第55話「決死の潜入」

 法恩寺付近は店もない住宅街のため、着いたときにはしんと静まり返っていた。

「じゃあ俺が先に行くから」

 言うなり、珂惟かいの気配が隣から消えた――思ったときには、月光が色濃い影を投げる寺塀の上に彼はいた。

 珂惟は辺りを見回しすと、「さあ」声とともに手を差し出してきた。茗凛めいりんがためらわずその手を取ると、グッと引き上げられる。その意外な力強さと思いがけず縮まった距離に、柄にもなくどきどきしていると、「先に行くぞ」声を残し、珂惟はあっという間に地に下りたった。茗凛も慌ててそれに続く。

 寺塀を越えた二人の目の前に、問題の建物があった。

 背面はすぐ塀のせいだからか、建物を囲う柵は背面以外の三面にのみ立てられていた。つまり、寺塀を越えたことで柵内に入ることができた。

 珂惟は目の前の建物に手を触れながら、呟いた。「塞いだ跡がある。多分、ここは窓だな」

 二人は柵の向こう、つまりは境内に気を配りながら北側から回って、建物を壁沿いに進んでいく。「問題は鍵だよなあ」前を行く珂惟が独り言を言っていた。

 だが建物の正面中央にある入り口に回ると、観音開きになっている扉に、木の棒が刺し込まれているだけだった。柵の入り口には鉄の鎖が幾重にも巻かれていたからそれで十分と、こんな粗雑な作りになったのか。

「ぬるいなあ、まあ、好都合だけど」

 言いながら、珂惟は静かに木の棒を引き抜く。二人は、片方の扉だけを開けて素早く中に入り、そっと閉めた。

 格子窓から差し込む光で、中は青白く照らされている。左右にまっすぐ廊下が伸びていて、正面の壁には等間隔に片開きの扉が並んでいた。

 珂惟は茗凛に、本来はこちら側のかんぬきだったはずの木の棒を差し込んでおくよう言いながら、目を眇めて辺りを眺めている。

「外を見ててくれ」

 そう言って珂惟は右へと進んで行き、閉まった扉の傍らに背を預ける。扉上部の格子から中を覗いたあと、初めは少し、その後は大きく扉を開ける。「誰も居ない」とばかりに首を振ってみせてから、また次の扉に進んでいき、同じように首を振った。

 また次。次。

 茗凛は外に目を配りつつ、チラチラと内部を観察した。正面にある室内に目を向ける。

 珂惟が開け放したままの格子扉から見える室内は、何もないがらんどうの空間だった。風を通すためなのだろう、廊下の窓と一直線上に窓が備えられていたが、珂惟が言っていたとおりに板が打ち付けられている。目に付かない寺壁側からの進入を防ぐためかしら? 思いながら目線を横に流すと、珂惟が最最奥の扉を開けているところだった。

 これまでと変わらない動作。やはり何もないようだ――だが珂惟は、何故か中へ入って行った。カタリと小さな音が聞こえて、身が固くなる。

 息をつめて廊下の奥に目を凝らしていたら、しばらくして珂惟が廊下に出てきたので、茗凛はほっと息をついた。出てきた珂惟は、廊下の突き当たりまで進むと突如しゃがみこみ、しばらくそこで何事かをしている。カチカチッと乾いた音。やがてポッと小さな明かりがついた。そこでようやく振り返った珂惟が、茗凛を手招きする。

 茗凛はもう一度、格子窓から外に目を巡らせた。月明かりが白々と映し出す広大な境内に影を落としているのは胡楊樹と、遥か向こうに立ち並ぶ、寺内の人間が寝静まっているのだろう建物群の短い影だけだ。

 よし、茗凛は心中で呟き、身を翻した。

 窓の下を、身をかがめながら小走りに進む。目指す先では、蝋燭を持った珂惟の右手首から先が廊下の下に沈んでいた。

 近寄って分かった。珂惟が廊下の板を引き上げていて、その下では蝋燭の小さな明かりに照らされた階段が、その先を闇に沈ませている。

 珂惟は小声で言った。「然流ぜんりゅうの言ったとおりだ」

 その声に茗凛はなんだかほっとして、やはり小声で、

「どうしたのその蝋燭。まさか買ったの?」

「まさか。あんな高価なもの、俺が買えるわけないだろ。本堂からちょっと借りた」

「うわー、いけないんだ」

「後でちゃんと返すよ」

 そう言うと珂惟は明かりを茗凛に預け、地下に続く階段に顔を突っ込むようにして耳を澄ませる。重い沈黙。時折、炎の爆ぜる音が、張り詰めた静寂を破る。

 「あ」珂惟が小さく息を呑むのが聞こえた。それと同時に、細く、長い音を聞いた。それが女の泣き声だと気づくのに、そんなに時間はかからなかった。一つだった泣き声に、やがて複数のそれが絡みついていく。

 呼ばれるように珂惟がするりと身体を滑らせ、階段に足を掛けた。

 階段といっても、急なはしごだ。茗凛は彼の足元を照らすようにその場にかがみこむ。数段降りたところで、珂惟が手を伸ばしてきた。その手に求められた明かりを渡し、今度は茗凛が階段を下りた。

 それを繰り返すこと数度で、二人は階段を降り切った。

 降りてすぐに、入り口のものより大きくかつ重々しい観音開きの扉がある。上部が格子になっていて向こうが透けて見えるものではなく、一枚板のものだ。

 こちらにも閂が差し込まれていた。ただし鉄棒の閂だ。珂惟は茗凛に明かりを遠ざけるように手で示し、扉に貼りつく。隙間から向こうを覗くようにすることしばらく、振り向いて茗凛を手招きした。左手は閂に添えられている。茗凛が近づくと珂惟の右手が伸びてきた。腕をつかまれ、そのまま手を繋がれる。

「離れるなよ」

「うん」

 肩越し振り返った珂惟の真剣な目に、茗凛はしっかりと頷いてみせる。

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