第3話「謎の少年」
青空の下、乾ききった大地を杭と荒縄で区切っただけの四角い空間に鮮やかな赤い毛氈が敷かれ、その上で一人の女性が地に付くほどに長い袖と、床に引きずるほどに長い裾とを、空中に萌黄色の線を描くように翻し、軽やかに舞っている。その舞を荒縄の外から、多くの老若男女がうっとりと見入っていた。
「霞祥を見てご覧。もの凄い美人、というわけでもないのに、全身から色気が立ってるだろ。その証拠に、ほら、男たちの目の色が違うよ。足が上がるとか、高く飛んだとか、回転が早いとか、そんなのは子どもが威張ることさ。あんたももう十五歳、じきに簪礼(成人式)なんだから、そろそろあんた目当てに通う男を捕まえないと」
「あら、私目当てに通ってくれてる子たちもいるわ」
「あんなの近所のガキばかりじゃないか! 金になりゃしない。いいかい、あたしたちはね、『沙州賓館』に客を呼ぶためにこうやって、毎日舞台をやってるんだよ。この稼ぎ時に客が呼べなかったら、あたしたちはすぐにでもお役ゴメンさ。前の宿主が座長の幼馴染だった縁で今は十分な給金をいただけてはいるけど、今の宿主は商売に厳しいからね。役に立たなければすぐにでも次の一座に取って代わられるさ。そうなったらこんなに気楽には暮らせないし、あんたたちだって芸を売るだけじゃ生きていけなくなるんだからね!」
広大な砂漠にポツリと立つ小さな城郭都市である敦煌は、春は強い風が激しい黄砂を巻き起こし、冬は寒さが厳しいため、外から訪れる人間はほとんどいない。住民の大半が観光客相手の仕事を生業としていたので、長めの夏と短い秋の間が稼ぎどきだ。
一言一句違わず
「ほうらご覧、今着いたばかりの一行も、揃って足を止めてるよ。おまえが踊っているときにはうすらぼんやりしていたあそこの髭面の、あのだらしない顔といったら。まるで上等な葡萄酒に心地よく酔ってるようじゃないか。着ているものもいいし肥えてるし、ひょっとしたら都の大金持ちかもしれないねえ」
「でたでた。おかみさんの長安びいき」
茗凛は口中に呟くとくるりと踵を返し、深い紅色の上衣と裙子を飾る金銀の装具を、体のあちこちからうっとおしげに外し始めた。
「はいはい。優美で、柔和な踊りですね。分かりました、よーく分かりました! ねえ
言いながら、装具と肩からかけていた薄紅色の巾とを一緒に卓の上に放り投げる茗凛。その背後に回った小柄な少女が、慣れた様子で首輪を外しにかかる。彩花と呼ばれた少女が、「それなら……」と言いかけた声は、突如崩れた演奏と女の悲鳴、男の怒声に掻き消された。
「何っ!」茗凛が勢いよく振り返ると、彩花の手から首輪が跳ね落ちる。茗凛は素早く身を返し、「およし!」と慌てて制止しようとするおかみの手をさっとかわしてバッと幕を開けると、初夏の日中であるというのに、そこは凍り付いていた。
毛氈に釘付けだった観客たちの目に、怯えの色がありありと見える。慌ててその場を去っていく姿もちらほら。いつしか音楽も止んだ異様な雰囲気の源に目を移せば、毛氈の上で悲鳴を上げながら身を捩る霞祥と、その細腕をつかんで引き寄せようとする男が居た。
「長旅に疲れ果ててるのに、てめえらの下手な音楽とアホな群集どもの騒ぎが宿まで響いて眠れやしねえ。この暑さでロクにメシも喉を通らないのに、睡眠不足にまでなったら、倒れちまうだろうが。どうしてくれるんだ、ええ、姉ちゃんよ!」
声を荒げているのは、随分張りのある声と巨体を持つ、薄汚いナリの男だった。
「まあまあお待ちくださいませ」
そこへ割って入ったのは、さきほど口上を述べていた初老の男。この史一座の座長である。見たとおり常におかみの大尻に敷かれている小柄な体を、さらに小さく折り曲げて、
「お休みを損なわれたのは申し訳ございません。それではいかがでしょうか、本日は特別、最後まで霞祥の踊りをご覧にいれます。敦煌一の名妓と名高い娘でございます、きっとお疲れの心が癒されることでしょう。その後は、名物の葡萄酒を嗜まれれば、今宵はぐっすりとお休みできること請け合い。これは――些少ではありますが……」
急に声をひそめた座長が観客たちにそっと背を向け、男の懐に銭袋を捩じ込むのが茗凛の目にはっきりと見えた。幕を握る茗凛の手に、力が入る。
だいたい、この城門広場を抜けたら住宅街だ。宿は住宅街を越え、内門をくぐった内城にしかないのだからここの音が聞こえるわけなんかない。こんなのは、ただの言いがかりだっていうのに!
男は霞祥から腕を放し、口元を歪めながら懐の中身を確認する。眉がぴくりと動いた、と見えた瞬間、男の太い腕が座長を殴りつけていた。座長の小柄な身体が、楽器を奏でていた三人の男たちめがけて吹っ飛び、「わあ」という情けない声とともに男四人が次々となぎ倒されていく。
「たったこれっぽっちで俺を病気にしかけた償いになるとでも思ってんのか! 馬鹿にしやがって。おら来い、俺様が気持ちよく眠れるようせいぜい尽くしてもらおうか!」
「いやっ、誰か――」
「お待ちください!」
一斉に人々が振り返った先に、茗凛は立っていた。「何をやってるんだい、早くお戻り!」小声で叱責しながら、天幕から腕だけ出しているおかみと、「おい、小妹!」と慌てて起き上がろうとする楽器の男たちの制止を振り切り、茗凛はさっき下りたばかりの舞台に上がる。震えそうになる自分を「いまさら後には引けないでしょ!」と叱咤し、茗凛の無謀を止めようと何度も首を振る霞祥ににっこりとほほ笑んで見せると、茗凛は男を睨み上げた。
「ああ、なんだこのガキ。おまえはひっこんでろ!」
「ええ、確かに私は『ガキ』ですわ。でもそういうあなたは? 老人を殴りつけ、嫌がる女に無理を強いる。これが大の大人のすることですか?」
男が言葉に詰まる。それを機に「そうだそうだ」「引っ込め!」といった罵声が、最初は控えめに、やがて大音声となって男を包囲する。最初こそたじろぎを見せた男だったが、浴びせられる言葉がだんだん過激になっていくと、顔が上気し、肩が震えだした。
「うるせえっ!」
まさに一喝。
「このガキが、黙って聞いていればいい気になりやがって!」
目を血走らせた男は霞祥を突き飛ばすと、茗凛に掴みかからんとする。その時、
「おやめなさい!」
声は、群集の中からだった。水が引いたように人々が避けた先に立っていたのは、一人の僧形。浅めにかぶった笠の下の目には少年の面影が色濃く残っていた。
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