第38話「信じがたい名前」

 向こうの角から姿を現した琅惺ろうせいは、辺りを気にしている。そして後ろを振り返り、何かを話しているようだ。

 「誰かといる?」茗凛めいりんが呟いたとき、琅惺がこちらに向かって歩き出してきた。その後について来たのは……。

彩花さいか!」

 琅惺の影に隠れるようにしているのは、自分の両肩を抱くようにしてうつむいてはいるが、間違いなく彩花だ。

「あの子、何やって……」

 言いながら勢いよく立ち上がり、目をすがめる。何だか様子がおかしい。

「琅惺のヤツ、なんだってあんなに埃まみれなんだ?」

 そこに珂惟かいの声。よく見れば、確かにいつも小奇麗にしているはずの琅惺の衣、特に膝から下は土埃に塗れている。

「あれ? 左手の袖口も破れてるみたい」

「そう言えば……。あいつ転んだのか? やけにズタボロだな」

 言い合っているうち二人がどんどん近づいてくる。やがて彩花の姿がハッキリと見えたとき、茗凛は言葉を失った。

 彩花の白い顔が土に汚れ、肩を抱く腕には何箇所かの擦り傷。そして衣の袖が肩口から破れている。


 どうみても――なにごとかがあった。


 琅惺に声をかけられて顔を上げた彩花が茗凛を捉える。するとたちまち目に涙があふれた。彩花は琅惺の陰を飛び出し、

「茗凛!」

 言うなり、茗凛に抱きついた。廻された腕の肩口が落ち、下着が露だ。彩花が抱いていたのは、自分の肩ではなく破れた袖だった。白衣がむき出しの肩に手を回すと、小刻みに震えているのが分かる。思わず強く抱きしめると、茗凛の目からも涙が出てきた。

「彩花―」

「とりあえず、中へ」

 脱いだ半臂を彩花にかけながら、珂惟が促す。そこへ背後から、

「珂惟さん、行ってきましたーって茗凛さん、どうしたんですか? って琅惺さん、なんでこんなところに来てるんですか!」

 最初こそのんびりとしていた声が、にわかに緊迫したものになる。声は然流ぜんりゅうのものだ。茗凛が顔を上げるのと、珂惟が立ちはだかるのは同時だった。

「急いで彩花のお母さんを呼んできてくれ」

「え? あの大店に、ですか? どうして?」

「いいから急げ!」

 珂惟のただならぬ剣幕に、然流は買ってきたものをその場に置き、来た道を慌てて戻っていった。

「――俺たちは奥の部屋にいるから、なんかあったら呼べ」

 そう珂惟が案内したのは、入り口からまっすぐ続く廊下に、たくさん部屋が連なっているうちの一つで、空き部屋だった。片隅に文机が一つポツリと置かれている。

 茗凛は無言で頷き、いまだに自分に貼りついたままの彩花からそっと片手を離して、静かに扉を閉めた。

「彩花、座れる?」

 茗凛の言葉に、彩花は小さく頷いた。そこでようやく茗凛から離れると、その場にへたり込んだ。なんて声をかけていいかが分からない。どうしたの、なんてとても訊けない。なんだってこんなことに……。

 いつもなら天幕で夜の舞台前のひと時をみんなで過ごしている時間なのに。昨日あんな喧嘩しなかったら、こんなことになんか……零れ落ちそうになるものを、唇をぐっとかみしめてこらえる。

 それから、しばし無言の時間が続いた。時折思い出したようにしゃくりあげる彩花のか細い声が、茗凛の心をいっそう重くする。

 ほどなくして入り口が騒がしくなった。彩花の両親が到着したようだ。

「彩花……」

 絶句し、涙する母。

「何があった、泣いていたら分からないだろう」

 恫喝する父。

 反応は両極端だが、どちらも茗凛を眼中に入れていないことは共通していた。言葉一つなく茗凛を押しのけ、娘にかけよる二人。彩花をぎょくのように大事にする人たちはこうやって、それ以外の人間は不要であると平気で排除する。同い年の娘と言うことに替わりはないのに、片や玉で片や石ころでしかない。だから茗凛は彩花の両親が苦手だった。

 居心地の悪さを感じながら、茗凛は開いた扉の付近にたたずんでいた。入り口でおろおろしている然流に「ちょっと待って」と手で示してから、目を反対に向ける。騒ぎは聞こえているだろうが、遠慮しているのか珂惟たちの部屋が開く様子はない。

「誰だ、誰が一体こんなことを」

 大層な剣幕で娘に詰めよる父。母は泣きながら、「あなたそんな、彩花泣いてるじゃありませんか。その話は、せめてもう少し後に……」と、取りすがったとき、二人の間で彩花が口を開いた。

「……ん」

「何だって?」

 漏れ聞こえたのはか細い声。だけどそれはハッキリと聞こえた。

「――琅惺さん」

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