第2話
萌が大樹と出会ったのは数年前、まぁ、いわゆる合コンでのことだった。
偶然にも勤め先の会社が同じビルに入っていたことで、最初から会話が弾んだのだ。とは言っても、彼はそんなに口が上手い方じゃなくて、萌が振る話題に頷く回数の方が圧倒的に多かったけれど。
なんとなく連絡先を交換して、なんとなくやり取りした結果、二人でランチに行くことになった。それが始まりだった。
最初は全くの友人。見た目は好みだったが、自分から頑張ろうと気合を入れるほどの思い入れはなかった。
ただ、勤務地は同じだし、出勤時間も近かったから電車で会う回数も多い。昼休みに行く店も何軒か被っていたし、同業だったこともあって、話題には事欠かない。大樹は決して話が上手い方ではないが、一緒にいてほんわかした空気が流れるのがとても心地良かった。
はっきり付き合おうとなったのは、ちょうど一年前だ。夜に飲みに行くこともあったし、休日にも何度か遊びに行ったりもしていたから、傍目から見れば順調そうに映っていただろう。にもかかわらず、進展しなかった。大樹が曖昧な態度を崩さないまま、ずっとぐだぐだしていたからだ。
自分も積極的には動かなかったからと言われればそれまでだけど、先に行けなかったのは、絶対にその所為じゃない。こうして進展した今だって、まだ問題はつきまとっているのだから。
「明後日は、ちゃんと行けるんでしょうね?」
「うん。もう大丈夫だって言ったじゃん」
大樹はそう言って明るい笑顔を見せた。
『もう大丈夫』最近、彼は頻繁にその言葉を口にする。
何か変化があったのかもしれない。そうは思うが、聞く勇気はなかった。
聞いたら、きっとまたイライラしてしまう。これ以上、つまらないケンカはしたくない。
「じゃ、昼前でいい?」
「うん。俺は何時でもいいから。また適当に連絡ちょうだい」
「わかった。またね」
萌はそう言って、取り繕った笑顔を大樹に向けた。それを見て、彼はほっとしたような顔を見せる。それが萌の精一杯の演技だなんて、ちっとも気付かない。
素直に人を信じる、それが大樹の長所でもあり、短所でもある。
「ただいま」
誰も返事をくれる相手はいないけれど、帰宅時には必ずそう告げる。大学から上京して、一人暮らしを始めてもう十年経つが、長年の習慣は抜けない。しぃんとした部屋の中からはアナログ時計が針を刻む音だけが聞こえてきた。
荷物をどさっと床に置いて、よろよろと洗面所に向かう。じゃばじゃばと手を洗いながら、鏡に向かって盛大な溜息を吐いた。
大樹のことは、もちろん好きだ。趣味こそ違えど、色んな価値観も合うし、何より一緒にいて落ち着く。環境さえ整えば、すぐにでも結婚して良いと思っている。
「いつ、整うのかね」
萌は鏡の自分に自嘲の笑みを向けた。大樹任せにしていたら、そんな時は永久に来なそうだ。
冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを取り出して、プルタブをカチリと立てる。シュワシュワと出てくる冷気を逃すまいとするように、飲めるだけを一気に呷った。喉がジリジリト熱くなり、堪え切れずにふうっと息を吐く。
「おいし」
まったく、くたびれたОLそのもの。我ながらどうかとは思うが、毎晩のこの儀式は一向に止められない。冷蔵庫にはまだまだアルコールが山ほど入っている。大樹は大して飲まないから、きっとそのほとんどは萌の中に吸収されるに違いない。
ちらりとバッグに目をやると、中から緑色のランプが点滅しているのが見えた。缶を左手に持ち替えて、右手で携帯を操作する。
通知が二件。
一件目は大樹のフォルダ。もう一件は友人のフォルダ。数秒考えて、萌は先に後者を開いた。
『その後、どうよ?』
香菜からだ。題名だけ読んで、おおよその内容の検討はついた。
『まだはっきりしないんなら、もうやめときなよ~。萌さえその気になれば、いつでも誰か紹介するよ~。ろくでもない相手と切れないようなら、その程度の人間なんだからさ。このままじゃ萌が疲れちゃうだけだし、せっかくの二十代をつまんない相手に捧げるなんてもったいなさすぎでしょ。愚痴でも何でも聞くから、いつでも連絡してきなね』
むすっとした顔でこのメールを打つ彼女の様子が、容易に想像ついた。先週会った時には、本気で怒鳴られそうになったのだ。
どれだけ香菜が自分を心配してくれるのかは、十分わかっている。彼女がそう思うだけの要因がたっぷりあることも。
それでも萌が大樹から離れられないのは、もう執念なのかもしれない。知り合ってからのそこそこ長い年月も、付き合ってからのこの一年間も、幸せにどっぷり浸かりきるということはなかった。
常に頭を過ぎる不安。そしてその不安は大抵現実になってきた。
『大した男でもないし、執着する価値はない』
大樹との揉め事を打ち明ける度、香菜はそうばっさり切り捨てる。彼女に相談していることは全部ではないし、自分から進んで愚痴っているわけでもない。それでもそう言い切られてしまうということは、彼との関係に客観的に見ておかしい部分が多々あるからだろう。
「ありがと」
読み直した萌は、そう口にした。返信は内容をじっくり考えてからの方が良い。適当に返してしまうとまた心配させてしまうだろう。自分以上に親身になってくれる親友に、これ以上余計なモヤモヤを与えたくはない。
新着通知はもう一通。さっきまで会っていたというのにそれを読むのが怖いのは、これまでの負の経験のせいだろう。
『おつかれさま』
題名はいつも通り。内容はどっちだろう。萌は一度大きく息を吐いてから、決定ボタンを押した。
『今日はありがとう。さっき言ったことが俺の正直な気持ちです。萌のこと、絶対大事にしたい。もう傷つけたくないよ。俺には萌が一番大切な存在です。だから、俺を信じてください。明後日、楽しみにしてるよ。どこに行きたいか、考えといてね』
これだけの文章なのに、読み終わるとどっと疲れた。知らずのうちに緊張して肩に力が入っていたのだろう。
とりあえず、今回は良い方だったようだ。もう本当に何もないのかもしれない。そんな風に甘い期待を持ってしまうけれど、こんなやり取りはもう何十回もしてきた。そしてその度に、あっさり裏切られてきたのだ。今更、心底信じるなんて無理なのかもしれない。
こっちもすぐに返信する気にはなれなかった。わかった、と一言返すだけでいいのに、その作業すら面倒だ。もう酔いが回ってきたのかもしれない。
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