第59話「約束だぞ?」

 阿室玲奈アムロレイナを連れたまま帰宅した日陽ヒヨウいづるを待っていたのは、先ほどの強い地震で散らかった我が家だった。思ったよりも被害が少なかったのは、日頃から幼馴染おさななじみ楞川翔子カドカワショウコが整理整頓と掃除をやってくれていたからだろう。

 お隣の楞川家も恐らく、あの地震で大変だったのだろう。

 いつもなら合鍵あいかぎで上がり込んでくる翔子は、姿を現さない。

 いづるは強い雨が降りしきる中、二種類の水音を耳に後片付けを続けていた。


「……これから、どうするかな。大それたことをしてしまったけど、でも」


 タオルを被りつながらリビングやキッチンを片付けつつ、ちらりといづるは視線を走らせる。

 バスルームで今、玲奈は冷えた身体に熱いシャワーを浴びていた。茫然自失ぼうぜんじしつだった先ほどに比べれば、自分の手を握り返してくれた彼女の意識ははっきりしている。

 玲奈は、一緒に逃げようと、来いと言ったいづるに応えてくれたのだ。

 どこをどう走って地下鉄に乗ったかすら覚えていない……ずぶ濡れのまま二人は、気付けば日陽家にたどり着いていた。


「とりあえず、これでよしと……あらかた片付いたけど、次はやっぱり」


 ちらりといづるは、洗面所や洗濯機のあるバスルームの方を見やる。ここからは直接は見えないが、脱衣所の磨りガラス越しにしなやかな曲線美が浮かんでいるだろう。一糸纏いっしまとわぬ裸体が、熱い湯の流れに打たれて凍えを追い払っているのだ。

 こんな時だがやはり、もはや常識でもあるが……この事実を告げるのも今シーズンは最後になるだろう。では――

 

 十六歳の少年には、一つ年上の友人が自宅でシャワーというのは、刺激的だ。

 そして、思い出す……もう、友人ではない。

 友達ではないのだ。

 あの時確かに、はっきりお互い宣言した。

 いづるを気遣きづかい、玲奈は友達だった人と過去形で遠ざけようとした。

 そんな玲奈をいづるは、友達以上の人間にしたいと望んだのだ。

 その時の熱がまだ胸の奥にくすぶっていて、それに手を当て高鳴る鼓動を感じていると、不意にサッシの開く音が響いた。そして、小さな声がいづるの鼓膜を優しくでる。


「……いづる君。ごめんなさい、バスタオルとか……あと、着るものを貸してもらえるかしら」

「あっ! は、はい! ええと……と、とりあえず適当に持ってきますね!」


 いづるは慌てふためいた。

 とりあえず洗濯済みのバスタオルを引っ張りだし、雪崩となってずり落ちてくるその他のタオルを再び棚に押し込む。着替えはどうしていいかわからなかったので、なにも考えられなくて四苦八苦しつつ沢山持った。

 選んだというよりは、目についたものをタンスから掴み取った。

 こういう時に翔子がいてくれたらいいのだが、先ほどから電話が繋がらない。

 携帯電話は今、先ほどの地震で混線して繋がり難くなっていた。お隣さんだから出向いてもいいのだが、あっちはあっちで忙しいのかもしれない。

 それに、どうしていづるは玲奈と二人の内に、はっきりと伝えたいことがあった。

 バタバタと脱衣所に駆け込み、洗濯機の上に持ちだしたタオルや衣服を置く。

 極力見ないようにしたが、磨りガラスの向こうに金髪の裸体が映っていた。


「ありがとう、いづる君」

「い、いえっ! じゃ、じゃあこれで」


 猛ダッシュでリビングに戻り、乱れた呼吸を落ち着かせる。

 不思議と玲奈の声は、先ほどより幾分いくぶん元気になったような気もする。だが、いづるにはわかっている……こういう時に空元気からげんきを絞り出せる程度に、阿室玲奈という少女は気丈で芯が強いのだ。それが少し、今は痛々しい。

 それでも、さて次はどうしたらと空腹の熊みたいにウロウロしていたら……湯上がりの玲奈が現れた。


「いづる君も温まったらどうかしら? ……少し、落ち着いたわ。私」

「あ、いえ……僕は、なんかドタバタしてたら乾いちゃいました」


 ほのかの上気した頬が、薄紅色サーモンピンクに白い肌を染めている。

 濡れた髪からはシャンプーの匂いがかすかに香った。

 いづるは着替えを適当に片っ端から集めて、好きなのを選べるように洗濯機の上に積み上げておいたのだが……頓着とんちゃくがないのか、玲奈の姿にいづるは呼吸も鼓動も停止した。

 玲奈は今、いづるのものと思しきシャツを着ている。

 少し大きいのか、なだらかな首から肩へのラインもあらわで、長袖がちょっと余っている。


「ふふ、いづる君のシャツかしら?」

「は、はい……」

「四月の春は、私の方が背が少し高かったわ。でも、今は逆ね……」

「は、はは……せ、成長期ですから?」


 しどろもどろになる、いづる。

 そう、玲奈は今、恐らくノーブラ……いづるのシャツをだぶだぶとルーズに着てる。

 というか、

 若干長い膝上15センチあたりまでで、シャツのすそは途切れている。

 そこから真っ白な細い脚が、すらりと伸びていた。

 白いシャツに漂白されたような美少女が、いづるの前で見詰めてくる。


「あ、あ、ああっ、阿室さん! もっと着てください、しっかり着込んでください!」

「当たらなければどうということはないわ。それよりっ! ……いづる君?」

「当たってます! 当たってますから!」


 慌てて背を向けたいづるの腕に、玲奈は迷わず抱きついてきた。

 その、当たってる……直撃している。

 シャツ越しの柔らかな胸の膨らみが、その弾力が二の腕に当っているのだ。

 そして、密着してくる玲奈がいづるを上目遣いの瞳を向けてくる。

 目を逸らそうにも逃げられぬ距離で、いづるはドギマギと妙な汗を滲ませた。


「いづる君……あの時、呼んでくれたわ。私を呼んだ……玲奈、って」

「え? あ、ああ……はい。その」

「ね、いづる君。もう一度、呼んでみて……私の名前」

「は、はい……ええと、れ、れれっ、玲奈、さん?」

「ええ。いづる君、もう一度」

「玲奈、さん」

「うん……もう一度TENDERNESSテンダレス。もう一度だけ」

「れ、玲奈さんっ!」


 思わずいづるは、玲奈に向き直る。

 そして、もう一度抱き締めた。

 色々とこれからのことを考えなきゃいけないのに、思考が脳裏で思惟しいを結ばない。理性のたがを解きつつある感情が、燃え盛って爆発しそうだった。

 玲奈もまた、いづるを抱き返してくれる。

 二人は額と額を寄せ合うようにして、鼻先同士がかすめる距離で呼び合った。


「玲奈さん……やっと、僕はやっと」

「いづる君。ありががとう、私……嬉しかった」


 玲奈が言の葉をつむぐたびに、吐息がかすかに肌を撫でる。

 すぐ目の前に、星の海を閉じ込めたかのような玲奈の双眸そうぼうが輝いていた。その眩い光の小宇宙ほしぞらが、僅かにうるみつつ閉じられる。


「いづる君……約束だぞ?」

「え? や、約束?」

「そう、約束して。もう私、いづる君のこと友達だなんて思えないわ。生まれて初めての友達、でももう違う。いづる君は次も、私の初めての……もっ! これ以上言わせる気かしら?」

「あ、いや、すみません! ええと……はい」

「ずっと、私の初めてでいて頂戴。よくて? 約束……これからも私と、初めて同士でいてくれたら嬉しいの。……私の初めても、いっぱいいづる君に、あげるから」


 目をつぶりつつ、玲奈の言葉にいづるは約束を結ぶ。

 その約束を守って守り抜き、守り続けると誓う。

 そうしていづるは、玲奈の唇に唇を重ねようとした、その時だった。


「そこまでです、お嬢様」


 突然、すぐ横で声がした。

 驚きに目を見開いたいづるの前で、パチリと玲奈が瞼を開く。

 二人は同時に、ギギギギと錆びた機械みたいに隣へ首を巡らせた。

 そこには、ずぶ濡れの来栖海姫クルスマリーナが立っていた。


「あ、あら、海姫……もぉ、タイミング悪いぞ? でも、無事だったのね」

「海姫さんっ! どどど、どうして。でも、よかった……あれ? なんです、その荷物」

「鍵が開いていたぞ、いづる。不用心だな」


 いづると玲奈、二人を交互に見やって、突然現れた海姫は大きなトランクケースを床に置く。阿室家の邸宅を脱出する際、退路を確保しいづるたちを逃がしてくれたのが彼女だ。その海姫だが、目立った怪我もなくいつもの無表情で平坦な目を向けてくる。

 海姫はふところから一枚の便箋びんせんを出して、それを玲奈へと渡した。


「喫茶ガランシェールのマスターに……父さんに、届いていました。旦那様からの手紙です」

「えっ!? あら、まあ……それは」

「阿室家の資産は凍結、全ての口座も抑えられましたが……どうやら連中は、この手紙を出した旦那様の尻尾を掴んだようです。今はお嬢様より、そちらへ向かったみたいですね」


 連中というのは、警視庁やら公安やら、とにかくゴツくて怖い黒服の男たちだ。そのターゲットは今、唯一の手がかりである玲奈より、玲奈の父本人へと移ったという。

 何故、わざわざ玲奈の父は足がつくような手段で玲奈に手紙を?

 そのことも疑問だったが、玲奈は便箋を握る両手に力を込める。

 まだ玲奈に寄り添い支えていたいづるは、その震える手にそっと手を重ねた。


「玲奈さん、気持ちはわかります。わかりたいです。だから、それは」

「でも、でもっ! すさんだ心に不器用な手紙は危険なのよ、いづる君!」

「……荒んでるんですか?」

「ええ……凄く、凄くよ? とても荒んでるわ……私」


 玲奈はギュムと便箋を握り締めてクシャクシャにしてしまう。それでも、添えるいづるの手に応えるように、それを破くのをやめてくれた。

 そうしていると、海姫がかたわらのトランクケースを開封する。


「とにかく、お嬢様。まずはなにかおめしになってください。……これはお前の趣味か、いづる」

「へっ? ち、ちちっ、違いますよ! 着るものがなくて、それでとりあえず、こう」


 トランクケースの中には、あれこれ色々と衣服や下着なんかが入っていた。それと、学校の制服や鞄なんかもだ。聞けば、海姫はあのドサクサで持ち出せるだけかっさらってきたという。


「助かるわ、海姫。男の子のトランクスというの、落ち着かないもの」

「えっ? あ、玲奈さん! 僕のパンツはいてるんですか!?」

「洗濯してあるのでしょう? なにも問題ないわ」


 チラリと玲奈はシャツをまくりあげて見せて、クスリと小さく笑う。

 ドタバタと玄関が慌ただしくなったのは、そんな時だった。


「それは本当なのか、楞川っ! 本当に阿室は無事なのだな! ……奴には帰れる場所がある。こんなに嬉しいことはない」

「いづちゃーん! 地震と雨と、それと阿室先輩! 玲奈は大丈夫なのぉー?」


 いつものメンバーが勢揃いしてしまった。リビングに雪崩なだれを打って転がり込んできたのは、翔子ともう一人……顔にあざを作って眼鏡のひび割れた、富尾真也トミオシンヤだった。

 いづると玲奈は、二人にもみくちゃにされながらも、ようやく笑みを交わし合う。

 そんないづるの隣で、玲奈は海姫からあるものを受け取った。


「すみません、お嬢様。これしか……これだけしか、持ち出せませんでした」

「これは……ありがとう、海姫」

「因みに、私の超合金ちょうごうきんたちは持ち出せませんでした。せっかく集めたのに……限定品もあったのに」

「ごめんなさいね、海姫」


 海姫から玲奈が受け取ったのは、ガンプラだ。その黒いガンダムにいづるは見覚えがある。それは、あの日一緒に買って、一緒に組み立てた玲奈のバンシィ・ノルンだ。漆黒に金色のクリアパーツが光るガンダムに、ぽたりと涙が落ちる。

 父からの手紙と一緒に、玲奈はガンプラを大事そうに抱き締めた。

 いづるには心なしか、ガンダムが父と娘とをなんとか繋ぎ止めたようにも見えたのだった。

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