第46話 民族主義、国家主義といった集団協調主義の構造的問題 #戦争 #平和 #心理学 #哲学 #とは #定期

民族主義、国家主義といった集団協調主義の構造的問題


民族主義、国家主義といった集団協調主義には「ある特定の範囲内の人同士は助け合うが、それ以外は排除する、そのために暴力を必要とする」と言う問題がある。


なぜ人々は、このような概念的集団性の観念の構築、そしてその概念と自己観念を同化する事で集団化する、という、いわばまわりくどい集団化の方法を取るのだろうか、なぜ単純に集団化しないのだろうか。


一個の人同士の関係論でいうならば、人と人が助け合いの関係を作るときには、純粋な意味での弱肉強食的関係が構築されやすい。


つまり、

「私の能力はこの範囲で出来ることはこのくらいなので、より大きな目標の達成には能力が不足している」

と言うときは、その目標に対し不足している能力を補うために他人の能力を必要とするために、他人の存在を保障する、つまり協力関係を作る。


逆に言うと、能力不足の相手は関わらないし、見捨てる、と言った関係になる。


更に悪化すると、より弱い相手から搾取しようと考える。


これが単純な人間関係の対立図式だ。


すると問題が生じる。


人類の進化と繁栄は技術的進化によるところによるものが大きく、その為には平和的関係の持続性、つまり暴力的対立の低い社会の成立と維持が不可欠である。


ところが、単純な人間関係論では、暴力的な強弱の力の差のほうがより直接的に影響を与えやすい。


ミクロ的な人類の関係論は、マクロ的な人類の生存、進化と反映の方法論と対立しやすいと言える。


これが、人類全体の中での自壊的作用としての内乱やクーデター、そして戦争となりやすい根本的な内部対立となるのである。


これはつまり人類の繁栄の方法が、個体としては体力的に他の動物などに対して弱く、集団性を構築し道具を進化し、知能の進化によって行ってきたということにより起こる、内部矛盾なのである。


そこで、人々は国家、民族といった

「ある歴史的時点からのある地理的、特定範囲の人々による集団化と、その集団内の保障関係の構築、及びそれ以外の排除」


という概念範囲を作り、その観念的範囲と自己観念を同化させる形で


「私はあなたと助け合うかどうかは弱肉強食的能力判断から解らない」


という振るい落としの関係とその恐怖からの開放として、


「私はあなたと同じ国家民族の人間であるから、助け合いましょう」


という関係論にすり替えているのである。


つまり、


「私とあなたの弱肉強食」


という関係の直接性を緩和するために


「私と、同じ民族、国家という概念と、あなた」


という、中間的関係性を構築しているのである。


そしてこの「暗黙の了解」としての人間関係が成立していると、人々が思い込むことによって、この関係論が全体として機能している。それが暴力的対立関係を抑制的にし、また同じ民族、国家の人間同士が保障しあう関係ともなっている。


他人に対し、同じ民族、国家の人間らしくあれ、と人々が暴力を持って他人に強制したがるのは、実際には他人が自分の思い通りにならず、時として襲い合う関係にならないようにする為。また他人を自分と同じ概念の共有者として、自分と同じ思考、行動様式の持ち主として相互協調を図りたいと言う欲望の表れなのだ。


つまるところ、ナショナリズムや民族主義の本質的欲求とは、人間の相互保障関係の絶対化への欲求に他ならない。逆に言えば、これらの人々は他人との関係論において、様々な理由で不安で不安定なのである。


しかしこれは同時に


「ある大集団と大集団同士の対立」


という戦争という構造を作り出してしまうという問題があるのである。


つまり、能力不足のものや他の者に対しての負担の極大化は能力上不可能という考え方自体か、心理的に「ある範囲は助けるが、それ以外は無理だから助けない」


という心理的防衛線を張ってしまっており、それが地理的には国境線という形で具現化している。


問題は、ほとんどの人々はこれらの全体の構造を自意識化しないまま、無意識的に考えていると言うことである。


その為、無意味な殺し合い、そして戦争となるのである。


能力が足りないのならば、より多くの人同士で助け合えば良いし、排除される恐怖から開放される為に相互保障関係を「国家、民族」という中間的関係性を概念的に間に挟むことによって、より大集団同士の排除と暴力の関係を行う戦争を生み出すのではなく、より直接的に、無意識的にではなく自意識的に全人類全体の相互保障関係を作り出すことが必要なのだ。


それこそが戦争と言う構造を生み出さない人類の思考様式。


人類の集団化の方法論それ自体の進化が必要なのである。


それが、


「全ての人々が、全人類全ての苦しみの解決を目標とする事」


の明確な自意識化と、明確化。


自己規律、自己完結型の論理体系による集団化なのである。






下記の文章は

「私は他人から暴力を振るわれたくないという目標範囲」

→「そこで全ての人々が暴力をおこなわないようになれば良い」

→「その為には全ての人々が暴力を否定しようと考える思考プログラム体にならなければならない」

→「そこで全ての人々に暴力否定と言う思考プログラムをインストールし、この考え方を守り、その為に暴力衝動を自己抑制しましょうという考え方を持ってもらおう」

→「全ての人々が暴力を行わなければ自らに他人から暴力を振り向けられる確率がゼロに近づく」

→「この思考プログラムとそれから起こる事は全ての人々の暴力を受けたくないと言う欲求と目標範囲に適格であり、人類全体の利害そのものであるからすべての人々が自己において採用すべきものであると言える」

→「この事全体を意味のパッケージとして人類共通普遍の権利として、人々が守るべきものとして位置づけよう」


という事の解説です。


人権とは、そして権利とは、誰もが求める欲求であり目標であって、全人類希求の目標であり、その要求は誰もが求めて良いものであり、また誰もが認め応えなければならないものである。つまり、それは自ら求めると共に、他人から求められれば自ら応じなければならないものであって、またそのために自らにとって不利益かつ不満足なことであっても他の欲求を抑圧してでも応じなければならないものだ。

なぜならそうしない者とは、全人類にとって必要とされる欲求範囲の達成を困難にする存在として自らを世界に位置づけるものになると言うことであり、従って全人類にとっての苦しみの発生源として、全人類の欲望達成の妨げとして自らを位置づける事になる為に、自らが他の人々から否定され排除される可能性の高まる存在になってしまう事を意味するからである。

全人類全ての苦しみを増やそうとしてしまう者は、結局の所全人類の欲望範囲の適格性から外れていくので、人類範囲から否定されてしまう。

その為、自らが人類全体から否定されかねないというリスクを低くする為には例え自らにとって不利益となる事であっても、広義の人類の権利を認めなくてはならない。

それは全人類全体の目標範囲の最大公約数を満たす存在として自らを位置づけられるかどうかの問題であり、マクロベースでの人類の利益に反する事を行う事で自らの利益を得んとするというミクロベースの欲望達成との相互矛盾の解消こそが、「権利」という概念の本質である。

これは即ち全ての人々が他人と共通する、欲望と目標の範囲の公約数的理解の事であり、この否定は即ちこの権利の認める欲望達成範囲からの逸脱であって、したがって「善」と呼ばれる相互保障範囲の否定者は、結果としてその相互保障範囲から外れるために、つねに自己の比較優位的強者の立場を維持しなければならなくなり、相互保障範囲から外れた事から来る集団離脱からの孤立化による生存可能性の低下を恐怖し防ぐ為により暴力によって比較優位性を保とうとするが、それは暴力的抵抗と反発を招く為に、ますます孤立化と暴力の激化という悪循環に陥る。

善の保障範囲の尊重こそ、この悪循環からの脱却のメカニズムであり、それを人類は「権利」という名称で、人類全体の共通の思考のプラットホームにすることにより、全人類全体相互関係論をマクロベースで相互保障関係の高揚を生み出そうとしているのだ。

権利とは即ち、人類の叡智の結晶のメカニズムそのものである。



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