一章 日常
(1)
世界を彩るように咲き乱れていた桜の花も今ではすっかり色味を失い、立っているだけでも汗がじんわりと滲むような温暖な気候は、これから始まる夏という灼熱地獄の兆しを感じさせた。
鬼島悟はいつもの様にゆったりとした足取りで学校へと向かっていた。
すっぽりと耳の穴を塞いだイヤホンからは、お気に入りの曲が流れていた。
今日も良い朝だ。悟は朝のこの時間が好きだ。好きな曲に身を任せながら、自分のペースで歩く。そうしていると、まるで自分がこの世界の主人公にでもなったように感じられた。学校に着くまでのおよそ15分程の時間、世界の中心は自分だ。そんな風に感じさせてくれる時間だった。
程なくして校門が視界に入った所で、至福の時間は終わりイヤホンを耳から外し現実へと戻る。だからと言ってこれから不幸が始まる、という訳でもないのだが。
神下高校。
少し歩けば山林に入る事が出来る程の田舎高校だが、校舎の佇まいはそれなりの質を保っている。喧噪を離れ緑に囲まれた立地は落ち着いた環境にあると言える。
静かで自然な環境と、平凡な自分の学力に見合った偏差値が悟の進学先を神下に決めた。
ここに来てひとまず満足はしている。それなりに友人に恵まれ、それなりに勉学もこなし、隅に追いやられるような心貧しさやそりの合わない居心地の悪さを感じる事なく毎日を過ごせていた。
「おはようーさとるー」
「さっとん、おはよ!」
いつものように2-2と掲げられたクラスの扉をくぐると、クラスメイトからの挨拶に迎え入れられる。一年という時間はあっという間で、気付けば新たなクラスメイト達との時間を共有していた。時間を早く感じるという事は、楽しく過ごせているという事なのだろう。この調子でいけば、きっと卒業もあっという間なのだろうなと悟は思った。
鞄から教科書類を取り出し自分の机に収めていると、ふいに何やら頭上に違和感を覚えた。
「ん?」
微かだが、何かが自分の毛先に触れているようなくすぐったい感覚。一瞬であれば気のせいかと思えるような感覚だったが、その感覚は勘違いと思うにはあまりに長く頭上に残り続けた。さすがにおかしいと思い、自分の手を頭の方に向けようと腕をあげたその時、
「まだ動いたらあかんよー」
悟の背後から声がした。その声を聞いた瞬間、悟の心はがっくりとしな垂れた。登校中に感じていた幸せは消え失せ、一気に底へと沈んでいく。そうだ。もう主人公は自分ではない。
はあ、と悟は諦めと悟りを含んだため息をもらした。
「動いたらどうなるんだよ」
「その勇気があるんなら、そうしてもええんやで」
悟はもう一度ため息をついた。声の主は一体今日は何をするつもりなのだろうか。
一つ分かっている事は、決して悟にとってプラスにはならない、ろくでもない何かだという事だ。
じょぎぎぎ。
「え?」
頭上で聞こえたその音に悟の時が止まった。
その音を悟は別の場所でよく耳にした。二ヶ月に一度程度通う場所。
決して好きな場所ではなかったが、全てが終わると身も心もすっきりする場所ではあった。
「おい、まさかお前……」
返答の代わりに、悟の机の上にパラパラと何かが舞い落ちてきた。ゆっくりとしたスピードで落ちた黒く細い線達。後ろから右手が伸びてきた。トドメとばかりにその手に握られていたものが机の上に置かれる。そこにはあったのはどこにでもあるようなハサミだった。
「うへへへ」
品のない笑い声が背後から聞こえた。
そこでようやく悟は後ろを振り向いた。
「おい、ざけんなよ! いくらなんでもやりすぎだろ! 笑えねーよ!」
振り向いた先にいたのは予想通りの人物で、予想通り満足そうな笑顔を浮かべていた。
まるで全てがこうなる事を分かっているような様子だった。
「いやいや、今日も元気そうで何よりですなー悟君。朝からそんなにおっきな声出して」
「うるせえよ! こっちは髪の毛切られてんだぞ!」
彼のイタズラ好きは重々承知しているが、今日のこれは少し度が過ぎている。いつもなら笑い飛ばしてやる所だがさすがにその気にはなれなかった。ところがそれでも彼は変わらず笑顔のままだった。
「おい! 笑いごとじゃねえって!」
「おいおい、さっとん。何怖い顔しとんねん。俺がそんなひどい事する男やと本気で思うとるんか?」
「思ってるも何もこの切られた髪が何よりの証拠だ」
「証拠ねー」
そう言うと彼は後ろに回していた左手を自分の胸の前に持ってきた。その手には何やら馬の尻尾のようなふさふさしたものが握られていた。
「そっちはフェイク。これがホンモノの証拠ってやつや」
「……お?」
「机の上よう見てみい。お前にそんな茶色い毛生えとったら、今頃とっくに生活指導室行きやで」
そう言われて悟は机の上に落ちている髪の毛をもう一度よく見てみる。すると、どれもこれも確かに悟の地毛とは程遠い明るい茶髪だった。
「はっはー! さすがにビビったやろ?」
「ビビルわそりゃ! あーマジ焦ったー。毎度毎度こんなイタズラ思いつきやがって」
「そない褒めるなや」
「普通にキレるとこだったぞ。でもそんなのどこで手に入れたんだよ?」
「これか? この前散髪屋の兄ちゃんに頼んだんや。ちょいとイタズラで使いたいからもらえへんかって。それはええなあって兄ちゃんすぐくれたわ」
「今度会わせろ。一言正式に文句を言いたい」
「それは堪忍したってくれや。善意で言うてくれたんやからさ」
「悪魔の善意は悪意だよ」
「はは、おもろいなその言い回し。兄ちゃんに伝えといたるわ。ほなまたな」
そう言うと彼は、足取り軽くさっさと教室を出て行ってしまった。
「操ちゃんにまたやられたな」
クラスメイトに慰められるように肩を叩かれた。
「勘弁してほしいよ」
そう言いながら、悟の顔には笑みが浮かんでいた。
イタズラ好きな彼の存在は、退屈な日常に刺激を与えてくれる希少な存在だった。
冠無操。
そんな彼が、悟は嫌いではなかった。
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