第66話「鳴く沙」

「ここが鳴沙山だ」

 思按しあんがそう馬を止めたのは、等間隔の風紋が美しい沙山。

 そして山の谷あいには、薄い雲をたなびかせながら紅を増す空を如実に映す泉がある。月牙泉という名の通り三日月の形をしていた。畔には緑が茂り、楼閣もある。砂漠にいることを忘れさせる風景だった。景勝地らしく、この時間になってもあちらこちらに人の影がある。

「ここで見る月は本当に綺麗なのよ。これからもっと人が出てくるわ」

 茗凛めいりんの言葉に、思按が頷く。そして、

「ここが鳴沙山と呼ばれるのは、大勢で斜面を滑り落ちると、地響きのような音が鳴るから、と言われている。残念ながら私はまだ聞いたことはないのだが」

「それ面白そう。おい、ちょっと行ってみようぜ」

 思按の言葉を聞いた珂惟かいが、琅惺ろうせいに声をかける。二人は馬から下りて歩き始めるが……。

「ナンだよコレ、砂に足取られてぜんっぜん進めないんだけど!」

「これじゃ山に登るどころか、辿りつけないって」

「でも地響き聞きたいじゃん!」

「私は別に……」

「じゃあ茗凛、行こうぜ」

 隣に立つ兄からピキッと音が聞こえた気がする。が、ここは気づかないふりをして、

「ちょっと待って!」

 声を張り上げながら、茗凛は珂惟たちのところへ急いだ。

 山に行く、行かないで三人はしばしやりあったが、山が思いのほか遠い上、意外と高いこともあって結局諦め、妥協案として月牙泉あたりを散策することにした。

 吹き渡る風が爽やかである。目を下ろすと、斜面の下にある月牙泉のさざなむ水面が、青・赤・黒と、流れるようにその色を変えていた。

「綺麗……」

 誰に言うでもなく茗凛が呟くと、珂惟が「そうだな」と同意する。

 すると唐突に、

「あ、でもちょっと遠いかな。疲れたから私は思按さまと休んでるよ」

 言うなり琅惺が踵を返した。砂に悪戦苦闘しながらも遠ざかっていく後姿を、揃って見送っていたが、

「――じゃ、行くか」

 二人は再び、泉に向かって歩き出した。

 傾斜を滑るように下りると、泉の畔には多くの人がいた。家族連れもいたが目立つのは若い男女だ。

 誰もがたわいなく語り、笑いあって水辺を巡っている中、珂惟と茗凛は立ち止まって、黙って水面を見ていた。ざあっと音を響かせて水面を風が渡っていく様をただ見つめている。

 暮れた東の空に、小さな月が浮かんでいる。夜が深くなると月は鏡のように輝くのだ。夜の舞台までには帰る約束をおかみとしていたので、それを珂惟に見せられないのが残念だった。

 人が増えてきた。「戻るか」という珂惟の言葉を契機に、二人は泉を離れた。

 傾斜を這うようにして上ると、はるか遠くで思按と琅惺が座ったまま語り合う姿が見えた。そちらを目指して進むが、足を踏み出すたび砂が絡みついて遅々として進まない。「ふう」茗凛が思わずため息をついた。すると、

「あ」

 先を行く珂惟が声を上げた。そのまま道を逸れてどんどん進んでいく。「どうしたんだろう」思いながら、茗凛はその後を追った。

 彼が向かった先にあったのは、

紅柳タマリスクだ」

 珂惟の前には、彼の背丈よりやや高い紅柳の木があった。背後から射す夕日が紅柳の枝や小さな花だけでなく、その傍らに立つ珂惟も、何もかもを深い紅色に染めていた。

 ようやく追いついた茗凛が珂惟の横に立つ。彼は紅柳の枝に手を伸ばして枝先の小さな花にそっと触れると、

「これが、茗凛の裙子スカートの色か」

 「裙子」と言われて、茗凛はこの間の夜のことを思い出す。

 急に恥ずかしくなり、「もうっ!」と珂惟の左腕を思いっきり叩いた。「何だよいきなり」珂惟が顔をしかめる。そこで怪我をした腕を叩いたことに気づき、茗凛は左腕に縋りつきながら、「ごめんなさい! 大丈夫?」

 珂惟は茗凛に片目を瞑ってみせると、

「傷はもうふさがってるから大丈夫。今のは力がありすぎたんだって」

「もう!」

 茗凛が怒って腕を振り上げると、珂惟がゆるやかに笑った。

 そのとき、いきなり強い風が吹いた。風に乱れ、顔にまとわりつく髪を払いながら、吹きつける砂塵に背を向けると、足元の砂がざざっと流れていき、大地の文様を大きく変えていく。傍らでは紅柳の枝が大きく揺れて、まるで泣いているような音を上げた。

 ようやく風が落ち着いたので珂惟を見ると、彼はずっと紅柳を見ていたようだった。まるで独り言でも言うように、

「こんな華奢な枝なのに、地下ではしっかり根を張って、砂嵐でも踊るようにしなやかに形を変えるんだ。――強いんだ、紅柳って」

 今度はゆるやかに風が吹く。鳴る砂にひかれるように、珂惟はタマリスクから手を放して辺りの風景に目を投げた。

 山の裏側や、胡楊樹や紅柳が落とす色濃い影以外のすべてを、沈みかけた西日が余すところなく染めている。燃えるような赤色に。

「紅柳の色だ」

 珂惟が言った。茗凛は頷く。「そうね」

 話したいことはいっぱいある、気がする。だけどただ二人でいるこの時間も、泣きたくなるほどいとおしい。ずっと続けば良いのに……茗凛はそんなことを思いながら、空を仰いだ。

「――どこを見ても、空の境界線だ」

「そうね」

 目を合わせることなく、二人は言葉を繋ぐ。

「――長安では、絶対に見られない光景だな」

「そうね」

「こんなに深い紅色、きっと忘れられない」

「そうね」

 目尻から、細い涙が伝うのが分かる。だけど茗凛は微笑みながら空を仰ぎ続けた。

「私も、忘れない」

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