第1話 噂話には御用心
気が付くと、彼の首筋を食んでいた。
柔らかな首の皮を、私の牙は易々と貫く。
じんわりと血の暖かさが、味が、匂いが、私の身体に染み渡っていく。
――湧き上がってくるソレは、恍惚とした感情。
なぜ、私は。
――舌に染み込むようなソレは、この世に二つとない【彼の】味。
普通の人間であろう、彼の首に。
――この身体全てで感じたソレは、私にとって唯一の【世界】になった。
牙を突き立てていたのだろうか。
―――――
肌を包み込むような優しい朝日が、私の目に飛び込んできた。
まだ覚醒しきっていない頭で、思考する。
昨日は確か、彼の背中で眠ってしまった気がする。
森の中の冷たい空気とまったく違う、広い背中から感じる温度が暖かくて、気持ちよかったから仕方がないだろう。
そうだ、彼はどこに居るのだろう。ルーカス、という名の彼は。
目だけを動かし、周囲の状況を探る。
この天井を見るに、ここは木でつくられた部屋だろうか。
窓が一つあって、そこから差し込む光がこの部屋の唯一の光源なのだと気づくまで、数秒は時間を要した。
その時、部屋の木がきしむ音がした。音がした方を向くと、そちらには、もう見慣れた彼の姿があった。どうやら椅子から立ち上がったらしい。
「おはようございます」
起き抜けで私の喉は枯れており、かすれた声で彼に挨拶した。
彼はそんな私を気遣ってか、木でできたカップに入った水を渡してきてくれた。
ぐい、と一度に飲み干した。冷たくも、温くもない。ちょうど良い温度で、喉の渇きは一瞬にして癒えてしまった。
「おはよう。朝日に当たっても大丈夫、っていうのは本当だったみたいだな」
どういう意味だろうか。
まったく分からないので、私は彼に疑問を呈した。
「本当、ということはどういうことです?」
「ああ、すまん。昨日の話じゃあ、朝日の光に浴びても灰にはならないということらしかったんでね。試してみたんだ。お前が伝承通りの人を襲う悪の吸血鬼ではなく、善なる吸血鬼だとね」
精一杯、私は彼を非難めいた目で見てやる。
なんという男だろうか。自分の胸の内を明かすのみならず、試してみた、などと。
「私をそんなに殺したいのなら、今すぐにでもその腰についている剣で、私の心臓を貫いてしまえばいいじゃないですか。回りくどいやり方は、嫌いなんですよ」
少し語気が荒くなってしまったが、それも仕方のないことだ。
昨日の夜、確かに朝日が当たっても大丈夫だ、という話はしたが、彼自身が確認をするために、わざわざ朝日が当たるような状況に放り出して、それを観察するというのはどうも、やり方として気に喰わない。
私の抗議を聞きながら彼は、手に持った木のカップを傾け、なにか温かそうなモノを飲んでいる。
なんというふてぶてしい態度か。
「本当にすまん。だが、お前にも問題はあるだろう? いきなり森の奥深くで出会ったと思ったら、世界の果てへいかないか? だぞ。警戒もするさ」
彼の言い分に少し反論して見たくなったが、よく考えてもみた。
彼と私が逆の立場だったらどうだろう。
今まで多くの旅をこなしてきて、人の善悪を見せつけられてきた私の前に、怪しい全裸の男。しかもそれが欺瞞と策謀に満ちた吸血鬼らしい、生き物であったなら。
なるほど、確かにそれは警戒する。
「確かに、それでは仕方ありませんね」
「――やけにあっさり納得するな」
「しょうがないでしょう? 吸血鬼というものが、欺瞞と策謀に満ちた生き物だという伝承が伝わっているのは、私も知ってます。それくらいであなたを恨んだり憎んだりはしませんよ。それで、他には?」
「他には? どういうことだ」
彼は少し鈍すぎないだろうか。たった今自分がしたことをもう忘れてしまっている。
私が嘘をついていないか、悪の吸血鬼ではないかと確認をしていたのだろうに。
それを指摘すると、彼は薄い髭が目立つ顎をさわりながら答えた。
「そういう事か。確認したい事項はもうないよ。食べなくても、飲まなくても死なない。それに、排せつや生理現象もないというのは昨日一日でわかったし、共に布団で寝ても、夜間はお前、ぐっすりだったしな」
「なら、カーテン位閉めてください。朝日で灰にはなりませんが、私は朝日が嫌いなんです」
「――眩しいから、か」
「ええ、知ってるじゃないですか」
カップの中身を口に含みながら、彼は私の口元をこれでもか、と言うほどに視ていた。
よくよく考えてみると、彼は出会ったときも私の牙を見ていた気がする。
不快ではないが、じろじろと機嫌を伺われながら見られるのは嫌だった。
「もう出逢ってから一晩経つのに、よくそんなに私のコレを見ていられますね」
吐き捨てるように言うと、彼はぎくりとした様子であわてて私から目をそらした。
そんな彼を見ながら、私は差し込む朝日から逃げるようにベッドから抜け出した。
少し、肌寒い。
「カーテンは?」
「もういいです。それに、はやく服を着ないと」
布団をかぶっているというのに肌寒いので、何か着るものはないかと私はあたりを見渡したが、ひと目見ただけでは何も見つからなかった。
本格的に探すしかないようだったので、私は下の階に居るであろう人々に迷惑をかけないよう、音を立てずに、床にしなやかに降り立った。
彼がこちらを振り返ると、なぜかぎょっとしたように目を丸めていた。
「おい、俺とベッドに入る前は、服を着ていたように思うが?」
何をおかしなことを言っているのだろう。
彼が私の身体を見て頬を紅くしている。私もつられて、自分の体を見てみた。
裸だった。まったく身に何も纏っていない。
道理で、春にしては肌寒いと思ったわけだ。
私が彼に着ていろと言われ渡された、例の白い旅装束はどこかと探してみると、以外にもそれは早く見つかった。
ベッドの下に落ちていたのだ。
彼の体温で夜は温かったので、きっと脱いでしまったのだろう。
彼が向こうを向いたので、手早く服を身に纏う。
白の旅装束、というのは単なる形容でしかない。
ところどころ黒や金色の刺繍がされていたり、上等な衣服であることは吸血鬼である私でも判別がついた。
誰かの形見だろうか。
そうだとしたら、前の持ち主はかなり私好みのセンスをしている。
それほど、上等なものだった。
「終わりましたよ」
「思った通り、よく似合うな――じゃあ、大広間へ行くとしようか」
大広間、あの人がたくさんいた所か。
私は人ごみが苦手というより、嫌いだ。
理由は単純に、息苦しいからだ。
「大広間には人がいっぱいいるじゃないですか。嫌ですよ私、人ごみは嫌いです」
「世界の果てについての情報とか、今日の宿代を稼ぐ儲け話とか、その他いろいろ、情報収集はかかせないんだ。俺と旅を一緒にする以上は、そこだけは理解してくれ」
「……しようがないですね」
「そういえば、これを。昨日の夜、見繕っておいた」
彼は机に置いてあった麻袋から、一枚の薄布を取り出し、私の口元を覆い隠した。
着けていろ、という事らしい。
「牙が見えたら大変だからな。昨日も話した通り、教会に見つかったら大事だ」
「また教会ですか。昨日もしつこく言ってましたけど、なんですか。異端を見つけたら排除するとかなんとか。私からしてみれば、あなた方の方がよっぽど異端です」
「教会と言うのは、悪魔憑きや悪魔。魔物ではない、霊的なものを嫌う性質があるんだ。この街はかなりの数の聖職者がいるからな。うっかり捕らえられて火あぶりにされてからその言い訳をしても、通じないぞ」
「捕まりませんよ。私は。これでも吸血鬼の端くれ。伝承通りの苦手なものが無くても、伝承通りの能力があるかもしれませんよ?」
これはあながちウソではない。
伝承だと霧になれたりだとか、好きな物に変化したりだとか――そんな大層なものは持っていないが、魔法を使うことくらいはできる。
「伝承通りの能力? 血を吸って眷属を増やすとか、不老不死とかか?」
「教えてあげません。まだあなたが私を完全に信用してないので、おいそれと能力についてを話すわけにはいきませんからね」
「用心深い姫様だ。俺はお前が他人を傷つけたり、殺したりとかしなければ信用するよ」
そういうところが信用ならない。
こんなふうに面と向かって本心を言う人間が居るわけないのに。
私が沈黙を貫いていると、彼は私に問う。
「お前の方はどうなんだよ。俺のことを信用していないだろう?」
「信用していますよ? だから一緒の寝床で寝ましたし」
私と彼の間を沈黙が流れた。
「まさかお前――」
「実際、貴方は私に指一本触れなかったですからね。おかげで私のあなたに対する評価は上がる一方でしたが、今のは減点ですよ?」
彼は半歩後ずさった。
伊達に吸血鬼をやっている訳ではない。相手の感情を読むなんて、たやすいことだ。
今の彼の感情は、困惑、混乱、と言ったところか。
多分私が一緒に寝たことに対して、彼が思っていることと違うことを私が言ったからだろう。
「それにもし昨日貴方が、私の身体を求めたのならば、私は躊躇なくあなたの相手をしていたでしょう」
彼は言葉につまっているようだった。
そしてついに彼は観念したようで、はぁ、とため息を吐いた。
「わかったよ、お前の勝ちだ……。まったく、本当に口が達者だな」
「私に口で勝てると思ったら大間違いです」
「本当に、男は女に口じゃあ勝てないんだな。あの夫婦の言うとおりだ……」
彼がもごもごと噛みしめるように言うもので、よく聞こえなかった。
「何か言いましたか?」
「いや、今日も吸血姫様はお美しい、とね」
「バカなことを」
私は軽く彼の腹を小突いた。
「いてっ……何するんだ」
「女性の肌をじろじろと見た罰です」
「なっ、あれはお前が裸だったからだろう!?」
よたよたとよろけながら私を詰る彼を尻目に、私は木で出来た部屋の扉を開け放つ。
「さっさと情報収集をしましょう。お腹も減りましたし」
「――まったく、切り替えが早いな。大体お前は食べなくても死なないんだろう?」
「食べなくても、飲まなくても死にはしませんが、飢えるし、渇くんです」
彼は参ったな、などと言って頭をぽりぽりと掻いていた。
―――――
一階に下り、宿屋の大広間に出る。
朝食を食べに宿泊者があつまる場所だ。ここで旅人達や行商人は情報を交換したりするらしい。
ちらほらとまばらな人。これでは大した情報は望めなさそうだ、と思いながら窓際の一角に腰を下ろした。
彼は情報収集のために、宿屋の主人の所へ行った。
私は静かに待つだけ。
旅にはお金が必要だというのは、彼から耳が痛くなるほど聞いた。
分からない訳ではない。ご飯を食べたり、眠る場所を確保したり、馬車を借りて移動したり。人間の社会というのは、お金がなければ始まらないことばかりだ。
世界の果てへ行くのは最終目標なので、急ぐ必要はない。
しばらくすると、彼が戻ってきた。
この顔は何か収穫があった顔だろう。よからぬことを企んでいる顔でもある。
彼は徐に私の向かい側に座ると、ひそひそと話しかけてきた。
「よろこべ。金になる話だぞ。獣人の誘拐事件、ってやつが最近あったらしい」
「獣人の、誘拐事件?」
物騒なその言葉に思わず反応してしまった。
街の通りを歩く人間たちは、どれも気長な人たちばかりだな、と思っていた私にとってその報せは衝撃だ。
「ああ。さっき宿屋の主人から聞いたんだがな、この街では獣人だけをターゲットにして、人さらいを繰り返しているヤツがいるらしい。たぶん趣味の悪い殺しの材料や、奴隷にするためだろうな。この街には聖職者が多いから、この手の犯人には高額の懸賞金が掛けられるんだよ。見つけて、捕まえれば大儲けだぞ」
人間の行動というのは、意味が分からない。
殺人にしても誘拐にしても、奴隷制度にしてもだ。
自分がされたらイヤなことを、他人にするなど愚かしい以外、何も考えられない。
「なぜ、聖職者が多いと高額の懸賞金が掛けられるんです?」
「それはお前、聖職者っていうのは、人の命を重んじている場所だからな。人を殺すのは化け物へと変化する予兆だとかなんとかっていう教義が、この街では主流なんだよ。だから、教会は人を殺すものを許さない。早く始末してしまおうとするわけだ」
「それで高額のお金を犯人の首に掛けるんですか。話は分かりましたが……危なくないんですか? 特に私とか」
「おいお前、真っ先に自分の心配か?」
「貴方のような朴念仁に可愛い、と言わせるほどの美貌ですよ私は。人さらい、人殺しでも惑わせられる自身があります」
冗談半分で言うと、彼は右手を手刀にして私の頭をたたいてきた。
「冗談はほどほどにしとけ。俺がいるから、そんなことにはならないし、第一、獣人専門の誘拐犯が、見た目は普通の人間にしか見えないお前を攫う訳がないだろう」
「それで、どうやって見つけるんですか?」
「切り替えが早いな……。どうやって見つけるか、か」
彼はじっと考え込む。
もしかすると、懸賞金の金額だけで彼はこの話に喰いついたのだろうか。
私のその懸念は、
「全然考えてなかった」
当ったのだった。
私は徐に席を立ち、宿屋の主人の元へ向かうことにする。
彼が後ろで私を止めようとするが、彼に任せていたら、街の中に居るにも関わらず、野宿になりかねない。
こんな感じで旅を続けてきたのだろうか。彼は。
そうだとしたら不思議だ。彼はどうやってここまで旅をして来たのだろうか。
「わかった、わかったから、ちょっと待ってくれ。聞いてくるから」
「貴方に任せていると、不安でしようがありません。どういうことですか。金に目がくらむなんて、世界を見つめているあなたにしては、変ですよ」
私の言葉に彼は少し思うところがあったらしい。
うっ、と呻いて、下を向いた。
「という訳で、違うお金稼ぎを考えましょう。探せばいるんじゃないですか? 薬草が無くて困っている人とか、外の魔物が怖くて外出できない人とか。そういう人がいる、という情報でもお金の元になりますよ」
「あ、ああ、分かってる、分かってるから。ちょっとした冗談だ」
「冗談? 今のがですか。冗談にしても性質が悪いです。本気で、頭がおかしいのではと思ってしまいました」
「て、手厳しいな。本命は別だ」
なんだ、と私は思う。
彼は場を和ませようとして、冗談を言ったのだ。
私は彼と一緒に元居た席に戻る。
「で、本命と言うのはなんです?」
「それはな――街の全体地図の作成依頼、だ」
彼が思わずにやけながら話すのも、これを聞いて納得だった。
世界地図を作製する彼にとって、この町の見取り図を作るのはきっと赤子の手を捻るよりも簡単なことだろうから。
だが、疑問があったので一応聞いておくことにした。
「地図の作製……。なんでそんな物が必要なんでしょう。それに、これだけの街でどうしてそんなものが未だに作製されていないんですか?」
「大方、前の地図の情報が古くなりすぎたってところじゃないか? よくある話さ」
彼はあまりそれを深く考えていないようだ。
地図が必要なのは何故か、というところまで考えないのかと私が問うと彼は笑って返してきた。
「そんなもの、俺達が知ってどうするんだよ。教会の連中が関わっていれば話は別だが」
「その教会の連中が関わってたらどうするんですか。向こう見ずなのは命取りになりかねないですよ?」
旅を初めて一日でなにか厄介ごとに巻き込まれるなど、私は御免だ。
彼はやはり向こう見ずな性質なようだ。よくこれで今まで旅ができていたなと感心するほどに。
「用心深いのはありがたいが、俺が得意な地図作製の依頼をフイにするわけにもいかないだろ? 依頼者に会って、それから受けるかどうか考えればいい。それにうかうかしてたら他の奴に仕事を取られかねない。こういうのは速さが大切なんだ。わかるだろ?」
いいながら、彼は立ち上がり私を見てきた。
大げさにため息をついてやると、彼はなんとも言えない、意地の悪い笑みを浮かべた。
「厄介なことになったら、あなたの首に噛みついて、血を搾り取りますから」
「あぁ、わかってる、わかってるよ。いくぞ。」
彼はお決まりのセリフを吐きながら、早く立ち上がるよう急かしてきた。
私はそれに渋々と従って古びた椅子から立ち上がり、宿屋を出るべく入口の扉へ向かった。
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