巻の二「いざ、法恩寺」

第7話「熱砂の城市」


 城門広場を北に進むと、土で作られた小さな家がところ狭しと立ち並ぶ住宅街である。土の家をもの珍しそうに見ている客人二人。長安にはないんだ、一歩先を歩く茗凛がそんなことを思っていると、珂惟かいが声をかけてきた。

「あんたの兄さん、法恩寺にいるんだ」

 その言葉に、茗凛めいりんはにっこり笑って振り返り、

「ええ、そう。『比丘びく』なのよ。『比丘』」

「……やっぱりいい性格してるな」

 呟いた珂惟を尻目に、今度は琅惺ろうせいが声をかけてきた。

「寺にいらっしゃるのは一番上のお兄さんなんですか? 楽器を演奏されてた方々もお兄さんなんですよね」

「寺にいる兄は血の繋がった兄で、一座の兄たちは、血が繋がっていないんです」

 茗凛の言葉に、二人は顔を見合わせる。その様子に「ごまかしとけばよかったかな」と思ったものの、いまさら後には引けない。私って頭悪いよな……と反省しつつ、茗凛は簡単な説明をすることにした。

「私と、霞祥姐かしょうねえさん、それに楽器をやっていた男三人はみんな他人なの。でも縁あってあの一座でずっと一緒に暮らしてる、家族みたいなものなんです。私が十五歳で一番年下だから、一番年上の霞祥さんのことは『姐さん』、その下の男三人のことは、『大兄おおにい』、『二兄ににい』、『三兄さんにい』って呼んでるの。みんな一歳違いで年が近いから、うまいことやってるわ」

「へえ、じゃあ俺は二兄と同い年ってことか」

「私は三兄さんと、ですね」

 そうなんだ……茗凛は心中で一人納得する。すると珂惟が、

「あれ? もう一人、女の子いたよね。彩花あやかさん、だっけ」

「彩花は、一年位前から通いで舞台の手伝いに来てくれてて、一緒には暮らしてないの」

 ――彩花のことを説明するのは難しい。茗凛は話題を切り上げようと、

「あれが内門よ。あれをくぐると敦煌の街中になるわ」

 言いながら足を早める。そうして門をくぐるとやっと立ち止まり、背後の二人を振り返って、

「この中には、南北に五本の大路が走ってるわ。今、私たちが立っているのがこの城市まちの主要道路なのよ。この道の先に見えるあの、立派な建物には沙州刺史さしゅうしし様がいらっしゃるの。今はちょっとご病気らしくて、都から代理の人が来てるの」

 茗凛が指さす先には、城門の城楼には及ばないものの、土壁に囲まれた重厚な楼閣があった。ここ敦煌とんこうは前漢時代に中国の領域となって以来、中央政権の盛衰に翻弄され、何度かの呼称変更を余儀なくされていた。唐代には沙州と呼び名したが、地元の人々は愛着ある「敦煌」という名称でこの城市を呼んだ。刺史は州の長官のことを指す。州とは行政の一単位であり、このころの中国全土には三百五十の州があったと言われる。

 二人は笠を少し上げて沙州刺史の治所をしばし眺めていたが、

「規模は違えど、どの街もだいたい同じ造りなんだな」

「そうだね」

 そうなのか……またしても茗凛は心中で呟く。なにしろ敦煌から出たことがないのだ。他の土地のことなどまるで知らなかった。二人は辺りを見回しながら、「あの建物はなんだろう」、「じゃあそれは?」などと身を寄せ合い、言い合っていた。口では言い合いばかりだが、実は仲良しなんだなこの二人、と茗凛は思う。

 中国の都市は高い城壁で作られた矩形の空間に、官庁に店舗、住居まで、人々の営みに必要なすべてがその内部に封じられていた。ために城市という。内部は縦横に走る大路で碁盤のごとく区切られ、そこに整然と、様々な建物が建てられていたのだ。

 城市を東西に二分する主要大路を挟んで、城内の東側を左街、西側を右街と呼ぶ。敦煌は右街に宿が多く、左街に市場などの商店が多かった。法恩寺は城内の北西、つまり右街にあるのだが、天幕の中で珂惟が「城市の案内をしてもらおう」と言ってたのを茗凛は唐突に思い出し、

「せっかくだから、敦煌で一番賑やかなところを紹介するわね。こっち」

 茗凛はそう言って大路の左側に寄った。そちらの方に影ができているからだ。素肌を露にしようものなら、日差しで焼き付けられてしまいそうな強烈な陽光の中で人々は、城壁の影や屋根の下など選び、日差しを避けて歩いた。砂漠地帯であるこの街は、汗は出るそばから乾いていく乾燥地帯で蒸し暑さとは無縁のため、日陰は思いのほか涼しい。

 大路を北上した茗凛は、ほどなくつきあたった小路を右に曲がる。やがて次の大路に突き当たると、人の数が目に見えて増え始めた。その大路を、人波に流されるがまま北上すると、しだいに喧騒は大きくなり、複雑な香りが漂い始めてきた。やがて路の両端を色々な店が立ち並ぶ「市場」が近づいてくる。

 夕刻間近、つまり閉鎖が間もなくの市場だが、いまだ多くの老若男女はもちろん、明らかに異なる人種が入り混じり、活気づいていた。人々の外観や言語が多種ならば、店先に並ぶ商品もまた多様であった。四本の柱に格子に組んだ木を載せた「葡萄棚」に布を掛けて日差しを避けただけの簡素な店先に置かれるのは、玉杯や夜光杯、植物を題材にした凝った刺繍が施された絹の絨毯、鮮やかな色彩の陶磁器――どれも異国情緒たっぷりだ。

「やっぱり西に行けば行くほど、異国の影響が強くなっていきますね。目や髪の色、服装も多種多様な人が大勢歩いています。長安の西市にもそういう一角はあるけれど、ここでは城内のいたるところに、西の情緒が当たり前に溶け込んでいる」

「そうそう。ここの前に寄った瓜州の街も随分西っぽいと思ってたけど、ここに較べたらまだ東の雰囲気が残ってたよな。やっぱり街ごとに色ってあるんだな。面白いねえ、ここは。おい、あれ見てみろよ」

 無造作に置かれた様々な商品のすべてが長安からの客人の目を引いた。「すごい」と二人が目を輝かせるのを見て、茗凛は嬉しくなった。よかった、この城市を気に入ってくれたみたい。

 しかし。

「何だよこの匂い。すごい香辛料だな、何、あの焼餅ナン。どんだけ種類があるんだよ。いい色に焼けちゃって。くーっ、旨そうだな」

 芳しい匂いをはらみながら、もうもうと立ち昇る煙は、羊の串焼き「烤羊肉シシカバブ―」からのもの。他にも器から零れ落ちそうなほど盛られた麺に、こんがりといい色で重ねられた多様な形の焼餅、うずたかく積み上げられた多彩な果物――ありとあらゆる食べ物に、珂惟の目はもっとも奪われているようだった。

 すると、

「君は食べるといい。五戒では昼過ぎの食事は禁じていない。さすがに羊は駄目だけど」

 五戒は在家信者が守るべき五つの決まりである。沙弥が守るべきは十戒であり、昼の食事を禁じるのは十戒の一項目である。

「明日からの食事を下見してるだけだろ。うん、どれも旨そう。いやあ楽しみ」

「私は十分に桃漿ピーチジュースをいただいたから満足してるよ。君は大立ち回りを演じたわけだし、私よりお腹がすいて当然さ。さ、寺に着く前に」

「――おまえ。俺が食わないおまえを横目にモノを食う、そういうヤツだと思ってるわけ?」

「そんなんじゃない。私はただ……」

「ならいいけど。どうせ当分、嫌って言うほど敦煌飯だし、今がっつく必要はないだろ」

「それもそうか」

 明るく笑う二人の声を聞いて、茗凛は自己嫌悪に陥っていた。昼以降の食事はできないと知ってたってのに、彼らにこんな道を通らせるなんて私ってなんて配慮がないんだろうと落ち込んでいると、琅惺が背後から声をかけてきた。

「敦煌の繁華街は十分堪能できました、ありがとうございます。確か夜の舞台があるのですよね――そろそろ、法恩寺に向かいましょうか?」

 その提案に、茗凛はありがたく頷くしかなかった。

 そうして――。 

「ご案内、ありがとうございました。おかげさまでこちらに迷わず着いたばかりか、敦煌の城内を堪能することもできました。どうぞお気をつけてお帰りください」

「あんたのおかげで楽しかったよ。多謝。帰り道もだけど、これからも、あんまり無茶してあちこち突っかかって、面倒起こすなよな。じゃあな」

 その言葉を残し、二人は門前に出てきた法恩寺の沙弥に連れられ、寺内に姿を消した。そこでくるりと踵を返し、帰路につく――つもりは、茗凛には毛頭なかった。

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