アイロン

@Hard4537

プロローグ

1話 田舎と都会の狭間で愛を叫べない

 退屈な日常。

 ありきたりで平凡。

 窮屈で、その上頑丈と来ているので、壊そうにも壊せない。

 もっとも、自分にはそんな日常を打破出来る程の行動力も度胸も無いのだが。



―渡町―

 東北は宮木県の最大の都市である千台市から南下した場所に存在する太平洋沿岸、阿武熊川の河口に位置する町。

 宮木最大の面積、人口を誇る千台からそう遠くは無いはず(距離にして二十キロ弱)なのだが、これといった特徴は無く、人口三万弱の田舎という形容詞が似合う、苺が名産品で郷土料理のはらこ飯が自慢の町。

そこに生を受け、夏原秋なつはらあきというちぐはぐな名を授かり、十八歳の今日まで育った。

 小学校を卒業し、当然の様に学区内の中学に進学。その後、成績表に従って地元の高校に進学。

 中学の卒業式の最中、秋は悟った。

 きっと、ずっとここで生きていくのだろう、と。

 高校卒業後は、この町で職に就き、この町で知り合った男と結婚し、この町の将来を担う子を産む。

 男の子だろうか、それとも女の子だろうか。出来れば女の子が良い。

 友人の母親を見ると、それを嫌というほど思い知らされる。

 ただでさえ平日は家事を一手に引き受けて四苦八苦。

 加えて休日は長男の所属する野球部の活動に付き添い、ゲリラ戦の様に町中の球場や小学校で行われる試合の応援。

 一週間の内、五日間必死に家事をこなし、その上週末は子供に時間を取られてまた四苦八苦。

―よし、女の子にしよう―

 たった今子供の性別は決まった。

 一姫二太郎とはよく言ったものだ。

 さて、どうだろうか。

 安心の信頼設計に基づくこの抜かりなく面白みゼロの人生。

 とはいえ、下手に冒険をして両親の老婆心全開の小言を三十手前で延々と鼓膜に響かせるよりは、余程心身に優しい筈だ。

 兎にも角にも、自分にはこの小さな町で小さく慎ましく、質素に簡素に生きていく。

 他に道は無いのだから。

 そう思っていた去年の春が、今では懐かしい。





「眠い・・・」

 二週間の春休みは瞬く間に過ぎていき、時既に始業式。

 春眠暁を覚えず。

 それを体言するが如く惰眠を貪った秋の春休みは、本人以外には理解出来ない贅沢な二週間だった。

 さて、留年という死神の鎌を鼻先五センチで潜り抜け、何とか三年生に進級した秋だったが、それを祝うかの如く学校側からあるプレゼントが贈られる。

 毎年恒例、三年生全員を対象とした春の実力テスト。始業式が終わり次第下校できる一・二年生とは違い、三年生は始業式が終わる二時限目以降の時間を使い楽しい、実に楽しいテストの時間となる。

 この日のために準備をする生徒は多い。

 卒業後は地元の企業に就職する予定だった秋生にとって、結果が成績に反映されない実力テストなど半ばどうでも良いことだった。

 だが、学校行事の一環とあれば受けざるを得ない。

 この一年間は特に赤点と欠席に注意しなければならない。テストの結果は関係なくとも欠席が増えるのはよろしくない。

「はぁ・・・」

 溜息をこぼしながら、窓を見る。

 外には新学期の到来を告げる桜が、ここぞとばかりに舞っている。

 やがてそれは青々とした緑に変わり、美しい紅葉、真っ白な銀世界と続く。

 そして再び桜が舞った時、自分は新社会人となっているはず。

 と、なればここで悠長にテストなど受けている場合ではない。

 一刻も早く、来たる就職戦争に備えなければならない。

(やっぱりパソコン使えないとダメだよねぇ・・・エクセルとかワード・・・。あ、後・・・なんとかポインタとか・・・)

 と、迫る眼前のテストをよそに、漠然と浮かび上がる就活対策に考えを巡らせる。

 春休みという名の準備期間は、彼女にとっては普段より多く睡眠を取れる二週間でしかなかった様だ。

 進学を希望した進学組の生徒達、そして自身が希望する企業や公務の職に就く為に心血を注いだ真の就職組の生徒達とは雲泥の差である。

(あー・・・簿記とかも良いかなぁ・・・)

 秋があまりにも漠然とした思索をしているうちに問題用紙と解答用紙が前の席の生徒から配られる。

「・・・っとと!」

 慌てて自分の分を確保すると、余りを後ろへ回す。

 一時間目は現国。どちらかといえば得意科目だ。

「では、始め」

 始業ベルが鳴り響くと同時に担当教員が開始の合図を出す。

(ま、チャチャッとやっちゃいますか・・・)

 早速問題に取り掛かる秋だったが、その姿勢は殺気立つ進学組みの生徒とはまた随分違った。

 分かる問題を探し、可能な限り解いていく。

 そこまでは同じだが、進学組とは違い、プレッシャーゼロの中で受けるマークシート形式のテストは最早ゲーム。

 答えが解らなければ、とりあえず正解だと思える番号をマークすれば良い。

 例え零点でも自分にとって何の問題も無い。

 そんな気楽な六十分を繰り返すこと五回。

 最終教科である英語の時間に至っては、テスト終了後の行動ばかり考えていた。

 隣では一点でも点数を上げようと努力する生徒の熱気が伝わってきた。

 あらぬ疑いを掛けられる訳にもいかないので、彼の方向を見ることはできない  が、その勢いは真剣そのものだというのは嫌でも伝わってくる。

(熱いねぇ・・・)

 自分も進学を希望していれば、あの熱気を纏うことができたのだろうか。

 進学という目標に向かって邁進していたのだろうか。

(まさか・・・ね)

 直ぐさま無理という結論が出る。

 小・中・高に加えて大学まで行って勉学を修めるなど、自分には無理だ。

 それに、大学に行ってまでやりたいことが秋生には無い。今の何もない自分には同じく何もない渡町がお似合いだ。

 身分相応、高望みせず確実に手がとどく範囲の幸せだけを掴んでいけば良い。

 理想を追い求め、自身を研鑽するのはエリートにでも任せておけば良い。

 そう自分に言い聞かせ、時計を見るともう残り時間はあと数秒というところまで来ていた。

(・・・7・・・5・・・3・2・1)

 「はーい、それまで!」

 担当の教師の声が終了を告げるチャイムと共に教室に響く。

 それまで教室を包んでいた緊張が一斉に解ける。

 確かな手応えに高得点を確信している者、そうでない者、様々な表情が生徒達に浮かぶ。

「じゃ、今日はこれまで!みんな疲れただろ?今日は帰って早く寝て、明日からの生活に備えるように!」

 教師の声を聞くと同時に友人達と共に教室を飛び出し、まるでラジオの様に陽気な口調で他愛も無い会話を繰り広げつつ帰路に着く。

 同じように教室を出た進学希望の一部の生徒が周囲に振り撒く陰鬱な空気も何処吹く風といったところ。

「テスト・・・ヤバかったよねぇ・・・全然解らなかったよ・・・」

「だよねー・・・もっと勉強しておけば良かった・・・」

 と、文にしてみるとあたかも危機感を募らせているかのような友人達の言葉だが、彼女達の顔はとてもそうは見えない。

「結果、心配だなぁ~」

 かく言う秋もまた同じ。

「ま!過ぎたことは悔やんでも仕方ないよ。それに今は・・・」

 テストの結果は悲惨であろうことは容易に察している。

 それでも構わない。今はそれより気掛かりな点がある。

「夕飯がエビフライかハンバーグか、そっちの方が問題だよ!」

「秋らしい」と笑う友人達。

 散りゆく桜が夕日に染められる中、秋たちの笑い声が響く。

 いつも通りの下校風景。そして今後もしばらくは変わることのない下校風景。

「ただいまー」

 家に帰宅するや階段を上がり居城である私室に転がり込む。

 制服のままベッドにダイブ。

 テストの事など既に頭から無い。

 もっとも、秋生が終わったばかりのテストを振り返り、今後の糧とする様なタイプの生徒なら今頃は進学組み同様、今回のテストに全力を振り絞るはずなのだが。

「ふぅ・・・」

 力の抜けた息を一つ吐き出すと、仰向けに天井を見上げる。

 今日の今まで変わる事の無く、そして今後もしばらくは変わることの無いだろう自分のベッドからの視点。

 中学生の頃は嫌でたまらなかった。自分の人生は以降も変わらず渡町で過ごすことになるのだと告げられているように思えたからだ。

 それがどうだろう。高校生、それも三年生になると、むしろ安心感すら覚える。 精神が大人に近づいているからか、それとも感覚が麻痺してしまったのか。

 どちらにせよ今の秋にはありがたかった。

 この感覚に身を任せて、後は流れるように生きていけばいい。

 この町を出るというのは中学生までの、そう子供の頃の淡い幻想だったのだ。

 そう、だから今は―

「秋~!ごはんよ~!」

 今晩の夕飯を、一時何もかも忘れて大いに楽しもうではないか。

「はーい!」

 敵陣に切り込む戦国武将の様に颯爽と階段を駆け下り、家族が待つ食卓へと向かう。

 秋が席に着く頃には既に家族は揃っていた。

  右前方に母、正面に父、隣には一つ下の妹。いつも通りの配置である。

「今日の夕飯はなぁ~にかなぁ~?」

 爛々と目を輝かせ、本日の主菜に視線を送る秋生。

「今日は豚の生姜焼きよ。アンタ好きでしょ?」

「む・・・むむむ・・・」

 確かに好物ではある。

 しかし、好物の生姜焼きが夕飯に並んだ喜びよりも、冷蔵庫の貯蔵物、ここ数日の献立、母の性格といったデータに基づく自身の予想が外れたことの驚きの方が僅かに内心を占める度合いが大きかった。

 自慢ではないが、秋の献立予想はここ3ヶ月、外れていなかった。

 妙なざわつきが、秋の胸を駆けた。






「次ぃ、夏原―。」

 自分の目の前に座る内藤の絶望に満ちた顔を尻目に、「はーい」と気の抜けた返事すると、そそくさと五教科の点数のみを記載された短冊形の用紙と共に、採点済みの解答用紙を受け取る。

 予想通りの点数が目の前に飛び込む。―ハズだったのだが。

「なかなかやるじゃないか、見直したぞ」

「・・・へ?」

 小学6年生以降、まるで縁の無かった数字の列が目の中に飛び込んできた。

 正直、驚いた。

 答案を受け取り自分の席に着くまでの道程が、まるで水上闊歩の様。

―夏原秋、合計点数430点―

 進学組みの平均点を上回る上々の結果である。

 と、受け取るべきなのだが、当の本人は進学の気など毛頭ない。

「は・・・はは・・・」

 背中に汗がじんわりと浮かび上がってくる。

 背中にはこういう形でも汗をかくものなのか、と胸中で呟く。

「すごいじゃーん秋」

 同じく端から点数を取る気の無い友人達が結果を覗き込んでくる。

「ま、まぐれだよ!たまたまってヤツでさ・・・」

 テスト形式がマークシート形式。何箇所かは適当に塗りつぶした箇所もある。

 詰まるところ偶然だ。点数は結果でしかない。そう割り切るべきだった。

「知らなかったぜ、勉強していたなんて。やっぱり進路は進学に切り替えて、大学狙うんだろ?」

―大学―

 進学組みの生徒の耳にその単語が飛び込んだ途端、何人か頭を抱える。

 今年が勝負の年ということもあり、成績の芳しくない生徒には現実を突きつけられる非常に重い単語である。

 だが、今の今まで渡町に骨を埋める覚悟で生きてきた秋には、大学という単語はまた別の意味で響いた。

―都会―

 憧れがあった。

 中学から高校に進学する際、それは捨てたはずだった。

 だが、それが再び目の前に訪れた。

 手を伸ばせば届く、かもしれない。

 どうすれば良いのか。

 悩む秋だったが、彼女自身、この時既に脳内に「就職」という文字は完全に消え失せ、どうすれば関東の大学へ、憧れの東京に行くことができるのか。その方法を模索していたのだった。

 その後に関しては実にテンポよく事が進んだ。

 担任は秋の進学への進路変更を快く承諾し、応援してくれた。

 期待に応えるべく、秋は毎日、ただ只管に机に向かった。

 すぐに進学という行為は自身が思っていた以上に険しい道と痛感した。

 だが、諦める訳にはいかない。

 何せ都会という大きな人参が目の前にぶら下がっているのだ。騎手が鞭を打とうが打つまいが関係なく駆ける暴れ馬が如く、驚異的スピードで学力を身につけていく。

 桜が枯れ、蝉が鳴く季節が終わる頃にもなると、その甲斐あって、そこには一人前の受験生の顔をした夏原秋がいた。

 当初は娘の急な進路変更に不安がっていた両親も、欲望に駆り立てられた秋の必死の説得の甲斐あって、いつしか自身の進学を応援してくれる立場についてくれた。

 特に夏に行われた模試の結果が両親を納得させる決定打になった。

 秋の志望する私立大学(当然だが、都内である)は決してハードルの高い大学ではない。

 が、これは一般的な受験生にとって、である。

 受験というものに対して、何の準備もしてこなかった高校生がいきなりその門を通れる程、そのハードルは低くはない。

 それを春から本格的に勉強を始めた秋がA判定を叩き出したのだ。両親もその努力を認めざるを得ないという訳である。

 何よりその結果に驚いたのは秋自身である。

 私立大故に入試に用いられる教科が少ない(国・英+一教科の計・三教科)とはいえ、まさか短期間でこれほどの成長が出来るとは自身、夢にも思わなかった。

 行ける。これは、行ける。

 自分の中に生まれる確かな自信。

 勉強をすればするだけ偏差値という結果に現れる。いつしか秋にとってそれが一つの快感となっていた。

 もっと、もっと。

 脳が、身体が、心が夏原秋という存在を日々机に向かわせた。

 だがこの時、まさかこの溢れ出る向上心が思わぬ展開を彼女にもたらすとは、本人も含め誰も知る由は無かった。





「名鳥(なとり)大学・・・ですか?」

 紅葉の季節が訪れた頃、「話しがある」と秋は担任に職員室に呼び出されていた。

「そうだ。名鳥大を受けてみないか?今のお前の学力なら、可能性は十分考えられる」

―名鳥大学―

 宮木県は名鳥市に存在する公立大学。宮木県に存在する公立大学の中で唯一、入試における必要科目が3科目となっている。公立大学といえば、センター試験+二次試験7科目というのが今までの常識だったが、最近は3科目入試を行う公立大学も増えている。

名鳥大もその一つだ。

 それにより、私立大学を狙いつつも取り合えず名鳥大は受験するという受験生は宮木を始め、周辺の県にその数は毎年推移するものの確実に存在する。

 更に、名鳥大最大の売りは何といってもその学費の安さである。年々増加傾向にある今日の国公立大の学費事情だが、名鳥大は7年前の創設以来、入学料、授業料は常に一定。加えてその金額の低さは東北トップであり、他の追随を許さない。

 「とりあえず大学」という昨今の風潮が追い風となり、名鳥大を受験させたいという家庭は数多い。

「名・・・名鳥大・・・ですか・・・」

 思わず苦笑いを浮かべる秋。

「そうだ。3科目入試で今までの努力をそのままぶつけられる。成績は十分に射程圏内。おまけに安い学費。それに今お前が希望している大学よりもランクは上と来た。あとな、親御さんだって娘を関東に、しかも東京に一人送り出すより、電車で15分の名鳥の方が安心だろう」

 満面の笑みを浮かべ名鳥大を勧める担任を前に、秋は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

「で、でもこういうのは両親と相談しないと・・・」

 冗談ではない。こっちは夢の東京進出を頭において今まで必死に受験勉強に取り組んできたのだ。それをこんな所で邪魔される訳にはいかない。

「む、それもそうか・・・」

(――ッ!!)

「じゃ、そういうことで失礼します!」

 好機は今とばかりに全力で反転し、職員室を秋は飛び出そうとした。

「よし、夏原、もう一度三者面談だ。親御さんの都合の良い日、後で教えてくれ」

(なっ・・・!?)

「え・・・えと・・・」

 この時、秋の身体を駆け抜けた悪寒は今でもはっきりと思い出せる。

 嫌な予感が胸を締め付ける。

 血液の全てが凍り付いていく様な感覚が襲う。

 頭の中が真っ白になる。

 そんな中、正直な秋の腹の虫は音を立てて空腹を訴える。

 場違いな音に一瞬、冷静さを取り戻した秋は胸中、ポツリと呟いた。

(今日は・・・カレーな気がする・・・)

 悪い予感と重なるように、その日の夜はカレーが食卓に並んだ。





 桜が舞い散る中を一台の黄色のベスパが駆け抜ける。

 それを操るのは気だるい雰囲気を纏った女性だ。

 名を、夏原秋と言った。

 彼女は今、新天地へと向かうその最中にある。

 高校を無事に卒業し、進学という進路を取った秋。

 今、彼女が乗車しているベスパは卒業記念に祖父から譲り受けたものだ。

 限定生産された価値のあるモノ(180SSがどうとか祖父が言っていた)らしいが、秋にとってはただの軽二輪でしかない。

 移動手段が増えたことは嬉しかった。

 とはいえ、頂いたからには乗らねばと半ば強制的に二輪免許を取得させられた為、秋にとってベスパのイメージはあまり良いものではなかった。

 故に、出発当日に「ベスパにはコレだ!」と餞別代りに年代モノのエレキベースを渡されたが(リッケンだかロッケンだか)、今度の休みに取りに来ると体よく断った。

 さて、そんな彼女がベスパを走らせるは――

「そろそろ・・・か」

 目的地が近づくにつれ、秋は憂鬱な気分は一層強まっていく。

 それもそのハズだ。

 昨年、自身の成績上昇に伴う志望校の変更をするか否かを話し合う場と設けられた夏原家のみに行われた特別三者面談。

 秋は成績に関係なく、あくまでも自身の当初の志望校を目指すことを担任に告げた。

 その場に参加した両親も秋の意志を尊重するとの旨を担任に伝えた。

 こうなれば秋の悲願は成就する、ハズだったのだ。

 あの瞬間、そう、名鳥大の学費の件を担任が話すその瞬間までは。

 元々、夏原家の当初の予定では長女の秋が一般企業に就職する予定だったのだ。

 故に大学関連の情報をまるで持ち合わせていなかった。

 当然、名鳥大の全国屈指の学費の低さなど知る由も無かったのだ。

 値段を聞いた瞬間の両親の太陽と見間違うかの様な顔は今でもハッキリと思い出せる。

 それからの出来事は流水の上の木の葉が如くだ。

 有無を言わせず志望校の変更が決まり、その頃には就職に進路変更することなど出来るわけも無く。

 しかもいつの間にか東京の志望校への受験は(夏原家の財政事情的に)無しということに。

 わざと落ちるという選択肢もあったのだが、金銭的な事柄が含まれつつも、応援してくれる家族の手前、とても実力を出さずにわざと落ちるということは出来なかった。

 その為か、入試当日はこれまでの模試よりも格段に上質の回答を解答用紙に書き込めた。 

 ともすれば、結果は言わずもがな。

 気がつけば卒業式が終わり、名鳥大の新入生としての春を迎えることになった。

 しかも、自己鍛錬の一環として名鳥市での一人暮らしをすることまで決まってしまった。

 実は秋が合格を決めたその日に両親が知り合いの不動産屋に連絡。

 手頃な物件を押さえてもらっていたらしい。

 そして今日は記念すべき入居日ということだ。

 正直、電車で15分の距離で親元を離れるというのもしっくりこない。

 一度夢見た(都会での)一人暮らしとは、程遠いものになってしまった。

「ああ・・・嗚呼・・・ハァ・・・」

 嘆きとも溜め息とも取れるものを身体の奥底から吐き出しつつバイパス4号線を直走ると、いよいよ目的地である名鳥市が見えてきた。

 正確にはそれらしい建物が見えたわけではなく、

「これより先、名鳥市」

 と記された標識を発見しただけなのだが。

 ―名鳥市―

 宮木県中央南部、太平洋沿岸に位置する千台市の南東に隣接する都市。

 感覚としては渡町と千台市との中間と言ったところだ。

 特徴としては千台空港が市内に存在することや、名鳥駅に隣接しているビール工場が挙げられる。

 沿岸部に位置するということで、港(百合上港)が存在する。

 そして来神山古墳を筆頭として多くの文化財が存在することである。

 また、名産品としてビール工場のビール酵母を使用したカステラ、ビーテラなるものがある。が、その知名度はあまり高くない。

 全国的に有名な点と言えば15年前、惑星探査の為に打ち上げられた無人探査機が来神山古墳に落下「」くらいか。

 4年間。

 この町で4年間という時間を過ごす。

 名鳥といえば、千台に向かう際の通過点というイメージしかなかった秋にとって、この名鳥市での生活は新鮮な体験であることに違いは無かった。

 だが、問題は秋自身がそれを全く望んでいない点である。

 先日、東京の大学に進学した友人から無事に到着したという旨を伝えるメールが届いた。

 メールには東京各所を撮影した写真が添付されており、東京進出の夢が儚く潰えた秋にとって、その写真は毒でしかなかった。

 もしも願いが叶うならばこのまま愛車を飛ばして東京に行き、そのまま住み着いてしまいたいくらいである。

 これまでの人生の中で、春だからといって別段特別な気持ちを抱いたことは無い。

 だが、今年の春は別だ。

 夢も、希望も、目標も何もない。

 まさしく虚無だ。

 それは秋だけではない。この町もそうだ。

 何の魅力も無い。

 何の変哲も無い。

 何の変化も無い。

 そんな空の町で過ごす4年間など、想像したくもなかった。

「・・・」

 それは、最早溜め息すら出なくなった午後13時のことだった。

 秋の気分がその日最も沈んだ瞬間、彼女は名鳥の土地に愛車と共に足を踏み入れた。

―その瞬間―

「・・・ッ!」

 ベスパを運転しているが故に感じる風。

 それとは完全に異なる質の風が秋を包んだ。

 暖かくも、春の陽気を和らげる涼しさを纏った風。

 その風は、一瞬だが沈んだ秋の心をふわりと救い上げてくれた。

「・・・」

 いつの間にか彼女の顔には、笑みが浮かんでいた。

 国道4号線、名鳥市内をベスパが駆け抜ける。

 気だるそうな雰囲気を纏った、しかし、笑顔の女性を乗せて。


―名鳥市―

 ゆっくりとした、穏やかな時間が流れる町。

 誰しもが知っている町、というほど有名ではない町。

 宮木の南部にひっそりと存在する町。

 勿論、町の人々に尋ねれば十人十色、様々な町自慢が聞ける。

 だが、そんな中一つだけ町の人々が口を揃える自慢話がある。


 

―この町には、いい風が吹く― と。

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