第56話「予期せぬ再会」
「今日は様子見だからな、ヤバいと思ったらすぐ逃げろ」
「分かってる。そのときは一緒にね」
「行くぞ」スラッと閂を抜き、ゆっくりと扉を押す。
キィ……この、空気を僅かに震わせる小さな音は、気のせいでごまかせるかしら? 茗凛が手に汗を握る目の前で、珂惟が少しずつ扉を押していく。開いた向こうが闇であることを確認し、茗凛は手にした蝋燭をあげ、珂惟の手元を控えめに照らした。
珂惟は右手に持った鉄の閂を帯に差し込むと、僅かに開いた隙間から中を覗き込む。
「火を」声とともに、握られていた手が放れる。空いた彼の左手に茗凛は素早く蝋燭を渡す。珂惟は身体を押し込むようにして一気に扉を開け放つと、明かりを前に突き出した。
小さな蝋燭の光がぼんやりと映し出したのは、闇に向かいまっすぐに続く廊下――どうやら上の階と同じ造りのようだ。
しかしよくよく見ると、完全に同じというわけではない。地下だからか境内に向いた壁に窓はなく、向かい側にはいくつかの部屋が並んでいたが、上では等間隔に扉が嵌められていたはずの壁は、一面全てが格子にとってかわっている。地下牢だったというのは、どうやら本当らしい。
だが人影は、どこにもない――そう見て取ったからか、珂惟は眼前まで蝋燭を上げ、格子の向こうを照らし出して見せた。
隣室と壁で区切られた空間は、何もないがらんどうだ。
だが――闇に沈んでいる廊下の奥から、切れ切れの音がかすかに聞こえてきた。茗凛が驚く間もなく、珂惟が素早く手元の火を消す。すると闇だとばかり思っていた廊下のはるか先で、ぼんやりとした光が揺れているのが見えた。そして、切れ切れの音が少しずつはっきりとしてくる。これは女の泣き声――。
ガンッ!
突然の音。
素早く前に立ちはだかった珂惟の背後で茗凛が身を固くする。意を決して、そっと上体を傾け音のした前方に目を投げると、暗がりに白い何かが揺れていた。
「――!」
両手で口を押さえつけることで、どうにか喉で声をとどめた。
あれはやっぱり、幽…。
「落ち着け、あれは、生きた人の手だ」
珂惟の言葉に、よーく目を凝らしてみると、確かにあれは、人の手だ。上下にゆらゆらと、柳のように揺れている。
と思ったら、ぼんやりとしていたはずの光が突然強くなり、廊下の突き当たりがにわかに明るくなった。見れば蝋燭が格子から突き出されているではないか! だけでなくそこに、格子を固く握りしめ、顔を押し付けるようにしてこちらを食い入るように見ている女の姿があった。
「………!」
彼女が背後を振り返り、なにかを言った。するとバラバラと乱れ重なる足音がして、次々と顔が現れる。次々と手が格子から伸びてきて、招き呼ぶように揺れ始める。
だけでなく。
「ちょっと静かに……って、俺、胡語分かんねえんだけど」
格子にすがる女性たちが一斉に声を上げ始めたので、大慌てでそちらに駆け寄ったものの、いっそう大きくなる声に、珂惟が困った顔で茗凛を振り向いた。
そのとき――奥から、少しかすれた、だが威厳ある男の声が響いた。
たちまち女たちが声を止める。
いきなり訪れた緊迫。珂惟のさっと後ずさり、身構える。茗凛はその背に駆け寄った。見れば格子に群がる女たちの隣室、最奥の小さな部屋の暗がりから、ゆっくりと近づいてくる姿が。
「誰だおまえたちは」
「誰って……」言いかけた珂惟の言葉を遮るように茗凛が声を上げる。
「
「なんだって?」
茗凛を振り返った珂惟が慌ててその視線を追うと、そこには一人の僧形。背筋正しい立ち姿、眉間に深く刻まれた皺、固く結ばれた口元に威厳が滲み出す老僧である。老僧は茗凛の姿に気づくと、眉間の皺を僅かに解き、
「茗凛ではないか」
耳馴染んだ声。茗凛はたまらず格子に駆け寄り、
「ご無事だったんですね! 急なご病気で
「なんと、そんな話になっておるのか。春先の明け方、
老僧の目が珂惟を捕らえた。珂惟は素早く老僧の正面に立つと流れるように跪き、
「長安の大覚寺からこちらに学びに参りました、珂惟と申す行者にございます」
「大覚寺だと?」
言うなり、老僧は手にしていた蝋燭を下に向ける。そしてくっきりと顔が映し出され珂惟をまじまじと見、
「なるほど、そなたが」
と呟いた。
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