皆が知りたいなぜ戦争は起きるのか構造解析。戦争平和心理学哲学 #戦争 #平和 #心理学 #哲学 #とは #定期

D みと作家

第1話 なぜ戦争は起きるのか構造解析。戦争平和心理学 哲学 永遠 #平和 のための #心理学 と 哲学構築論 #戦争

国家対国家という対立のイメージで世界の動向を考える世界認識の方法論は終わった。


ある政策決定について、その決定を下した事は、もちろん政府機関の最終決定という事から、その国の全体的意志の総合として他国の人々が捉えるのは自然な事ではある。


しかし、例えば自分の国のある政策決定について考えてみればいい。


ある政策決定に対して、その国の中では賛成者と反対者の対立がある事が常であり、そしてその対立と、それに関わる様々な議論の結果として、ある政策責任者(つまり官僚や政治家などが)がその権限の範囲内で、ある時点で決定を下し、結果その政策決定が法的拘束力を持つ形で発効する、といった複雑な経緯を経る事を、その国の中にいるその国の人々は知っている。


ところがその国の人々が、他国について考え語り合う時は、実に安直に次のような話を始める。


「イタリアやフランスはブランド物の国だから」


「日本はハイテクの国だから」


「アメリカは常にナンバーワンであろうとする覇権国家だ」


これらはイメージとしてある国について語るときの常套句だ。


ここには認識のいわゆる「ずれ」がある。


つまり、自分の国の政策については、誰がどう考えて、どう決定を下したかを知っているので、その政策決定に同意していない人が自分の国の中に存在し、反対していると言う事もまた知っている。


ところが、他国の政策決定については、無条件に基本的に、その他国の政策決定を、その政策決定者も含む全ての国民の人々が全員賛成して決定を下した、と考えてしまい、その政策決定を下した国の人々の全員に問題がある、と考えてしまいがちになる、と言う事である。


ここでいう認識のずれ、とはつまり、ある政策決定にはどんな場合であれ賛成者と反対者がいる、という事実としての、


「ある国の政策決定に関与するその国の国民の数=その政策の賛成者+反対者」


という数の範囲と、「イメージとしてのある国の政策決定に関与するその


国の国民の数=その政策の賛成者=その国の国民全員が賛成している」


という認織の「ずれ」で、これは前者が、


「必ずしもある政策決定に対し、その国の国民が全員一致で賛成しているわけではない」


という事実の範囲を含むことに対し、後者は、


「ある政策決定に対してはその国の人々が全員賛成しているはずだ」


という、イメージとしての、虚構としての数の範囲の違いであり、


「国民の数の実際数の認識のずれ」


である。


  


この数の範囲の「ずれ」がなぜ問題であるのか、それは、


他国の人々がある国の政策決定に対し、反発や反感を持つと言う数の範囲が、単にある国の政権や、政治勢力や、官僚に対する反発や反感といったことに留まらず、その他国に属していると考えられる、全ての民族や国民全てに対する反発や反感、という巨大な数の範囲に広がってしまう


と言う事である.


その結果、他国の政策に対する反発や反感が、単にその政策決定者達のみならず、その他国に属していると考えられる全ての民族や国民全てに対する、一般人も巻き込む無差別テロや、戦争に繋がってしまう。


つまり、この


「国民の実際数の認識のずれ」


が、国家と国民同士の対立と憎悪の連鎖を拡大する事態を生んでしまう。


つまり、この


「国民の実際数のずれ」


を認識しないで行われる、全ての他国への議論は、必然的に無差別テロや、戦争を助長してしまう。


そしてこの


「国民の実際数のずれ」


は、事実としては


「単なる勘違い」


なのだ。


そして、


「単なる勘違い」


が、結果として国家と国民同士、民族と民族同士の対立と憎悪の連鎖を拡大する事態を生んでしまっている。


これは悲劇以外の何事でもない。


何より、現代は情報が複雑に、瞬時に飛び交う時代である。


ある政策決定に対して、それが他国の政策決定であっても、


どういう議論を、誰がいつ、どこで行ったか?


といった事を知る事は、太古の昔に比べ、はるかに簡単に行えるはずだ。


現代においては、ある国の政策決定に対して、それが自国か他国かに関わらず、賛成であれ反対であれ、イメージとしての


「ある国全員の決定」


と考える事を止め、


具体的に誰がいつ、どこで政策決定を行ったか。


と、全ての人が考える事が、無差別テロや戦争を防ぐ事に繋がる事を細かく知り、議論する事が、重要なのだ。


国家対国家、民族対民族という、対立のイメージで世界の動向を考える世界認識の方法論は、幻想に過ぎない。


それは情報革命の進展と共に終わった。


もしも、


「~人は~だから~だ」


といった論法で話す人を見掛けたら、次のように具体的に聞いてみる事だ.


「その~人という人々は、具体的に地理上、歴史上、地政学的にどこからどこまでの範囲を指しているのか、またある政策決定に関する事ならば、その政策決定に対し、具体的に誰がいつ、どこで政策決定を行ったか、そして誰がどう行動したのか、その責任者は誰か」


このような細かい考え方の突合せは、精神的ストレスを伴う場合もあるかもしれない。


しかし、このような細かい


「事実の認識の最初の段階からの明確な自覚化」


という作業の積み上げが、結果として、国家対国家、民族対民族という、対立の構図の安易な構築を止め、それが国家対国家、民族対民族という対立の構図の安易な構築を未然に防ぎ、結果として国家対国家、民族対民族という対立の構図が生み出す憎悪の連鎖の誕生を止め、結果として戦争が生まれる構造を停止する。


憎悪が生まれる最初の瞬間を未然に止める事、それが、永遠の平和を生み出す方法の一つなのだ。


このように、筆者は全世界の全ての戦争と紛争は、その最初における、単純な自己の思考の動向に対する自己認識の欠如と、そこから生まれる相互の誤解から生まれており、その誤解を解きほぐし、


「自己認識の次元を進化、深化」


させる事によって、解決できると考えている。


  


 なぜ戦争を人は行なうのか?



 なぜ戦争を人は行なうのか?


数多くの戦争が行なわれ、数多くの人々が憎しみ合い、殺し合い、滅ぼし合って来た。


 そして数多くの人々が、戦争の終焉を願い、永遠に平和な世界の誕生を望んで来た。



しかし人類は、未だ永遠平和の世界を作り出してはいない。


 


 人類はどうやったら、永遠平和を実現出来るだろうか?


 それはこれまでの人類の何万年もの間、求め続けてきた希望である。





 永遠平和の世界の実現こそ、我々の行なわなければならない、極めて重要な事である事は、全ての人々が同意する事であり、全人類共通普遍の目標である。


 


 永遠平和の世界の実現、この目標において人類は、国家、民族、宗教、老若男女、利害の違いを超えて、同じ目標を共有する仲間である。



 なぜ人々は戦争を行なうのだろうか? 


 


 もし、全ての人々が、


「戦争を行なおう」


と思い浮かべる事を止めれば、世界の中に、戦争が生まれる事が無くなる。


 つまり、戦争が無くなるという事は、戦争を行なおうとする人が、一人も存在しなくなるという事である。 


 それは、全ての人の頭の中で、戦争を行なおうとする思考を持つ人間が、一人も存在しなくなるという事である。


 これを、


戦争停止の定理




と名付けて、この文章を進めてみよう。


  



 戦争を行なおうとする思考を持つ人間が、一人も存在しなくなるという事を、成り立たせる為には、どうすればよいのだろうか、それを見出す事こそ、全人類の永遠平和を実現する方法である。





 そこでまず、なぜ人々は、戦争を行なおうという思考を持つのか、理解しなくてはならない。





なぜ、と問い続ければ、原因が判明する。


なぜ、なぜ、なせ、と問い続けることを、ただひたすら続けていけば、物事の本質が明らかになる。


 一つの結論を得ることによって、問う事を止めるのではなく、その結論に更に、なぜ、なぜ、と問い続ける、その作業の繰り返しが、真実を明らかにする。




戦争とは何か







 戦争とは何か、戦争とは殺し合いであり、利害をめぐる争いである。 


 そしてそれは国家、民族、といった、集団同士の争いを意味する。


 国家、民族、といった、集団同士の争いが戦争である。


では、なぜ人類は集団化するのだろうか。


 集団化を人類が行なわなければ、戦争も無い、しかし人類は集団化する。





 では、集団化と戦争は切っても切り離せない関係で、人類が集団化する以上、戦争もまた避けられない事なのだろうか?





 そもそも人はなぜ集団化するのだろうか、人々はそれを当り前の事としか思わず、深く考え直してみる事を忘れているのではないだろうか?


 当り前だ、と思い込み、深く考えていない事を、考え直してみる事に、知恵が生まれる事もある。 


 人類はなぜ集団化するのだろうか、その事を明確に考え直してみる事が、戦争を人々の思考の中に生み出さなくなる知恵を発見できる事かもしれない。 





 人類はなぜ集団化するのか、それを明確に理解出来れば、人類がなぜ戦争を行なうのかも明確に理解出来るだろう。


 


 人類はなぜ集団化を求めるのか?







太古の時代において、人類は、大自然の中でひ弱な存在であった。体力的に、個体として優れている他の動物たちと比較しても、人間の体は比較的に弱く、その弱さの克服の為に、より多くの人々が集い、集団化して、集団生活を営む事によって、各個体の生存と繁栄の可能性を高め、その群れに属する人同士の共存共栄を図ろうとする事によって、集団全体の生存と繁栄を確実に確保する目的が成立するので、各個人は集団化に同意し、それぞれの各集団内で共存関係を作り、愛を育み、家族を作り、子孫の繁栄を願ってきた。





 しかし同時に、ある集団と、他の人の集団とは争い合って来た。


収穫物を巡る争いであったり、土地や権益を巡る争いであったり、理由は様々であった。





 ここから考えられる事は、 


 


1、 人は集団化を求める。集団を構成したいという欲求を持っている。(集団欲)


2、 そしてそれは、人間本来の個体としての力が決して強くはない為、大自然の中で生き残る為の方法として、集団化した方が個体として独自に生きるよりも、より多くの欲望が達成できるからである。


3、 ある集団内では、個人と個人の相互扶助の助け合い関係が成り立っており、それは暗黙のルールであったり、もしくは明文化されたルールであったりする。それは当然の事と、その集団内に属する個人は考えている。


4、 しかしそれは同時に、               「自分と同じ集団に属する仲間は助けるが、他の集団の人々は必ずしも助けない」という考え方も生む。また「同じ集団に属する人同士であっても、自分にとって都合の良くない相手であるならば、助けない」                         つまり、


「その個人の欲望の範囲に適合しない対象に対しては相互扶助の関係を築こうとしない、愛さないし愛されようともしない」


という心理と現象を生む。





それはつまり、個人の愛情の対象範囲が、ある特定の集団内や、特定の条件化に限定されやすくなる事を意味している。


これを


「個人の思考における、愛情の限定化現象」


と定義して、次の文章へ進んでみよう。




 他者排除型の論理


人は集団化を求める。そしてその集団化する際の集団化の根拠として、家族、血縁関係や、同人種、同民族、同国人である事を理由とする事が多い。


 これは歴史的過程としての、家族や血縁関係は助ける、という、太古の人類の歴史で生じた、自然な連続性であるが、それは同時に、人間同士の間に、


「自分達」


と、


「自分達以外の他の人達」


という、自分と他人という区別を生み出す、人同士を分け隔てる壁を作り出す効果も持つ。


 つまり、


「自分達は助け合うが、他の人々は助けない」


という考え方を生み出す。


この構造が、民族や国家を理由にする、戦争を生み出す構造になっている。


 つまりこれは、他者を排除し、自分達のみで生き抜こうとする人生の態度、姿勢とも言える。


 この構造を


 「人類の集団化の方法論としての、他者排除型の論理体系」




と名付けて、この文章を進めてみよう。




 他者排除型の論理の特徴


この、


「他者排除型の論理体系」


は、自分達は助け合うが他人は助けない、排除するという特徴を持つ。


だがそれは同時に、愛されず、助けられなくなり、見捨てられ排除される人が、同じ集団内に生まれる事も在り得る可能性を持つ事も意味する。


自分の仲間か、そうでないか、という事が、集団内の相互扶助の関係の構築の、重要な線引き、理由になるため、その理由に少しでも抵触する人にとっては、自分を排除する理由として、国家、民族などの、集団の区別理由の適用範囲は、常に注意するものとなる。


そしてその様な理由の下に、集団から排除されるかもしれない可能性のある他者排除型の論理体系は、個人にとって、自らが排除されるかもしれない可能性そのものであり、そして自らの欲望の達成可能性が極めて低くなる事を意味する。





その事を予測する個人は、集団から排除される事を常に恐怖することになる。





 つまり、他者排除型の論理による、人類の集団化の方法は、個人にとって、常に集団から排除される事への恐怖を生み出す事も意味する。


 そしてこの恐怖心から、人々の規範意識や、ルールに従う事への強制感が生まれる。


 


 そして集団から個人を排除する為には、暴力を必要とし、その必要性から、暴力を振るう者と、振るわれる者、という、階級格差が生じる。





 ここで生ずる疑問は、人類は他人に排除される恐怖心を持たなければ、集団化する事が不可能なのだろうか、という事だ。


 


 また、他者を排除し、集団内の相互扶助の関係を維持する為、また集団内の統率の為、人々は暴力を用いる。それがますます、恐怖心を高める事になる。





ここでの重要な疑問点は、暴力が存在しなければ、人間は集団化できないのだろうか、という事である。


 冷静に考えれば、他の民族、国家に属する人々だから、といった理由で、暴力を用いて


「自分達」


以外の他者を排除しようとする必要が、常に在る訳ではない。


しかし人類はこの構造において戦争を行なってしまう。


 なぜ人類は、暴力を必要としてしまうのだろう?



 集団における暴力の有用性







それは実は、暴力という方法が、集団において非常に有効だからである。





 集団化において、ある特定の目標について、集団が統制の取れた行動を取る事によって、その集団に属する多くの個人の欲望が満たされる、それが集団化という方法の効能であり、集団化の利点である。


それは同時に、集団内の各個人が、役割分担をしながら、集団の中でまとまった行動を取る事によって可能となる。





 逆に言うなら、各個人が、集団的目標に対し、ばらばらでまとまりの無い行動を取れば、集団化の利点を失い、相互利益の確保が難しくなる事でもある。


 


そこで集団は、その集団的目標達成の為に、個人の行動の方向性、自発性の方向性を、ある特定の目標に向けさせる様に、強制しようとする。


つまり集団内の統治の為に、個人の自発性と方向性を抑圧する必要が生まれる。


その為に強制力として、暴力を用いるのである。 





他者排除型の論理体系における、暴力の有用性という問題







しかしこの方法論には問題がある。


集団内の統治の方法として、常に暴力を必要としてしまうという事である。 





 また、暴力を振るう者と、振るわれる者、という階級構造を集団内に生み出してしまう。 





 また、


「自分達と他者」


という認定を行なう基準が常に問題になる。


 国家を理由とする集団化ならば、どの国の生まれであるのかが、民族を理由とするのならば、どの民族に属するのかが、問題となる。


その際、その人間が、良い人間であるかどうか、という、本来重要視されるべき人間性の問題よりも、民族、国家、が重要になってしまう。





 ここで更に疑問が生じる。





 仮に動物であるならは、ある動物が別の動物と敵対し、排除する事は良くある事だ、なぜならその動物の能力が低いので、自分達が生存する可能性を高める為に、他の動物の獲得物を奪う、という奪い合いの関係があるからだ。


 だが、人類も同じように行動すべきなのだろうか?


人類も動物と同じように、他の人々との奪い合いの関係、つまり、目標を獲得する能力が低い為に、他の者から奪う、その為に暴力を必要とするのだろうか?


 


 しかしよく考えてみれば解る。





 ある目標に対し能力が足りず、欲望を達成できないのならば、人はその目標の達成の為に他者から奪わなければならないのだろうか、それとも、目標に対し能力が足りないのならば、より広範囲な人々に助力を求め、助け合う、その結果として人と人同士の争いが無くなり、助け合いの関係がより広がる事が出来るのではないだろうか。


 人は、ある欲望における目標の達成の為に、自己および自分達という集団の能力が足りないと考えると、必ず、


「自分達の能力では足りないので、他の者たちから奪ってこよう」


と考えなくてはならない存在なのだろうか。


 


目標意識の優先性







 人はある特定の目標の達成の為に、能力が足りない時に、あきらめる、といった


「能力範囲内のみ人を愛し、能力範囲外を排除し、見捨てる」


といった事ではなく、


「能力の範囲内だけではなく、能力の及ばない範囲外であっても、人を愛し、助ける、目標意識を優先させ、能力が足りないのならば、より多くの人々と協力し、助け合う事で、目標の達成を求める事が出来る」


という


「目標意識の優先性」


を持つ事が出来る。


 


 しかし、助力を求めた相手が、


「自分達とあなた方は違う民族、国家だから」という理由で、その助力の要請を断るならば、この問題解決の可能性が極めて限られる。


 助力の要請の却下の理由が民族、国家によるものである時、それ以外の集団との間に反目や反発と対立の感情を生み出す。





 これが他社排除型の論理体系の弱点である。





対立の解決法




全ての人々と集団とが、常に助け合いの関係を持とうとするならば、この様な対立は生まれない。





 例えるならば、





砂漠の中に一家族分の水しか出ないオアシスがあり、そこに二つの家族が同時にやってきて、一方の家族が、水の独占を狙い、相手の家族を拒絶する理由として、


「自分の家族ではないから、あなた達には水を与えない」


と、相手の家族への水の供給を拒むならば、その家族同士は対立し、水を巡り争い、暴力を用いる事だろう。





 しかし、この二つの家族が、オアシスを前にして、


「このオアシスは一家族分の水しか出ませんが、少な


い水を両家族で分かち合いましょう、そして両家族で協力して、オアシスの水がより増えるように、努力してみましよう」


 と考えれば、両家族が争うことなく、助け合う関係を築く事になる。


 


 この例え話で考えると気付く事がある。


 真の問題は、民族や国家にあるのではない。


それらは人の区別の方法に過ぎない。




対象が問題なのではない、構造が問題なのである。







世界の真の問題は、様々な人の区別の仕方ではなく、それらの人の区別のやり方を利用して、個人および集団の愛情の及ぶ範囲が、


「自分達とそれ以外」


という考え方の構造において、ある一定の範囲に限定化してしまうことである。


その為人々は、自分が愛情の対象でない事、集団から排除される事、暴力を振るわれる事を恐れ、より愛情の範囲を限定し、一方集団内に固執する。それが現象としては、集団内の秩序や統制への隷属化、忠誠心の鼓舞といった現象を生むのである。


そしてこの構造において、人は人同士で果てしない、憎しみ合い苦しめ合い殺しあう人間関係を作り出してしまうのだ。


そしてその理由が民族や国家という集団性によるものである時、果てしない戦争へと向かってしまうのだ。


世界の真の問題は、民族、国家、にあるのではない。 


世界の真の問題は





「愛情の限定化」







に他ならない。


全ての人が全ての人を愛する、という立場に立つならば、相手がどんな民族、国家に所属していようと、憎しみ合い苦しめ合い殺しあう事は無いのだから。





ではこの世界の真の問題を解決するには、どうすれば良いだろうか?


まずもって、人を愛する。



先の例え話に戻ってみよう。



 砂漠の中に一家族分の水しか出ないオアシスがあり、そこに二つの家族が同時にやってきて、一方の家族が、水の独占を狙い、相手の家族を拒絶する理由として、


「自分の家族ではないから、あなた達には水を与えない」





と、相手の家族への水の供給を拒むならば、その家族同士は対立し、水を巡り争い、暴力を用いる事だろう。


しかし、この二つの家族が、オアシスを前にして、





「このオアシスは一家族分の水しか出ませんが、少ない水を両家族で分かち合いましょう、そして両家族で協力して、オアシスの水がより増えるように、努力してみましよう」





と考えれば、両家族が争うことなく、助け合う関係を築く事になる。





この例え話から解る事は、もしもこの両家族が、両方共に、助け合おうと考えるならば、争いは起きない、という事である。


ではそれはなぜか。


それは、両方共に助け合おうと考えるので、お互いが憎しみ合い苦しめ合い殺しあう人間関係を作り出さないからだ。


相互に助け合う信頼関係があるならば、争う事は無い。 


それは両方の愛情の範囲が、


「自分達の家族だけ」 


という、


「愛情の限定化」


ではなく、


「自分達もあなた達も」


という、両方の家族全てを愛そうとする事を、そこにいる全ての人が行なったからである。


ここで、


「オアシスの水は一家族分しか出ない、また人は水が無くては生きられない」


と、環境及び能力の不足を理由に拒絶すれば、それは「愛情の限定化」


を生み出す。


 能力の不足に対し、目標範囲を限定化する働きは、人間の思考、欲望の当然の働きであるが、それが人間関係の構築に働く時、排除する者とされる者という関係から、暴力が生まれてしまう。


 つまり、能力による目標範囲の限定化は、人間同士の関係においては、暴力を生む事になってしまうのだ。





 しかし目標意識を優先させ、両方の家族が皆、能力が不足しているという自覚があるからこそ、むしろ助け合おうとする時には、愛情の範囲が広がっている。


 つまり、能力の不足という現実に対し、


「自分達だけを愛し合おう、それ以外は見捨てて、排除しよう、その為に暴力を用いるのだ」


という事ではなく、


「自分達以外も含む全ての人を愛する」


と全ての人が思うならば、その時には人同士が争い合うことは無くなるのである。


 つまり、一切の条件に関わらず。全ての人が、全ての人をまずは最初に、無条件に愛する時、


「愛情の限定化」


が消え、無益な争いと、憎しみ合い苦しめあい滅ぼし合う人間関係がなくなり、戦争が生まれなくなり、永遠の平和の世界が生まれる。


 


「まずもって、人を愛する」


事こそ、世界を永遠に平和にする方法である。


 そして、その考え方を全ての人が持つ事こそ、世界を永遠平和にする方法である。


    



愛情とは何か?


しかしその考え方を全ての人が持つ為には、愛情とは何かを考えなくてはならない。


愛情とは何かを明確に出来なければ、


「私は~には愛情を持たないので、関係が無い」


という事になってしまう。


 


愛情とは感情である、そして感情の発生には数多くの感情発生の基準の達成が必要となる。


そしてそこには数多くの能力と、条件の達成の必要性が生まれる。


この事に気付かず、感情が心の中に生まれるかどうかと考えて、人を愛するかどうかを決めるならば、その時の愛情という感情の範囲は常に、その愛情を持つかどうかを考える、その個人の人生経験などによって限定された価値基準や、環境、知識、経験、能力の範囲に限定される。


それは全ての人をまずもって無条件に愛する、という事にはならない。


つまり


「無条件に全ての人をまずもって愛する」


という事は、感情発生後に人を愛するかどうかを決める、という通常の思考過程を超えて、感情発生以前から、どんな条件や、環境、能力の範囲に関わらず、全ての時において人を愛する、という思考を持つという


「感情発生以前から常に、どんな時と場合であっても全ての人を愛する」




という事でなくてはならないのである。



 では、


「感情発生以前から常に、どんな時と場合であっても全ての人を愛する」


という事は、個人の思考の段階においては、どういう事になるのだろうか、それを明確に出来なければ、それは単なる理想的条件の提示に過ぎない。


 個人の思考の段階において、


「感情発生以前から常に、どんな時と場合であっても全ての人を愛する」 


という事がどういうことか明確に出来るならば、全ての個人がこの事を理解し、世界は永遠平和になる事だろう。


 その為には、人間の個人の思考がどういったものなのか、その構造を明確化しなくてはならない。


 個人の思考の段階において、愛情が発生するというとはどういうことか、そして個人の思考において、目標として


「感情発生以前から常に、どんな時と場合であっても全ての人を愛する」


という目標の設定とはどういうことになるのか。




 全人類共通普遍の思考構造




 


民族、国家、など、人類全体の歴史の経過を経て、人間が人間を区別する価値基準は数多く存在する。


 それらの基準に根拠を置く人類の集団化の方法は、必然的に人類全体の中から、各個別集団の分裂と対立を生みやすい。





 従って、これらの価値基準によらない、そして暴力を必要としない、集団化の方法の確立こそ、戦争を生み出さない人類の有り様である。







 ここで注意すべき事は、筆者は決して民族、国家、という人類の集団化の方法を、否定すべきである、といった主張を展開しようとしているのではない、という事である。


問題は人と人の区別の仕方にではなく、その区別を利用して戦争へと至ってしまう、人類の思考過程そのものにある。





対象は問題ではない、構造が問題である。




 全人類という一人の人、という例え話







 例えるならば、全人類全てをまとめて、一人の人間だと考えてみよう。


 「全人類」という名の一人の人がいる。


その人は、自分自身の内側に、自分自身について区別するいくつもの基準を持っている。


民族、国家などによって区別し、いつも争っている、





しかし、その全人類という一人の人が、民族、国家、という区別に関わらず、


「戦争を止めよう」


と考えれば、その時点で戦争が生まれなくなる。





 それは、全人類という一人の人を構成する、全ての人々の頭の中から、戦争を始めよう、と考える人がいなくなる事を意味する。


 


 それはつまり、全ての民族、国家にも通じる、全人類共通普遍の構造において、戦争を止めようと考えるようになる、という事だ。


 では、全人類共通普遍の構造とは何か?


 ここで、これまでの文章の復習。





 人間はなぜ集団化するのだろう?


 集団化して、集団生活を営む事によって、各個体の生存と繁栄の可能性を高め、その群れに属する人同士の共存を図られるからだ。


 それはより具体的には、各個人の人の欲求を満たす事が出来る可能性が、各個人が単独で存在するよりも、高まるからだ。


 それはより具体的には、各個人の欲望の達成の可能性が、各個人が個別に存在するよりも高まるので、集団化を求めるのだ。


 つまり、集団化を求めるのは、全人類共通普遍の構造である、欲望である。


 そこで、もし欲望という構造において、戦争を止めよう、戦争を生み出さない事にしよう、と考えられるならば、それは民族、国家、という人類の区別によるものではない、全人類共通普遍の構造としての、戦争の発生の停止が可能となる。



 では欲望とは何だろうか、その構造を明確化してみよう。


  欲望とは何か。




 欲望には種類がある。


 例えば、人間の三大欲求として、食欲、性欲、睡眠欲がある。


 また、集団を構成したいという「集団欲」というべき欲望もある。


集団欲とは、人が人と一緒にいたい、という欲求の総称。

この中に、カテゴリーとして、権威欲、自尊心、家族愛、民族愛、愛国心、世間体などがある。

これらは共通の構造として、他人に自己の能力が認められるか、という価値基準の構造がある。


つまり、他人の欲望にとって自己が有益であると言う認識の広がりは、相互関係の強化に繋がるため他人の評価が良くなることを喜びとし、その否定を苦とする思考構造がある。


人間の思考構造は、これらを含む多種の欲望の総合としての構造である。




 そしてこれらを中心に、様々な各個人の人生経験を経て得た感覚や感情、判断がある。


 欲望は構造的には、対象を獲得しよう、もしくは拒否、否定しようという思考に他ならない、そしてそれは種類別に分けて考える事が出来る。


 


 その種類の違いとは、その欲望が対象とする目標の違いである。


 つまり、食欲においては、目標とするものは食べ物である。


 性欲においては、性の対象である。


 睡眠欲においては、睡眠である。


 集団欲においては、集団を構成する自分と他人、及び人々である。


 これらは大きな意味としての目標の設定である。


 そして更にこれらの目標に、個人の知識や経験、その時々の環境や状況とその変化に応じて、大きな目標に合う、より具体的な目標の設定がある。


 つまり、欲望は構造的に、まず大目標と、その目標に合う具体的目標としての小目標の設定があり、そこから更に具体的方法論の選択、といった過程と段階を経るものである。


 そして、欲望における目標には、目標範囲の設定があり、その範囲には限界がある。目標範囲とは、同時に限界範囲の設定でもある。


 人は、目標範囲を設定し、その範囲に環境や自己の能力を合わせよう、適合させようとする。


 成功すれば喜び、失敗すれば悲しむ。


 快と苦は、その時々の欲望における目標の設定基準や範囲によって変わり、また目標達成の認識の基準によっても変わる。


 そして、その判断によって、人は喜んだり悲しんだりする。


つまり、感情とは、様々な欲望における目標の達成、未達成の判断の結果生まれるものであり、そしてその結果、また新たな欲望における目標の設定が行なわれ、行動する。


 


欲望における目標の設定とは、その設定を行なう各個人の能力や、その個人を取り巻く環境や、その個人の人生経験から生まれた様々な価値、判断基準によって限定される。そして何らかの結果が生まれると、その結果について判断するが、その判断もまた、その各個人の能力や、その個人を取り巻く環境や、その個人の人生経験から生まれた様々な価値、判断基準によって変化する。


 様々な感情の違いとは、ある特定の対象に対し、それが自己の欲望において合っているか、合っていないかの判断の結果生じる。


 


例えば、野菜を考えてみよう。


 野菜は食欲には合う。


 野菜は睡眠欲には合わない。


 野菜は性欲には合わない。


 野菜は集団欲には合わない。


 


 野菜は食べられる、食べた結果、味覚を刺激する、味がおいしいと感じられるならば嬉しい、しかし舌が何らかの理由で味覚を感じなければ味は関係が無いので、嬉しくとも悲しくとも感じない、また野菜が嫌いだという人にとっては、野菜を食べる事は苦痛に感じる。野菜が腐っていればまずいと思い、腐っていても味がよければおいしいと思う、新鮮な野菜ならば食べた結果体にいいので、その個人の生存の可能性を高め、食欲を満たす、そしてその個人の生存欲を満たす。


 逆に野菜が腐っていれば、生存の可能性を低下させ、生存欲を満たさない。感覚としてもまずいと感じる。





 感情とはつまり、対象が欲望に適合するかどうかの様々な判断の結果生ずる複合的な判断の結果である。



 感情というものを、通常人は、


「一つのまとまった感情」


として、人括りに考えがちであるが、実際には複雑かつ複合的な判断の結果生まれるものである。


 


 自発性について 



 人は、対象を欲望における目標に合わせようとする時、より具体的に述べるならば、対象を欲望の設定範囲に合わせようと、環境及び対象及び能力を変化させようとする時、自発性と積極性を持つ。


 しかし、対象が自己の欲望に合わない時、また環境や対象の状況、自己の能力の範囲の限界などによって、欲望における目標の設定範囲に、対象を合わせる事が出来ないと考え判断した時には、自発性と積極性を失い、後ろ向きで消極的で否定的になり、諦めがちとなる。


 


 例えるならば、


50mの断崖絶壁があり、そこを上れば美しい花が取れる。


 その花を取りたいと思う人もいるが、取りたくない人もいる。


 花を欲しがらない人は崖から去り、欲しがる人は崖を登って花を取りたいと願う。


 花を欲しがる人は崖を登りたいが、その人に崖を登る力が無かったり、崖を登る為の適当な道具が無かったり、雨が降っていて崖を登る事が危険であれば、花を取る事に消極的になる。自分の能力不足を嘆く人は悲しんだり悔しがったりする。





 消極的な個人に対し、ある特定の行動を他人が求める場合、何かの利益を約束してその行動を行なうよう求めるか、何らかの不利益を約束して、強制的に行なうように仕向けるかのいずれかを行なう必要がある。    





暴力を人が人に対し振るうのは、消極的な他人をある特定の行動に合わせて動かそうとする為である。





そして、戦争とは、暴力の最大級のものである。





つまり、戦争が全ての人の思考の中に生まれなくなる為には、人類の集団化の為に、消極性において行動を取る事を、ある一定の方向への行動へと強制する為に、また欲望の目標の達成を、阻害する者の排除の為に暴力を必要とするという構造から、積極性において、自発性において人類の集団化を行なう、という事の全ての人の理解の必要がある。


そしてそれは消極性においてではなく、積極的に、自発的に、人々が自ら望んで、


 「感情発生以前から常に、どんな時と場合であっても全ての人を愛する」


という目標の設定を行い、行動するということであり、その為には、全ての人に共通する、欲望における目標の設定が必用となる。


 


それは具体的には何だろうか、どういった欲望における目標の設定をすれば、全ての人々が理解し納得して戦争を生み出さなくなるのだろう。



全人類共通普遍の構造は、欲望構造である。


従って、欲望の構造において、適切な目標の設定を行なえるならば、そしてその目標の設定が、全ての人の積極性と自発性を生み出し、消極的になる為に暴力による強制力を必要とせず、戦争を生み出さないものである時には、その目標の設定が、全人類の永遠の平和を保障するものである事だろう。



自発性を生み出す事は、その個人の様々な欲望における目標が達成されると、その個人が判断出来た時に生まれるものである。


しかしある欲望における目標の設定が、それ以外の他人の欲望に合うとは限らない。


すると、ある欲望における目標の設定が、ある個人には合うが、別の個人には合わず、その目標に対し、ある個人は積極的だが、別の個人は消極的であれば、そこに強制と暴力を生み出す余地が生ずる。


従って、戦争を生み出さない為には、ある目標が全ての人の欲望を満たすものであり、全ての人が基本的に積極的、自発的になるものでなくてはならない。






自律制御、自己完結型の論理


では、その目標は、一体何なのか。


全ての人に共通するのは欲望という構造である。


どんな人でも、欲望における対象は違っても、欲望という構造自体は変わらない。


ある人は野菜が好きで、肉は嫌い。その逆の人もいる。


しかし、食欲という構造は変わらず、全ての欲望に共通して、欲望は欲望における目標を設定し、その目標の達成を求める、という構造を持っている。


目標を達成すると喜び、達成しないと苦しむ。


人間は快を肯定し、苦を否定する。


もし全ての人が、全ての人の欲望を達成しようとするならば、全ての人は喜んで全ての人を愛するだろう、しかしそれでは、暴力を振るい、戦争を求めるという欲望の目標も求めてしまい、結局は戦争を始めてしまう。


そこで、ある程度の欲望の目標の限定化が必要であり、それは全ての人に共通の目標範囲でなくてはならない。


では、全ての人の快楽を求め、達成しようという目標は、全ての戦争を終わらせる目標だろうか?


しかしそれでは、麻薬やアルコールなどによって、どれだけの快楽を生じさせるかが重要になり、世界は荒廃し、やがて戦争を始めてしまうだろう。


 全ての人の苦しみを否定する、という目標は同だろうか?


しかしその目標では、全ての人の苦しみを否定すれば良い、という事から、世界中の全ての人が死ねば良い、という結論になる。


しかしここで、考えを進めてみれば良い。


もし全ての人の苦しみを、何らかの方法で解決出来るならば、人々は喜んで自己及び全ての人の苦しみを解決しようとするだろう。


全ての人が、全ての人の苦しみを解決しようとする事を、感情の発生以前の、最初の目標とするならば、全ての人が自発的に、協力し合い、助け合うことだろう、そこから自然に、何の強制も暴力も必要としない、集団化が生まれ、人々は自然に、戦争を生み出す事を止める事だろう。


なぜなら強制や暴力、戦争という方法は、苦しみを人に対し生み出すので、それは、「全ての人の苦しみを解決する」という最初の目標に合わないから、戦争という方法は否定される為である。


最初の目標に合わない途中の目標は、その過程で否定される。


全ての人の苦しみの解決を目標とする時、民族、国家などの人同士の区別の方法は、対立の理由ではなくなる。


なぜなら、その個人がどの民族、国家に属しているかに関わらず、全ての人の苦しみを解決しようと考えるからだ。


全人類全ての苦しみの解決を目標とする事こそ、「感情発生以前から常に、どんな時と場合であっても全ての人を愛する」


という範囲を満たす目標である。


  全人類全ての苦しみの解決を目標とする個人の総合としての全人類世界、その時、全人類全ての個人の人格が、全人類全ての永遠平和を保障する時代の始まりとなるだろう。


 全人類の永遠平和を実現する方法は、全人類全ての苦しみの解決を目標とする個人の総合としての全人類世界が成立することであり、そのような人格として、全ての人が存在するようになる事である。



 全人類の苦しみの解決を目標とするならば、全ての人々が、国家、民族、老若男女、利害の違いを超えて、同じ目標を共有する仲間である。


 全ての人々が基本的に、全ての人の苦しみの解決を保障するという環境が世界に生まれれば、全ての人の自己の苦しみを、自己のみだけでなく誰もが保障するので、誰もがお互いに基本的な信頼感を持つようになる。


それが人々の相互の不信感を無くし、様々な軋轢が生まれる事を未然に防ぎ、対立を無くす。




 民族、国家といった人間の区別は、単に人間の区別の方法に過ぎなくなる。


 なぜなら、全ての人の苦しみの解決こそ問題なのであって、対象となる人がどの民族、どの国家に属しているのかといった事は、全ての人という範囲の中の限定化でしかなく、全ての人の苦しみの解決という目標の一部に過ぎず、従って、全ての人の苦しみの解決という、


「全て」


という範囲に含んでしまうので、


「ある民族、国家に属している人同士は助け合うが、それ以外の人は助けない」


という


 「愛情の限定化」


が起きなくなるからだ。


 誰かが誰かだけを助ける世界、


ではなく、


 誰もが全ての人を助ける世界。


 


 誰かが誰かだけを救う世界、


ではなく、


 誰もが全ての人を救う世界。





こそ、真に救われた世界である、と言える。



 そしてそれは同時に、


世界中の人が一部の人々にのみ、世界の全てを背負わせようとするのではなく、


世界中の全ての人が、世界の全てを背負う事こそ、救われた世界を生み出す方法であり、世界中全ての人が世界中全ての人を救う事を目標とし、行動する事である。


 そのような世界こそが、全人類の永遠平和の世界である、と言える。


 


 人々はこう考えるかもしれない、


「私や私達には能力が無く、そのような巨大な目標に見合う能力は無い、だからその目標の達成はあきらめよう」


 目標に能力が達しないならば、目標の達成をあきらめるのだろうか?


 目標の達成に能力が足りないのならば、不足している能力を補えば良い。


 目標の達成に能力が足りないのならば、足りない能力分を、より多くの人々との助け合いによって補い合えば良い。


 目標の達成に能力が足りないのならば、自分から進んで人助けをする、そういう人同士の助け合いの世界こそ、対立と戦争の無い世界を生み出す人々の人格の有り様である。




 これは例えるならばこういう例え話にする事が出来る。 


 


 100台のロボットがある。


 それぞれのロボットのコンピュータープログラムに、


「それぞれのロボットの製造時間と製造工場が一致するロボット同士は助け合いなさい、製造時間と製造工場が一致しないロボット同士では、助け合う必要は無い」


「それぞれのロボット同士に利害の不一致がある時、同じ製造時間と製造工場が一致するロボット同士ならば妥協しあうが、製造時間と製造工場が一致しないロボット同士ならば、破壊しなさい。」


とプログラムすれば、ロボット同士で対立し合い、破壊し合うことになる。


 しかし、


「それぞれのロボットの製造時間と製造工場が一致するかどうかに関わらず、全てのロボットは全てのロボットと助け合い、共に協力するようにする。」


とプログラムすれば、ロボット同士の対立は起きず、平和で在り続ける。





 人々はなぜ戦争をするのか?




戦争を行なうのもまた、人が生きていく中での何らかの目標を達成する為の方法の一つとして、人々は戦争という手段を選択する。


しかし、戦争と言う手段は非常に負担の大きい方法だ。


 


人類にとって重要な事は、繰り返し述べるように、より効率的、かつ能率的な欲望の目標の達成の為の方法であり、その為により有用な、人類の集団化の方法論であって、その為の効率的な人間行動原則プログラムなのである。


戦争と言う方法を生み出してしまう考え方の枠組み自体が問題なのであって、問題は民族、国家といった人間の区別による対立や感情ではない、それらは区別の方法に過ぎないのであり、真の問題は他者排除型の論理体系という考え方の枠組み、思考のプログラムであり、


「自分達は助けるが、それ以外は助けない」


という


「愛情範囲の限定化」


という目標範囲の限定化にこそ在るのだ。


 


もし全ての人が、その思考の枠組みとして、根本的に、全ての人を、感情としての愛情感が発生するかしないかに関わらず、全ての人を愛し、全ての人の苦しみを解決しようとし、その目標達成の為に助け合おうとするならば、どの民族、国家に属しているかに関わらず、全ての人が全ての人を助け始める。


それが人同士の信頼を生み、より多くの人を助け合う事になる。

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