天ノ道ヲ征ク

岡村 としあき

第1話 有言実効

 少年は一瞬、何が起こったのか理解できなかった。


 赤一色に染まったビルの壁も、まるで死んだように動かない女性も、むせるような血の臭いも、何より……。


「ばけ、もの?」


 化け物。そう、化け物の存在だ。


「あ~あ、見られちまったか」


 黒一色の体毛と、刃のようにするどい二本の牙を持つ、巨大な狼。さらにその化け物が人語を操り、語りかけてきたのだ。


「しゃべ……え、しゃべった?」


 現代日本の午前8時。平凡な日常から少し外れたところに、異世界のような非日常がそこにあった。


「ん、だよ、これ……」


 ガチガチと歯が震え、少年の体が恐怖に包まれる。前を見ても、横を見ても、下を見ても、現実からほど遠い非現実、非現実、非現実。


 高2の一学期初日。始業式に遅刻しないよう裏道を通って学校に行って、校長のくだらない話を聞いて、クラス替えにドキドキして……いつも通りのつまらない高校生活が始まると少年は思っていた。


 けれど裏道を通ろうとした時点で、彼の運命は大きく変わることになった。


「ぶっ殺しとくか、野郎なんか食ってもうまくないだろーけど、ひゃははは!!」


 化け物が低い声で笑う。そして、狭いビルの隙間を黒い影となり、跳躍した。


 落下地点は少年の頭上。このままいけば、頭に牙が刺さる。刺さってしまう。そうなったら、どうなるのか?


「おいおいおい!! ウソだろ!?」


 答えは――死。それを回避する手段はどこにもない。逃れようのない死の運命が、少年に降り注ぐ。


 屈みこんで両手で頭を抱えると、少年は静かにその時を待った。


「もう、大丈夫だから」


 だが、その時は来ない。代わりに少女の声がして、同時に何かが盛大に吹き飛ぶ音がした。


「え?」


 身を裂くような痛みはなく、代わりに嗅いだことのない甘いイイ匂いが、少年の鼻孔をくすぐる。


「あなたは、私が守る」


 再び少女の声がして、少年は屈みこんだ頭をそっと上げる。すると……目の前に可愛らしいクマさんがいた。いや、正確にはクマの刺繍が施された女性用下着。もといクマさんのパンツに包まれた少女のお尻であるが。


「げ! ぱ、ぱんつ!?」


「な、何見てるんですか! 今すぐ死んでください!!」


 クマさんが少女のスカートの下に隠れると、白い生足が少年の左頬を薙いだ。


「あなたはアホですか!」


 少女は少年を見下ろしてそう言った。


 長い黒髪と、清楚な雰囲気の美少女だった。少年と同じ高校の制服を着ているが、彼女の姿を見かけたことはない。


 これだけの美人なら顔くらい知っていてもおかしくないので、下級生か、転校生かそのどちらかであろう。けれど、それ以上を考える前に左頬が痛み、少年は声を上げた。


「守るって言っておいて、いきなり死ねはないだろ。なんなんだよ、もう!」


 少年は赤く腫れた左頬をさすりながら、180度態度が豹変した少女に困惑する。けれど、朝一でいいモンが見れたので、それ以上抗議の声を出すことはなかった。


 それになにより。


「へひゃはははは! うまそうなメスガキみ~っけ。まずはお前からいただきま~す!」


 化け物が再び襲い掛かってきたからだ。


「獣の言玉ことだまの使い手、ですか……」


「こと、だま??」


 少女はずっと携帯しているのか布から長い刀を取り出し、柄の部分に埋め込まれた『技』と書かれたビー玉程の大きさの玉を取り外した。そして、今度は『火』と書かれた同じ大きさの玉を取り付け、小さな口を開く。


「有言実効」 


 その言葉を引き金にして、真っ赤に燃え盛る炎が刃に宿る。


「有言実行って……ことわざ? うわ!?」


 少年のつぶやきは、化け物の爪と少女の刀が激突した衝撃音でかきけされた。


「てめえ、『火』の言玉持ってんのかよ……ち。ただのメスガキだと思ったら、だまされたぜ。こいつはちーとばっかし、分が悪いな」


 化け物は勢いよく後ろに後退すると、背中を見せて去ろうとした。


「逃がしません!」


 それを見た少女は後を追おうとするが、化け物が振り向きざまに繰り出した鋭い爪を受け、吹き飛ばされてしまう。


「しまった!?」


「ひゃははは! じゃあな、可愛いメスガキ! お前は後でちゃんといただきますしてやるよ、ぐっば~い」


 化け物は低い声で笑うとビルの隙間を飛び回り、逃げ去った。


「おい、大丈夫かよ?」


「問題ありません」


 少年は倒れた少女に駆け寄り体を起こそうとするが、少女は立ち上がる。


「あ」


 少女のスカートのポケットから何かがこぼれ落ちる。それはビー玉ほどの大きさをした2つのガラス玉で、それぞれ『奪』、『力』と書かれていた。


 少年はそれを拾い上げ、少女に返そうとするが、少女の顔が近づいてきて遮られる。


「ケガはなさそう、ですね。ごめんなさい。そして、今見たことは忘れてください」


「え? 忘れろたって――」


 再び少女はガラス玉を取り出して、小さな口を開く。


「有言実効」


 その言葉を聞いた途端、少年の意識は遠のきそうになった。


「……巻き込んでしまって、ごめんなさい」


 最後に少年が見た物は、『忘』と書かれた小さなガラス玉だった。

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