死してなお、消えることのない罪

篠宮十祈

死してなお、消えることのない罪

――面倒なことになったぞ。

 その瞬間に僕が考えたのは、警察や救急への通報ではなく、自分の保身のことだった。

 返り血に塗れた僕たちは、茫然とその男を見下ろす。左胸には深々と包丁が刺さっていて、頭をフライパンで割られたその男を。


「あっ……、ああッ――」


 悲鳴を上げそうになっていたハルカの口を手で塞ぎ、僕は押し殺した声で彼女に言い聞かせる。


「落ち着いて、お願いだから大声を出さないで」


 フルフルと震えるハルカが冷静さを取り戻すまで何度も繰り返し囁き、ようやく彼女が小さく首を縦に振ったところで、押し当てていた手を離した。見れば、彼女の唾液と涙と鼻水で、僕の手は汚れてしまっている。それをズボンで拭い、僕は死体を指さした。


「これが誰かに見られたら、僕らの人生は終わりだと思った方が良い。僕らだけならまだいいけど、たぶん、僕らの家族も終わりだ。だから、これは絶対に隠し通さないといけない。わかるよね?」

「で、でも! 悪いのはこの人なんだから、正直に話せば正当防衛に……」

「だめだよ。怪我をさせた程度ならそれも通るけど、これはもう死んでる。過剰防衛って、聞いたことない?」


 そう。この場合、僕らに正当防衛は適応されない。人をひとり、殺してしまっている。殺人罪だ。

 未成年だろうと関係ない。罪は罪として背負わされる。実名報道をされないとしても、僕らのことをよく知るクラスメイトや、近所の人たちには知れ渡ってしまうだろう。さらには情報化社会である今、誰かがその情報をネット上に流すことだって十二分に考えられる。そうなればもう誰にも止めることはできない。


「じゃあ、どうしろっていうの……?」


 絶望したように、彼女は顔を覆い隠して膝をついた。


「……ひとつ、考えがある」

「なに?」

「この死体を、なかったことにするんだ」


 僕らに残された道は、これを完全に隠蔽することしかない。

 その時から、僕と彼女の隠蔽工作が始まった。



 死体隠しをする前に、どうしてこんなことになったのかを、僕は左肩の痛みと共に思い返す。

 始まりは、インターホンの音だった。


『放射線量の測量にご協力ください』


 ドアモニターに映る作業服の男は、それらしい機械を手に、そんなことを言っていた。

 その時、僕は交際相手であるハルカを家に招いて、一緒にゲームをしていたんだ。両親が不在になることなど、そうあることではないため、二人の時間を少しでも作れるようにと、早く済ませたい僕は無警戒にもドアを開けてしまったのだ。

 その瞬間、ドアは蹴破られ、僕は顔を弾かれて尻もちをついた。なにが起きたのかを理解しようとするも、痛みのあまりそれどころではない。


「カナタ~? なんかすごい音がしたけど……」


 真っ白にされた頭でも、一つだけわかることがあった。これが緊急事態だということだ。


「来るなハルカ! 来ちゃダメだ!」


 警告をするも、一歩遅かった。

 ハルカはドアを開き、作業服の男との対面をしてしまったのだ。すると男は、それすらも予測していたかのように、肘でハルカのこめかみ辺りを思い切り叩き、一撃で失神させた。


「ハルカに何しやがるテメェ!」


 叫ぶと同時、男は僕の顎をつま先で蹴り上げた。そこで僕の意識はいったん途絶える。


「ぃやああああああああああああッ!」


 悲鳴で目を覚ました僕は、さぁっと血の気が遠のいた。

 両腕を縛られているハルカが、男に馬乗りをされていたのだ。ワイシャツは裂かれ、胸が露わになっている。


「ッ――!」


 慌てて駆け寄ろうとするも、僕もまた後ろ手に両腕を縛られていたため、立ち上がることもままならなかった。


「助けてカナタッ! 助けて!!」

「大人しくしてりゃあ悪いことはしねえよ……」

「イヤッ! どいて、触らないでッ!!」


 男の手が、ハルカの胸を乱暴に掴んだ。そして空いている手でハルカの顔面を打ちすえた。


「うるせぇなあ、黙ってろっての。次はもっと痛くするぞ?」

「ひぅっ……」


 怯えた目をしたハルカが僕を見る。助けてくれと、必死に訴えていた。

 ぷつり、と僕の中で何かが切れる音が鳴る。

 切れたのは、たぶん理性だ。


――ごきり。


 拘束から逃れるために、僕は左の肩を外した。その腕を前に持ってきて、立ち上がる。男はハルカの身体をまさぐるのに夢中で、僕のことになど一切気づいていない。

 僕は男の視界を避けてキッチンに向かい、そこでフライパンを握りしめた。それを選んだのに理由はない。ただ丁度握りやすかったからだと思う。

 右手に持ったそれを高く振り上げ、男の脳天に目がけて全力で叩きつける。底面ではなく、側面を。


「ッが!」


 そんな悲鳴を上げて、男はハルカに覆いかぶさるようにして倒れた。

 殴ったことで男は負傷したのだろう。ハルカの白いワイシャツに、赤いシミがゆっくりと広がっていく。


「……ハルカ、動ける?」


 聞くと、彼女は必死の形相で顔を横に振った。たぶん、恐怖でうまく体を動かせなくなっていたんだ。

 僕は男の身体を蹴ってどかし、ハルカに手を差し伸べて立ち上がらせた。


「けっ、警察……、早く通報……」


 どうやら僕らのスマホは男に取り上げられたらしく、ポケットにその存在感が感じられなかった。


「ひとまず、縄を切ろう。流し台に包丁が乗ってるから、それで切って。男は僕が見張っておくから、安心して」


 ハルカは僕の指示に従い、包丁を使って縄を切りにかかる。しかしどうにもうまくできないようすだ。


「ハルカ。大丈夫だから、落ち着いて」


 ここで急かせば余計に手元が狂うと思い、安心させるように声をかける。

 しかし、僕らは時間を使いすぎていた。

 切迫していたために時間の概念も忘れていたのか、はたまた男の身体が丈夫だったのかは不明だが、僕の縄が切れるよりも早く、男が意識を取り戻してしまった。


「お前ら……、タダで済むと思うなよ!」


 大の大人を相手に、僕ら二人は子供で、しかも両腕は縛られたままだ。勝ち目なんてない。

 男が跳びかかってきた。僕は慌ててしゃがむ。そうして次にどうするかを考えようとしたところで。


――ゾブ……。


 という、おぞましい音が聞こえた。

 僕は恐る恐る、目を開く。水が、上から滴ってきた。赤く、生暖かいそれは、男の血だ。

 ハルカの持つ包丁が、男の左胸に突き刺さっていた。


「は……、ぁあッ?!」

「えぁ……、う?」


 男の悲鳴に続き、ハルカが小さく声を漏らす。そして彼女は己の手を見て、その手に握られた包丁が男を刺していることに気づいた。


「ッ~~~~~~!!」


 ハルカが男を突き飛ばす。男は床に手を突き、再び立ち上がろうとしていた。

 その時僕は、とにかくハルカを守らなきゃと思い、手に持ったフライパンで何度も男を殴った。

 僕だけでもない。ハルカだけでもない。

 僕たちが、人を殺したのだ。



「死体を……、消す?」


 不思議そうに、ハルカが僕を見る。


「うん。刻んで、ミキサーにかけて、トイレに流そう」

「そんな……!」


 僕の提案に、ハルカは青ざめた。


「待ってカナタ……。たぶん、私たち今、冷静じゃないのよ」

「分かってる。けど、夜になれば僕の母さんが帰ってくる。あと、四時間くらい。それまでに死体をきれいに片づけなきゃなんだ」

「でもそんな酷いこと……」


 自分がレイプされかけたというのに、ずいぶんと甘いことを言うんだな。

 ふと口にしかけた言葉で、やはり自分が冷静ではないことに気づかされる。


「残酷だけど、やるしかないんだ。嫌なら、血を洗い流して帰っていいから」


 たとえ一人でも、僕はやる。そう決めた。そうしないければならないと、どこか使命感を覚えていたのだ。


「……わかった。私も手伝う」


 僕が男の襟首を、ハルカが男の両足を持って、死体を風呂場に運んだ。血液の処理をするにはここが良いと思ったから。

 家の物置からノコギリを取り、僕は死体の腕にあてがう。


「……ハルカ。悪いんだけど、リビングの血を処理しといてくれる?」

「……わかった」


 どうやらハルカは僕の意を汲み取ってくれたらしく、おとなしく従ってくれた。

 ひとりで死体と向き合い、僕は嫌な汗を流す。

 唾液が粘り気を持ちはじめ、うまく飲み込むことができなかった。


 右手に持ったノコギリがいやに重い。寒くもないのに腹の底が震える。

 意を決して、僕はノコギリを引いた。ぞりぞりと、繊維を切り裂くような感触が手に伝わる。

 そして、切り口からは血が滲みだしてきた。


「うっ……、ゲェッ!」


 耐えきれず、胃の中身をまき散らす。怖気が走り、自然と吐いていた。たぶんこれは、人の本能的な何かなのだろう。同族を殺したこと、そしてその死体に傷を加えること。それを種の保存だか何だかの本能が妨げようとしているんだ。

 だけどもう、後戻りはできない。殺人罪に加え、遺体損壊の罪だ。始めたからにはやり切る以外の道はないし、始める以外の道はなかったんだ。

 僕はもはや、坂を転がり始めた石も同然。自分の意志では止まることも、道を逸れることもできない。

 吐き気と戦いながら、ぞりぞりという感触を意識しないようにノコギリを動かす。

 これが筋繊維の一つ一つを分断する感触だと思うから気味が悪くなるんだ。


「太い綱だ。僕が切ってるのは、太い綱なんだ」


 自分に言い聞かせる。するとだんだんと、身体から意識が遠のくかのような感覚は薄れていった。意識はそのままに、感覚だけが遠ざかる。

 引けていた腰にも力が入り、綱を切る速度が上がった。そこで、僕の手が新たな感触を受ける。

 骨だ。

 肉を裂いた先には、骨が待ち受けていた。肉ほど簡単には刃を通さない。何度も、何度も、繰り返し押し引きして、ようやく骨を分断する。

 コツをつかみ始めた僕は、そのあとからは早かった。作業開始から十五分。手を、切り落とすことに成功する。

 気づけば浴室の床は赤く染め上げられていた。僕は額から流れる汗をぬぐい、すぐに作業に戻る。

 手を落とすだけで十五分。これは時間がかかりすぎている。両手と両足を切り落とすだけで一時間が経過してしまう。


「もっと、早く……」


 そして、気づいた。骨を切ろうとするから時間がかかるのだ、と。

 そこから僕は、骨の感触を察知するたびに、その部位を踏み砕いた。多少の騒音を気にしている場合ではない。

 そしてリスクを犯しただけの成果は得られた。

 左手を落とすのには十分、両足を切り落とすので五分と、だんだんとペースが上がってきた。

 二時間が経つころには、男の身体の各部位は、ミキサーに収まるだろう大きさに分断できた。


――胴体と、頭を残して。


 いくら作業として意識を切り離しても、そこにだけは手を付けることができずにいる。そこに刃を向けるたび、割れそうなほどの頭痛が始まるのだ。まるでそこが分水域だと、人として踏みとどまれる最後の砦だとでも警鐘を鳴らしているかのようだった。


「ふぅーッ、ふぅーッ!」


 荒い呼吸をし、歯を食いしばる。


「やるしかないんだよ。動け、止まるな、切れ、裂け、分けろ」


 それがこの二時間で身に着けた、魔法の呪文だった。

 それを口にするだけで、僕の心を殺すことができる。

 ようやく腹の底からくる疼きを静めたところに、カラカラと、浴室のドアが音を立てながら開かれた。


「リビング、掃除終わったよ……」


 泣きはらした顔で、ハルカは言った。


「ありがと。じゃあ、次はその辺にあるのをミキサーにかけてくれる?」


 僕の言葉で、ハルカは床に目を向けた。そして目を見開くと、吐いた。


「大丈夫?」


 血の海に、吐瀉物が色を足す。胃液まで吐き切ったところで、ハルカは僕を睨みつけてきた。


「アンタ、おかしいんじゃないの?! こんなことして平気なんて、狂ってるわ!!」

「……うん。そうかもね」


 空っぽの心で僕は返す。

 狂ってる。ハルカが言うならそうなのだろう。

 僕を睨んでいた目が、だんだんと憐れみを浮かべ始める。


「……ごめん。……カナタは、私を守ろうとしてやったんだもんね」


 言葉を返す気力もなかったから、僕は適当に頷いた。


「ミキサー、こっちに持ってきていい? ひとりでやってると、どうかしちゃいそうなの」

「好きにしていいよ」


 そうして浴室には、ノコギリの音とミキサーの音が響く。

 僕は、ついに胴体に刃を立てた。たぶん近くにハルカがいることで、やる気に火が着いたんだろう。

 皮膚を切り、脂肪を裂き、筋肉をかき分ける。するとドロリ、と内臓がこぼれて来た。後ろでそれを見ていたハルカがもどす音が聞こえた。僕は、それを無視した。

 腹から内臓を掻き出し、空っぽの胴にした。そのあとに首を切り落とした。頭を半分にした。それをまた半分にした。それも半分にして、ミキサーに入れられる大きさになった。次に空っぽの胴体に取り掛かった。骨が邪魔だった。このままじゃミキサーの刃が壊れると思った。だから骨を細かく砕いた。それからノコギリで細かくした。分断は終わった。僕はハルカの手伝いを始めた。心臓をミキサーに入れてスイッチを入れた。回転させてしばらくすると、トマトジュースに紫キャベツを入れたみたいな物が出来上がった。それをバケツに移した。ハルカはまた吐いた。いろんな内臓をミキサーでジュースにしたあと、それをトイレに少しずつ流した。トイレは詰まらなかった。何回も、流した。体に付いた血を流すのを忘れていた。トイレにも血が沢山落ちた。全部を流してから、僕たちは順番にシャワーを浴びた。それからトイレの掃除をした。全部が終わったころ、母さんから電話があった。一時間だけ残業が伸びたと言っていた。僕たちは、念入りに証拠が残っていないかを確かめた。


「ねえ、カナタ。これでもう、捕まらないのよね……?」

「うん」

「あのね、こんな時に言うのって変だと思うんだけど、私たち、一生一緒にいましょ?」

「うん」

「別にお互いを監視しようってワケじゃないの! ただ、この出来事は、死ぬまで私たちに付きまとうと思うの。それを共有できる相手がいないと、カナタも辛いでしょう?」

「うん」

「よかった……。それじゃあ最後に、もう一回ふたりで見直ししましょ」

「うん」


 この事件が表に出ることはなかった。

 僕は高校を卒業して、大学も卒業して、就職して、ハルカと結婚した。

 ハルカが子供は二人欲しいと言ったからそうした。

 仕事は定年で退職をした。

 老後は静かな田舎で暮らしたいとハルカが言ったのでそうした。

 ハルカが死んだ。

 老衰だった。


・・・

・・



『十二月八日、今日のニュースをお届けします。本日未明、--県--町で、老人の孤独死が発見されました。海原カナタさん八十二歳。死因は……、脱水。司法解剖の結果、海原カナタさんは、少なくとも一ヶ月、遺体発見現場から動いていなかったとのことです。調べによると、海原カナタさんは先月二日に妻を亡くされていたらしく、それがきっかけで生きる気力を無くしたのではないかと、精神学者の小林氏は語っています。--それでは次のニュースです……』


 彼の死は、殊更に大きく扱われることもなく、数分後には誰の記憶からも忘れ去られていた。

 世界は、何事もなく回り続ける。
















人を殺したことで心を無くしたカナタ。彼は自分というモノを失ったことで、誰かの指示を無くしては生きることもできなくなってしまいました。

ハルカの死後、一歩も動くことなく。

そんな風に罪の意識に苛まれていたのかはともかくとして、殺しの罪に苦しめられていた彼が死んだとしても、世界はそれに気づかない。何事もなかったかのように日常が送られる。



人を殺した罪は、隠すことはできても逃げることはできない。


誰にも、自分の子供たちにすら忘れられて孤独な死を迎える、というのが海原カナタに下された罰だった。


そんな内容で書いたつもりです。

欠片でもカナタの絶望が伝われば幸い。

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死してなお、消えることのない罪 篠宮十祈 @shinomiya

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