The Post-Persons ―もう人間じゃない―
激しい雷雨に打たれながら聳えるそのいかめしい建物は、刑務所ではなかった。収容所でも、なかった。六〇〇〇ボルトの高圧電流が流れる有刺鉄線と屈強な警備兵によって厳重に守られてはいたが、それらは脱走を阻むための警戒ではない。外部からのあらゆる侵入を、頑なに拒むためのものだった。
その建物に潜入を試みて、生きて帰った者はない――〈沈黙の塔〉、人々はその忌まわしい巨大建造物を、そう呼んでいた。
まるで黄昏の悪夢だった。サイレンが喧しく鳴り響き、明滅する赤ランプが非常事態を告げるなか、うしろで束ねた銀色の髪を真っ赤な返り血に染めながら疾駆するひとつの影があった。
スライドした脛部からハの字型に突出した四つの駆動車輪が、油圧式サスペンションを軋ませてモーター音を唸らせる。一陣の風のあとには、警備兵たちの無数の肉塊が、コンクリートの廊下に山を成す。ガス・マスクで顔を覆い、黒ずくめの戦闘服を身に纏い、右手に金属製の杖を握るその男がめざすのは、前人未到と謳われた二十階――〈沈黙の塔〉最上階である。
独立電源で作動する警報ランプ以外に、建物内部に灯りはない――遠隔操縦のヘリコプターを墜落させる荒業で、電気系統はすでに破壊した。警備システムを一瞬停止させ、混乱に乗じて潜入したのだ。予備電源が作動するまでの間、監視カメラがかれの姿を捉えることは、けっしてないだろう。
銀髪の男は息をのむ。なにかが空を切る音を、内耳に内蔵したフルデジタル補聴器が感知したのである。音を増幅させるのみならず、ノイズをカットしSN比を高めることでより鋭敏となった聴覚は、闇のなかでかれを一頭の蝙蝠へと変貌せしめる。
銀髪の男は眼を凝らした。空を切る音の正体は無数の
障害物ごと容赦なく対象を殺傷――腕部ライフルの破壊力のみならず、白内障による失明を機にかれの義眼に搭載された
「理解できん……」
血まみれの敵兵は、声を振り絞った。
みれば、まだ学生のような若い新兵だ。
「たったひとりでこの伏魔殿に乗りこんでくるなんて、いったいなにを考えている……? 自殺志願者か……!」
「逆だ」ガス・マスクの下、銀髪の男は嗄れた声で答える。「おれは学がなくてな――難しい理由だとか思想なんてのとは無縁の人間なんだ。生きるため――此処に来た理由は、ただそれだけさ。おまえさんはまだ若いから、教えてやる。逆説的だが、生きるために身を棄てなきゃならないこともあるんだよ」
赤や黄色に染まる奇怪な
侵入者への警戒として、階段は不規則に配置されていた。最短距離では、昇れない。しかしそんな迷宮城も、最上階はもう間近な筈だった。
順調すぎた。侵入者など来る筈がないという驕りが、敵のトップにあったのだろう。そしてなにより
突如、眼前の壁が砕け散った。
銀盤を滑るように、男はドリフト気味に足を止める。無数の火花が、闇を焦がした。
すかさず腕部対物ライフルを猛射する――耳をつんざく金属音が〈沈黙の塔〉を揺さぶった。
銀髪の男は、息を呑む。
巨大な影は、斃れなかった。全弾を慥かに喰らいながら、何事もなかったかのように蠢いている。
その正体は、迷彩色に塗り分けられた人型兵器――頭部には大小三つのアイ・カメラがしきりに照準をさぐりながら駆動し、分厚い胸部装甲には菊の花弁を模した金色の徽章に「SR」の二文字が刻まれている。
全高約五メートル、得体の知れぬ、鋼鉄の怪物。
「
「やれやれ、噂にはきいてはいたが、こんな化け物が実戦投入されているとは」
「化け物はお互いさまだろう」
不穏な駆動音とともに〈シャローム〉が重機のようなアームを高く振り上げる。男の背丈ほどもあろう巨大な二本の
厄介なことに、機械仕掛けの戦斧は一撃ごとに変形し、ときに巨大な鋏となって、ときに長い剣となり、さらにはまた斧に戻って、変幻自在の猛攻を唸らせる。一閃ごとに、建物が爆撃に遭ったように粉砕される破壊力は、まさにカタストロフそのものだ。
破られた壁から、豪雨が降りしきる。冷たく滴る雨が、銀髪の男の判断力を僅かに鈍らせた。思わず自身の胸を庇うように押さえる。
胸ポケットには、かれにとってきわめて重要な――いや、おそらく世界にとってもっとも重大な意味を持つ二通の書類が収められていた。
万が一にも、それらを濡らすわけにはいかない。
胸に潜ませる重要書類を護りながら、同時に機械仕掛けの巨兵と戦うハンデ戦。
怒涛の猛攻を紙一重で躱しつづける男の反応速度も、たしかに人間業ではなかった。しかし〈シャローム〉は、人間でさえないのだ。疲れ知らずの攻勢は、男にひと呼吸の余裕さえ、与えない。
壁際まで追いこまれるのは時間の問題――背後の逃げ道をついに塞がれ、銀髪の男は観念したように足を止めた。
勝利を信じた〈シャローム〉は、必殺の一撃を叩きこまんと戦斧を大きく振りかぶる。
その一瞬――違和感を抱いたのは、〈シャローム〉のパイロットのほうだった。
銀髪の男は、もう避けようとしなかった。
それどころか、深い呼吸とともに気を臍下丹田に沈め、自然体の構えをとったのである。
男の杖が、残像をしならせ一閃する――凄まじい火花が闇を裂き、轟音が建物を揺さぶった。二トンはあろう〈シャローム〉の戦斧が、信じ難いことに、か細い杖一本に弾かれたのである。
虚を突かれた〈シャローム〉は、一瞬、動きを止める。
「この〈シャローム〉とパワー比べをやろうとは!」
鉄の怪物はふたたび一気呵成に千変万化の二本の斧を振りまわす。建物の壁もろとも破壊する矢継ぎ早の連撃だ。しかし銀髪の男もさるもの、鉄の巨兵の斬撃を細い杖一本でいなしてみせる。そのたびに散る火花の群れが、ひとりと一機に陰影を刻んだ。〈シャローム〉の全備重量十二トンを誇る巨体から繰り出される鉄の攻撃が、八〇キロにも満たぬであろうたかがひとりの人間の前に、全弾不発の憂き目をみる。
その離れ業を可能とする男の得物――新素材1150ハイカーボン・スチール製の杖は、独自の材料組成により静止曲げ強度は十七トンに達し、強靭な粘り弾力を併せ持つ。なにより使い手のその技量――敵の強大な力の流れに逆らわず、自身はあくまで脱力しながら弧を描くように捌いて敵の攻撃を無力化する――その不可解なほど流麗な動きは、まるで手品のようだった。
「この動きは〈転換〉――合気杖か!」
「陽に対して陰、陰に対して陽」銀髪の男はガス・マスクの下、不敵に嗤う。「その極意は体力や体格に依らず、合理的な体捌きで小よく大を制すこと。たとえ体重差が一五〇倍であろうとも、それは変わらない――合気の前には、すべて無力!」
「おまえがだれかは、わかっている!」
アイ・カメラが捉えた映像を全国民のデータと照合し、〈シャローム〉が搭載するコンピュータは侵入者の素性の解析をすでに完了していた。内部液晶ディスプレイには「MISURA SOUMA—95%」と表示されている。
「なぜ此処に来た、
砕け散る壁を背に、パイロットは逆上したように叫ぶ。横殴りの雨が文字どおり熱闘に水を差す。
舌打ちについで、ミスラは答えた。
「――生きるため」
「嗤わせる! 貴様がいままで生きていたのが、すでに奇跡だ!」スピーカーが一瞬、ハウリングを起こした。「そうまでして生きたいか。そんな躰になってまで! おまえの命に其処まで執着する価値があるのか!」
胸を抉るような悲痛な問いに、ミスラは口を噤んだ。かれの全身は、その殆どが機械で構成されている。
人工心臓をはじめとする臓器も。人工血管をはじめとする組織も。両手両足でさえも、使い慣れた肉体はすでにその原型を留めず、金属製のより強靭なものに換装されている。完全な自前と呼べるのは、もはや脳味噌だけである。
それらの機械化は、かれに文字どおり超人的な能力をもたらした――だが、同時に深い悲しみをも刻んだ。かれにはもはや、普通の人間として市井で生きる場所はない。社会から逸脱した、余計者だ。虚弱な精神の者なら、死を選ぶ。しかしかれはむしろ世界に背を向け、孤独な修羅の道を選んだ。
理由ただひとつ――生きるために! ただ、生きつづけるためだけに!
スピーカーから響く声が、壁に、闇に、
「身寄りなどおるまい。友人も恋人もすでにこの世を去っただろう。おまえが死んで喜ぶ者はいれども、おまえが生き永らえて喜ぶ人間など、この世にひとりもいやしまい!」
そうかもしれぬ。そのとおりかもしれぬ。かつてミスラは棄民同然の扱いを受けてきた。国から、世間から、切り捨てられた存在だ。苛烈な迫害に、幾度となく絶望の泪を流してきた。
そんな折に出会ったのが、レジスタンスを率いる
「絶望するには、おれたちはまだ若すぎる」醍醐は豪放に笑った。「仲間になれよ、ミスラ。少なくとも、おれにはおまえが必要だ」
醍醐のカリスマ性に、ミスラは心酔した。ふたりは無二の盟友となり、背中を預け合い、政府軍と戦ってきた。絶望的な戦いである。多勢に無勢、敵する筈もない。大勢の仲間の死を看取ってきた。血に濡れた手を握り、悔し泪を浮かべる眼を見据えてきた。何人も、何十人も――誰よりも多く!
「いまやレジスタンスの生き残りは貴様ひとりだ。この世のだれもが貴様の死を望んでいる。そんな無様な姿で! 醜く生にしがみつき! なぜ危険を冒し、人々に忌み嫌われてまで、生き永らえようとするのか!」
ミスラは答えない。ただ、押し黙るだけだ。
しかし、僅かばかりといえど、慥かにかれは動揺した――
かれの心だけは、人間だったから!
その一瞬の隙を、パイロットは見逃さなかった。
両手に握る戦斧を棄て去り、巨大ロボットが身を屈める。背後の砕けた壁から、激しい雨が戦場を打った。
しまった――! 命運を握る重要書類――それを雨から庇おうと、意識が揺れた。
一瞬の隙を突き、ブースターによる加速に乗って、〈シャローム〉は一気に距離を詰める。
激しい交通事故のような轟音とともに〈沈黙の塔〉が大きく揺れた。
重機のような強靭なアームが、ミスラの華奢な両腕を掴んでいた。頼みの綱の特殊杖は床を転がり、左腕に仕込んだ対物ライフルも使えない。
「おれが
パイロットは凱歌の如く高らかに叫ぶ。
「終わりだ、相馬ミスラ! この〈沈黙の塔〉を貴様の墓標にくれてやる!」
〈シャローム〉の肩部外装がスライドし、黒光りする三連装突撃銃(アサルト・ライフル)がせり上がる。
まずい――!
逃れようとするも〈シャローム〉の射撃管制装置はすでにミスラを完全にロック・オンしていた。銃口はミスラの動きを捉え、完璧に自動追尾する。
闇のなか、稲妻のような閃光が瞬いた――幾度も。幾度も。くり返し。
強力無比の二七式五.六ミリ弾が豪雨のように降り注ぐ――三〇発×三、計九〇発の全弾を、情け容赦なく撃ち尽くす。あまりの威力に巻き添えとなって瓦礫が飛び散り、土埃が猛然と舞い上がった。
灰色の土埃が次第に晴れていく――そのなかから〈シャローム〉の影が現れた。
その両アームが握るのは――凄まじい乱射の衝撃で無惨にも切断された、銀髪のミスラの両腕である。
ミスラの首と胴体は吹っ飛んで、瓦礫の下に埋葬されている。切断された両腕の電気系統から弱々しくも蒼白い電気が火花となり、ちりちりと闇を燃やしていた。
「機械の躰だからって、銃弾を喰らって平気だなんてひと昔前のSF映画のようにはいかないよなあ」パイロットがノイズまじりに嗤う。「精密機械と複雑な関節機構を積んだ躰だ、衝撃だけで致命的な動作不良をきたして当然だ!」
〈シャローム〉はミスラの両腕をゴミ屑のように放り、瓦礫に埋もれるミスラの銀髪を引っ張り上げた。ガス・マスクは割れ、世にも奇怪な醜貌が覗いている。両眼窩はゴーグルのような義眼で覆われ、その肌にはいくつもの深い皺が刻まれていた。口腔部もなにやら機械化されているようだ――血とオイルに濡れながら覗く歯は、分銅のような奇怪な円筒状になっており、金属らしい光沢を放っている。
「相馬ミスラ、データによれば年齢は一五〇歳――か」パイロットは呆れたように呟く。「倫理に背を向け、生に固執し、不自然なほど寿命に接ぎ木をしながら生き永らえた結果がこの躰――化け物め」
パイロットは穢らわしそうに吐き捨てる。
「どれ、貴様が命に代えて守り抜いた重要書類、このおれがとくと貰い受けてやる――」
突如〈シャローム〉の動きが、鈍い音とともに停止した。
不可解な動作不良に、パイロットの焦りの声がスピーカーから漏れ響いた。
アイ・カメラが捉えた不気味な映像に、パイロットは顔を蒼ざめさせていく――。
信じがたい光景だった。ちぎれ飛んだ筈のミスラの手足が自律的に動き、凄まじいギアとモーター音を響かせながら、全備重量十二トンの〈シャローム〉の脚部を押さえつけていたのである。
「生きている――だと? 莫迦な!」
〈シャローム〉に掴み上げられた
かれの全身に張り巡らされた人工血管に流れるのは単純な血液ではない――その正体はケイ素とポリエチレン、衝撃を加えると毛細血管が瞬時に硬化、幾重にも織り込まれたケブラー繊維のように弾丸の貫通を防ぐ
両腕を関節部分であえて切り離し離脱したのも、損傷を最小限に抑えるためのかれの老獪な生存戦略――蜥蜴や甲殻類にみられる防衛自切を、機械の躰で模倣してみせたのだ。
「しかしなぜだ? なぜ動かない! 水冷4サイクルX型一二気筒エンジンを搭載し、最大出力一五〇〇馬力を数えるこの〈シャローム〉が!」
「
血を吐きながら、ミスラは呟く――そう、かれの四肢に実装されているのはもとは介護分野で発達した技術の結晶である。人間の持つパワーを、指向性や精密動作性はそのままに、モーター駆動によって大幅に増幅するパワー・エフェクト・ユニット――制御は簡便でありながら、そのパワー増幅効果はじつに通常の六四〇〇倍に達する。
つまり! 一馬力は四人力に換算されるために単純計算でもその最大出力は一六〇〇馬力に匹敵し!
「そしてこれがとっておきの最終兵器――」
機械化された口腔を、ミスラはあんぐりと開けた。
整然と並ぶ円筒状金属製の義歯がぎらりと光る。
かれの全身に仕込んだギアが超加速して、不穏な音を響かせていく。
百戦錬磨のパイロットは、眼を瞠りながら、迫りくる危険を察知した。
だが、時間感覚は緩やかであるのに躰が感覚についていかない。
スローモーション映像のように
やがて砲弾を装填するような不気味な機械音が低く響き渡った。
ミスラの口腔に搭載されているのは、特殊加工された
装填されたのはダイヤモンドの三倍の硬度を誇るカルビン合金にアルミニウム・コーティングを施した特殊砲弾――、
電磁誘導によりこの砲弾にライフル並みの回転と加速を加え!
重量十五キロの砲弾の初速をマッハ七超にまで跳ね上げる!
その最大貫徹力は一五〇〇メートルの距離でじつに均質圧延鋼一〇〇〇ミリに相当――すなわち、この零距離射撃であったならば!
「
強力な電磁場の影響で空気が歪み、プラズマによる繊維状の蒼白い光が闇を穿つ。あまりに強大な威力のために射出装置の損耗が激しく装弾数はたったの一発――確実に敵を穿てるこの瞬間を、銀髪のミスラは待っていた。
〈シャローム〉の装甲がゆっくり歪み、燃えるような光を放つ――息をのむ一瞬の間を置いて、耳をつんざく爆音が〈沈黙の塔〉の下階から最上階までを、一直線に貫いた。
土埃が霧のように舞い上がり、土砂降りの雨のように瓦礫が飛び散った。
忌まわしい〈沈黙の塔〉が、無惨にも崩れ堕ちていく――。
最上階のその部屋には「市民課」という粗末なプラスチックのプレートが掛けられていた。
受付カウンターのむこうには白いワイシャツに黒いアームカバーをつけた中年の事務員が蒼ざめた顔で坐っている。
「ついに、辿り着いたぜ」
ゴーグル型の義眼を装備した黒ずくめの男は、よろめきながら胸のポケットを探る。
銀髪のミスラ――躰じゅうを爆炎に
ポケットから取り出した重要書類の正体は〈戸籍謄本〉と〈年金手帳〉――戦火のなか死守したその二通を、銀髪のミスラは誇らしげに受付に提出する。
時は二一二七年――政府の杜撰な初期計画と資金運用により、老齢年金制度は完全に破綻。厚生年金でいえば、二〇〇四年九月までは負担額を年収の十三.五八パーセントとし、支給開始年齢は六〇歳とされていた。
しかし資金繰りに困窮した政府はその後、負担額を段階的に引き上げ、二〇一七年の時点で一八.三パーセントに達する。支給開始年齢も同様、二〇二五年の時点で六五歳にまで引き上げられた。
これでは殆ど詐欺搾取ではないか――国民からの不満もよそに、腐敗しきった政府はその後も慢性的に制度改悪をくり返し、二一二七年に至って負担額はついに年収の七〇パーセント、対して支給開始年齢は一五〇歳に達したのである。
すなわち、強制的に負担は強いるが実質的に年金を払うつもりは毛頭ない、金のない高齢者は早々に死ね――政府は暗黙のうちに、国民にそう宣言したのである。
絶対に年金を渡さないため、また高齢者の暴動やテロに備え、市役所は迷宮化、要塞化した。年金を受けとるための受付窓口は最上階に置かれ、特に厳重に警戒されるようになった。政府主導の洗脳じみたプロパガンダの末、長生きは悪、という価値観が若年層に深く根づいた。多くの高齢者は、年金を貰うことさえ諦めた。働けなくなった自分たちは所詮、余計者なのだからと、嘆きながら死んでいった。
「おれはちがう――おれは生きてみせたぞ」
人工臓器と人工組織で全身を埋め尽くし、かれはたしかに約束の年齢まで生き永らえた――一五〇歳まで。
「年金を渡すんだ――おれがいままで、必死に払った金なんだから」
「少々お待ちを」受付の事務員は震えながら応える。「二十年間、この部署で働いています。ですがなにぶん、此処まで辿り着いた高齢者というのは初めてのことでして……」
「そうだろうな――」
高齢化社会といえど、一五〇歳まで生きられる者などまずいる筈もない――しかし政府は無茶な制度改悪に飽き足らず、念には念を入れ八五歳を超えた国民の組織的暗殺に手を染めるまでになっていた。
罪のない人たちだった。永きに渡り国を支えた人たちだった。法に従い、国を信じ、なけなしの収入から税金と社会保険料を収めてきた人たちだった。それがなんの報いも敬意も払われることなく、まるで野犬狩りのように、声もなく人としての尊厳もなく殺されていったのだ。
「おひとりでその年齢まで潜伏して生きるなんて、たいへんだったことでしょう?」事務員は追従笑いを浮かべる。「まったく、頭が下がりますよ」
ミスラはフンと鼻を鳴らす。
政府主導の老人狩りのなか立ち上がったレジスタンスにあって、ミスラだけがからくも生き延びた。仲間たちに匿われ、庇われ――老人たちの最後の希望として、生かされた。
かれの全身を構成する人工臓器や人工組織は、いずれも高額なものばかり。普通に考えれば、ミスラひとりで集めることなど、とうていできる筈もない。死んでいった仲間たちがそれぞれ体内に埋めこんでいた人工臓器を、組織を、ミスラに託して死んでいったのである。それを寄せ集めていまのかれがいる――機械の躰は、かれにとって恥ではない。かれに残された、唯一の誇りであった。
「しかし、理解できんのです」
年金を入れた茶封筒を、職員は差し出す。ミスラは中身を検め、満足げにうなずいた。
年金支給額は一二〇〇円――制度改悪の果て、負担額が膨れ上がる一方、支給額は情け容赦なく切りつめられてきた。
その結果、月額はついに僅か六〇〇円――。
「そんなはした金のために、命懸けで此処まで来る理由は、いったいなんです?」
「金額の多寡の問題ではない」ミスラはかぶりを振った。「約束を果たす――それが重要なんだ」
われわれがしてきた苦労は、しいられてきた負担は、報われる――意味のないことかもしれない。だが、無念のうちに死んでいった仲間たちに、それでもかれはそういってやりたかった。
「再来月もまた、来るんですか。おそらく、警備はもっと厳重になっているでしょう。〈シャローム〉だって、一機じゃないかもしれない。一個中隊規模で配備されるようになるかもしれない。あんたはたったひとりで、この難攻不落の〈沈黙の塔〉に、また無謀な挑戦を続けるのですか」
ミスラは窓の外を見やった。地上二〇階、雨雲も晴れたオレンジ色の空に、無数の鳥たちが飛んでいる。華奢なようにみえて逞しい、優美な野鳥たちの影が。
その光景を捉えるかれのゴーグル型義眼――それももとはといえばかれの盟友、松田醍醐のものだった。
レジスタンスの指導者、松田醍醐――かれだけは政府軍に殺されたのではなかった。みずから首を吊り、死を選んだのである。終わらない戦いに、仲間を失うことに、なにより余計者として世界に死を望まれつづけることに、疲弊しきってしまったのだ。強靭で豪放な精神を持つ、かれでさえ!
働けなくなった高齢者は、余計者でしかないのか。ただ食い扶持を減らし、社会に負担をしいるだけの存在なのか。
だれがそう思ったとしても、ミスラはそうは思わない。松田醍醐は、かれの大切な友だちだった。孤独と不条理に苦しむミスラを仲間に迎え入れてくれた、心優しき親友だった。
そう、ミスラにとっては、慥かにそうだったのだ。
嗚呼、その機械仕掛けの両眼に、哀悼の泪を浮かべることができたなら!
「生きるのに、理由なんて要らない」ミスラは嗄れた声で呟く。「人が生きつづけるのに、だれの許しも要る筈がないっ」
銀髪のミスラは、職員に背を向けた。機械の両脚を引き摺る老いた足どりは、弱々しく、そしてみずぼらしい。
しかし、けっして止まることはないのだろう――信念と誇りにみちたかれの歩みは、まるで歴史ある鐘楼のように、その命ある限り、荘厳な跫音を世界に響かせつづけていく。
(了)
2013年、原稿用紙換算29枚
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