な言葉を選んで発話する。

 精神感応能力テレパシー――それはけっして荒唐無稽な話ではない。

 二〇一一年には、アメリカワシントン大学の神経科学技術革新センターで、てんかん患者に電極を埋めこみ脳の電気信号の種類を特定、電気信号から思考を読みとることができる可能性が示唆された。また、自然界には生体から放たれる微弱な電気をロレンチーニ器官で感知して索敵するシュモクザメという種のサメがいる。

 ハルピュイアの翼は、飛翔のためだけのものではない。パラボラアンテナのように周囲の電気信号を受信する、ロレンチーニ器官としての機能を持っていることがあきらかとなった。恐らく、彼女たちの精緻に発達した感覚器官は、われわれの脳神経系の微弱な電気信号を感知し、思考を読みとることを可能にしているのではあるまいか。

 長玄坊氏は長く連れ添った細君を交通事故で亡くしてから、恋や愛という概念に対しずいぶん辛辣な態度を貫いてきた。そうしなければ、自身の傷心に向き合えなかったのだ。芥川やジェロームのシニカルな言葉を引いてみせたのは、そのせいである。

 しかしスピカはかれの心の奥底に潜む恋や愛への希望を、細君との日々の幸福だった思い出を読みとり、言葉にした。長玄坊氏自身が、強く欲した言葉を。

 ここに至ってわたしは確信する――ハルピュイアは精神感応能力を持ち、その人間がもっとも望む言葉を囁くことができるのだ――と。



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2013 / 10 / 21 01 : 28 : 12


 つぐみ、なぜ返事をくれない? あれだけぼくのことを好きだと、また会いたいといってくれたのは嘘だったのか。

 いや――きみにとってぼくが大勢いる客のひとりにすぎないことはわかっている。きみの思わせぶりな世辞や媚態も、仕事のうちだと頭では理解している。だけど、心が、理解を拒むんだ。どこまでが本当で、どこからが嘘なんだ。まさか、すべてが嘘だったとはいうまい?

断ってくれてもいい。せめてそうしてくれれば、あきらめもつく。きみが拒絶するなら、それ以上の迷惑をきみにかけたりできない。ただ、せめて言葉をくれ。いまの宙吊りの状態が、ぼくにとってはこの上ない生き地獄だ。

 嗚呼、まさかあのリシャールをオーダーしたいやみな金持ちがきみの恋人なのか。そういえば先日、食事を共にしたときにみたきみの財布――ずいぶん高価なブランドものだった。あれもかれのプレゼントなのか。いや、それとも別の客の――。きみとオーナーとの関係についても、いろいろよくない噂をきく。信じたくない。きみは純粋な女性だ――そう信じているし、信じてきた。だけど、いったいなにがほんとうなのか、いまではもうわからない。

 頭がどうにかなりそうだ。決着をつけたい。ぼくを楽にしてくれ。きみの言葉はぼくにとって女神の託宣だ。わずかな返信だけで、たとえそれがどんな絶望的な内容であれ、ぼくはそれで生きる力を得られる。

 明日からニューギニア島に発つ。どんな手を使っても、例の新種生物を持ち帰ってみせる。それで得る莫大な金を、ぜんぶきみに差し出したっていい。

 どうか、どうか返事を。つぐみ! つぐみ!



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 長玄坊氏はその後もずっとスピカにご執心だ。もはや行動研究もおざなりに、一日じゅう恍惚の表情を浮かべながら彼女と語らいでいる。

 かれの細君も、文学少女だったという。そしてハルピュイアはみな、穏やかな気質で愛情深い。繊細な顔だちに華奢な肢体を持つスピカに、細君の面影をかさねるのもむりはない。

 長玄坊氏は、スピカを日本に持ち帰りたがった。しかし検疫の問題がある。わたしは説得したが、かれはきこうとしない。そうできないならスピカと島に残る、とまでいいだした。かれの眼つきはまともではなかった。マチェットを振りまわして、抵抗までする始末。

 仲間を置き去りにするのは、心が痛む。しかし現地住民に世話を頼むことで折り合い、そうせざるを得なかった。

 孤独は人を弱くも強くもする――しかし、孤独が人を幸せにすることはありえない。長玄坊氏の例にみられるように、ハルピュイアが今後あらたな愛玩動物として多くの人びとの孤独な心を救う可能性は大きい。精神疾患に対するセラピー効果も期待できる。

 ひとりに一羽が与えられるのだ。いっておくが、ハルピュイアは人間女性の代用品などではない。ハルピュイアはあらゆる面で人間女性よりも優れているのだから。優しく、美しく、裏切らず、完全に純潔なる処女!

 繁殖、食性、飼育法――ハルピュイアの詳細な生態研究は今後も引きつづき行う予定である。これは単なる鳥類学の研究ではない。もはや人類を孤独から救うための神学的考究であるとわたしは信じる――。



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 黄ばみ皺だらけとなった研究報告書を埃まみれのデスクに戻し――浅黒い肌の長躯の男は、深い溜息を吐いた。窓から漏れる光に、修行僧のような髭まみれの精悍な顔だちが泛び上がる――大きな双眸は、怯えるように震えていた。

 ぞっとする光景だった――デスクには、衣服を腐肉に爛れさせた白骨死体が、もたれるように朽ち果てている。そのそばには、錆びついた鳥籠が置かれ、一羽のハルピュイアもまた骨と化していた。かれらはまるで、添い遂げた仲睦まじい夫婦のようにさえみえる。

鳥飼とりかい――博士」

 男の声には複雑な抒情が含まれていた。それは個人的な怒りであり、同業者としての同情であり、友人としての悲しみだった。

「愚か者め。だから、いったんだ。危険だと――」

 蜘蛛の巣を避け、瓦礫を踏み砕き、廃墟となった研究所を闊歩するかれの名は、長玄坊ちょうげんぼうかいと。その頑健な肩には、クロームステンレス製仕様のレミントンM870が掛けられている。

 研究所の廊下に、跫音が響く。

 かれと鳥飼博士との付き合いは長かった。行動的な長玄坊博士とは対照的に、鳥飼博士は内気で繊細な青年だった。しかし私生活でいったいなにがあったのか、ニューギニアへの研究旅行の際、鳥飼博士はずいぶん変わり果てていた。眼つきも悪くなり、それまで以上に無愛想になった。あろうことかニューギニア島の禁域を守る部族をそそのかし、同士討ちさせて、その隙に強引に禁域に踏み入ったのだ。挙句、部族の屈強な男たちに賄賂を贈り、パートナーである長玄坊博士を島に幽閉し、単身、ハルピュイアの卵を日本に持ち帰ったのである。

 調べたところ、帰国後、かれはすぐにペット業者と取引をかわしている。金ほしさに研究結果を売った、とかれを批判する声もある。しかしいま思えば、それだけではないのかもしれない。

 鳥飼博士は、孤独な男だった。日本という狭い島国には一億三千万もの人間がひしめいている。だというのにかれのように孤独な人間ばかりというのは皮肉な話だ。もしかしたらかれは、研究報告にあるように、本気で日本にはびこる孤独という名の病を、新種生物ハルピュイアによって取り払えると信じていたのかもしれない。その愛情深さ、人間に近い姿、発話能力、純潔さによって。

 事実、ペットとしてのハルピュイアは瞬く間に普及した。金で買える恋人、金で買える家族、金で買えるソウルメイト、そんな悪魔じみたコピーをつけられて。SNSやソーシャルゲーム、恋愛シミュレーションにはまっていた若者が飛びつくのも、むりはない。いや――愛情をあきらめ、希望を失った中年や老人ならば、なおさらだったろう。

 しかし――長玄坊博士は、かぶりを振る。人間が生きる理由の多くは、孤独だからこそではないか。社会生活を緊密にし、複雑な社会性を築く。仕事に励み、愛する人を探し、あらたな家庭を築いていく。それらの原動力となるのは、常に孤独への忌避である。

 携帯電話。インターネット。テレビゲーム。あらゆる文明もまた、孤独を埋める側面によって普及してきた。逆説的だが、孤独こそが人間性、文明の出発点なのだ。

 ハルピュイアは望む言葉だけをくれる、究極の愛玩動物だ。けっして飼い主を傷つけたり、裏切ったりしない。ずっとそばにいて、添い遂げてくれるだろう。それは夢のような安穏な生活にちがいない。

 しかしハルピュイアの存在によって、もし、世界から孤独が完全に失われたら――?

 いうまでもない結果だ――リノリウムの階段を軋ませ、屋上のドアを開け放った長玄坊博士は、頭上に拡がる忌まわしい灰色の空を仰ぎみた。

 何十万羽にもなるハルピュイアの群れが、廃墟と化したコンクリート・ジャングルの上空を埋め尽くしている。可憐な微笑を浮かべ、美しく妖艶な姿態を優美に揺らしながら。

 東京はすでにこのざまだ。ニューヨーク、北京、ロンドン、パリ、ローマ、モスクワも同様である。彼女らが飛ぶその下に、いったいどれだけの孤独な男たちの死体が恍惚の表情を浮かべながら朽ち果てているのだろう。

 ハルピュイアが人間の孤独を完全にみたしてくれるならば、社会から活力が失われるのは当然だ。居心地のいい自宅から出ず、労働者は働くのをやめ、芸術家は創作を擲ち、家族はばらばらになって、世界はゆっくりと崩壊に向かう。

 世界に孤独なくして、人類の、文明の進歩はあり得ない。

「間に合わなかった。すべては遅かった」

 荒廃した東京を前に、長玄坊博士は涙を流した。

 鳥飼博士はハルピュイアの卵を日本に持ち帰ろうとした。長玄坊博士はそれに猛反対した。妻の面影を残したハルピュイア、スピカの愛の囁きによって、ハルピュイアの恐ろしさを、身をもって知っていたから。

 ハルピュイアは人間の孤独を埋める。それによってかえって人間を孤立させ、無力化する。人間は、人間を求めあうことで繁栄してきたのだから。

 彼女らの進化戦略は、人間と共存することなどではない――人間を絶滅させることだ。現地部族は彼女らの恐ろしさを知っていた。だからこそ、あの森は永らく禁域とされてきたのだ。

 長玄坊博士が島を脱出するまでのわずかな間に、まさかこれほど故国が荒廃しようとは!

「生きた麻薬どもめ」

 小気味よい音とともに実包を装填し、長玄坊博士は散弾銃の引き金を引いた。

 しかし、十二ゲージ弾薬に込められた九発の散弾は、全弾むなしく空を切る――つぎの実包も。つぎの実包も。ハルピュイアはあくまで優雅に、すべての弾丸をかわしきる。

 長玄坊博士は、絶望をゴクリとのみこんだ。

 ハルピュイアはその翼で人間の思考を読みとる――こちらがなにをしようとも、すべてはその眼に見透かされる。

 そして彼女たちの統制された動きはどうだ――知能はきわめて低いにも拘らず、きわめて高い社会性を持つのは、彼女たちが精神感応によって思考を群れ全体で共有しているからにほかならない。ネットワークで結ばれたコンピュータが常にデータを最新のものに同期化するように。彼女らは、生まれながらにもう知っているのだ。人間の恐ろしさを。人間の愚かさを。弱さを。

 彼女らは人類の天敵。

 人類は、ここまで殖えたハルピュイアを、もうどうすることもできない。

 彼女らはみるみる数を殖やす。生息区域を広げ、街を廃墟にし、人間を白骨に変え、あらゆるものを奪っていく――Harpyia――掠める者ハルピュイア

 博士は奥歯を噛み締め、なおも銃を構えた。

しかしハルピュイアの群れの囀りが、引鉄にかかる指の感覚を鈍らせる。

 ――お帰りなさい、あなたの故郷へ……。

 ――ひとりぼっちで苦しかったでしょう? みんなあなたの帰りを待っていたの――。

 ――この楽園にはあなたの敵なんていない。可哀想に、なぜそんなに怯えているの――?

 ――ここにいる全員が、あなたの家族であり恋人なのに……。

 澄んだ声が、博士の渇いた胸に染み入る。

 空虚な言葉、心のない言葉、それがわかりながらも、抵抗しようもなく。

 細君を失い、友を失い、変わり果てた故国の惨状に絶望する、かれの胸に。

 ――あなたはやさしい人。いまは少しすさんでいるだけ。わたしたちならあなたを悲しみから救うことができる――。

 ――あなたのためならなんだってするわ……。楽しく暮らせるの、わたしたちとあなたなら……。

 歯がかちかちと鳴り、頬はみるみる蒼ざめていく。半人半鳥の怪物たちが恐ろしかったのではない。その澄み渡るような声に屈服しそうな自分が恐ろしかった。これほど故国を荒らされ、大勢の同胞を破滅に追いやられてなお、彼女たちの誘惑は、孤独なかれには悲しいほどに強力だった。

 この先、独りで永く生きてなんになる?

 孤独はたしかに人を弱くも強くもする――しかし、けっして幸福にだけはしないだろう。

 鳥飼博士のいうとおりだ。かれの行動はともかく、その言葉だけは、きっと正しいにちがいない。

 破滅しか待っていないとしても、美しい彼女たちとのわずかな時間には、たしかな幸福が約束されている――。

 長玄坊博士は瓦礫の上に散弾銃を抛げ捨てた。まるで催眠術にかかったように、ハルピュイアの群れに、力なく歩み寄る。

 ――来て――早く、こっちに。愛してる……ここにいるみんながあなたを愛しているの。

 誘われるまま、かれは瓦礫を踏みしめる。風が頬を冷やかに撫でた。頬には涙が流れていた。美しい乙女たちの群れだけをみつめ、金網も柵もすでに朽ちた屋上の先、灰色の曇天へ――、

 陶酔の表情を浮かべながら、かれは力強く歩を進めていく。


(了)



2013年、原稿用紙換算32枚

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