対数螺旋のテオソフィア

「おい! どういうことだよ!」

 至聖祭壇から降りてきた二人に、狼淵は食って掛かった。

「どうと言われましても……私と維沙どのが死合うわけにはいかないでしょう」

「そこじゃねーよ! なんでアンタじゃなくて維沙が勝ち上がる感じになってんだよ!」

 維沙が寄ってきて、狼淵を見上げた。

「狼淵、僕が子供だから穏便に敗退させて守ろうというあなたの意見はとても常識的だ。非の打ちどころのない正論だと思う。だけど、

「ああん?」

「そうだね……ちょっときてほしい。あまり人目にさらしたいものでもないから」

 腕を引っ張ってくる。

 わけもわからずついていくと、さっきの道場まで連れてかれた。

 板張りの床で、維沙と相対する。

「さて狼淵。僕とじゃんけんをしてくれないか。もちろん手袋はつけたままで」

「んん? まぁ、いいけどよ……」

 手指を軽く開閉させてから、とりあえずチョキを出す。

 同時に維沙はグーを出していた。

「負けたな」

「もう一回やろう」

 今度は適当にグーを出す。

 維沙はパーだった。

「……おう」

「どんどんつづけよう」

 それから狼淵は、無作為に次々と手をだしつづけた。

「っ!」

 

 あいこすらなかった。

「今度は両手でやってみてくれ。僕は片手のままだ」

 結果は同じだった。

 狼淵がどんな組み合わせで手を出そうと、維沙はひとつの手で勝利しつづけた。

「ど、どういうことだよ!?」

「どうもこうも」

 維沙は、自嘲じみた口調で言った。

「何の勝算もなく八鱗覇濤に参加する者などいない。それだけのことだね」

「さよう。私よりは維沙どのの方が駒を進める確率は高いものと存じます」

 横で刈舞が何故か得意げな顔で語る。

「決して足手まといになるようなことはないと、断言させていただきましょう」

「いや、勝てるとか勝てないとか、そういうことを言ってんじゃねえよ。ガキんちょが戦うこと自体が」

「狼淵」

 維沙が遮った。

「僕だって、なんの覚悟もなくこの狂った舞台に身を投じたわけではないんだ。僕を仲間と認めてくれるのなら、僕を尊重もしてほしい。朱龍・ケーリュシアは維來について僕の知らないことを知っているみたいだった。逃げるという選択肢は、僕の中からはもう消えてるんだよ」

「う……」

「あなたが寂紅・ウルクスの仇を討ちたいのと同じことだ。誰の中にも、譲れないものはある」

 確たる戦意を秘めた隻眼。

 ――《魔拳》朱龍・ケーリュシア。アギュギテム経済の重鎮であり、蜘蛛の巣のごとく張り巡らされた陰謀の中心に座する、闇社会の恐怖。

 その怪物的存在と、ただひとり向かい合う覚悟を固めていた。

 こいつにとって、妹は――維來・ライビシュナッハは、それほどの存在なのか。

 狼淵はもう、何も言えなくなっていた。


 ●


 朱龍・ケーリュシアは。常に肩で風を切りながら歩く。

 後ろに付き従う《緋鱗幇》の男たちの、畏れと羨望の入り混じった視線を、背に受けながら。

 街路をゆく貧民らは、次々と朱龍らに道を開けてゆく。ざわめきに怯えが混じっている。

 皇立監獄都市アギュギテムにおいて、《幇会》とは法であり、神である。

 世俗的な意味での支配統制にはまるで興味を示さぬ皇帝や餓天宗に代わり、獄中社会に恐怖と秩序を与えつづけている。

「ここかえ?」

「へい。刀をしこたま抱え込んでやがります」

 朱龍らは大きな酒場の前で足を止めた。繁華しているわけではないが、場末というほどうらぶれてもいない、中途半端な酒場である。

 その実、大量の刀剣を貯蔵して別の《幇会》に横流しをしている不届きな鍛冶師集団の拠点である。

 アギュギテムの主要産業たる鍛冶業は、各《幇会》によって厳重に管理されている。互いの縄張りを侵すような真似に対しては流血をもって報いなければならない。

「まったく、妾はこれより典礼ぞえ? このような些事で煩わせよってからに。指を詰める覚悟はできているのかえ?」

「め、面目次第もありません。どうも腕利きの用心棒がいるみてえで、埒があかねえんです」

 朱龍よりも体格の良い武侠が、恐怖すら滲ませて頭を下げている。

「ふん」

 両性具有の美丈夫は、秀麗な鼻梁をわずかにひくつかせた。

「……妙ぞ」

「はい?」

「は?」

 きょとんとしている部下を置き去りにして、朱龍は酒場の扉を開け放った。

 苦痛と混乱の呻きが、幾重にも折り重なって押し寄せてくる。

「おやおや」

 朱龍は小首を傾げた。

「なんとまあ、迂遠なことを」

 酒場には、うずくまって顔を抑える男たちが、そこかしこにいた。

「目が……俺の目が……!」

「ひぃぃぃ……」

 愁々とした、悲鳴とも嘆息ともつかぬ吐息が、屋内に渦巻いている。

 目元を抑える手の端から、鮮血が流れ出していた。

 酒場にいる全員が、である。

 ざっと見た所、十五名ほどの男たちが、痛みと恐怖と絶望に呻いていた。

 その異様な情景のなか、ただひとりだけ、例外がいた。

 酒場の片隅の一角に畳が敷かれ、その上に小柄な人物が座していたのだ。

 両手で包んだ湯呑から、ずず、と茶をすすり、くつろいだ吐息を漏らしている。

 灰色の着流しの上から栗梅色の羽織を引っかけた、こぢんまりとした正座姿。

 穏やかで福々しいその顔には、長く積み重ねた人生の証が刻まれている。

「ふぅ……本日はお日柄もよく、実にぽかぽかとした陽気でございます。まことに重畳。このような日は血なまぐさい日常をひととき忘れ、茶を片手に詩興に耽るもまた一興」

 そう言って、傍らの戸棚からもうひとつの湯呑を差し出してきた。

「いかがでございますか? アルキュロス産の白毫茶でございます」

 外界であれば裕福な貴族の手にしか届かない希少な茶葉である。そんなものが平然と酒場に置いてある事実が、アギュギテムという都市の特殊な経済事情を物語っていた。

 朱龍は肩をすくめる。

「結構ぢゃ、ご老体。妾はくつろぎに来たわけでもないゆえにな」

 そして、もう一度室内を眺め渡す。相変わらず、男たちが目を抑えて呻いている。

「このありさまは、御身が成したことかえ? 斬伐指定剣士、螺導・ソーンドリスどの」

「左様。やつがれが救い申した」

 ふたたび茶を一口。

「まっこと、信義に欠ける者らでございました。やつがれはこの酒場の用心棒として糊口をしのいでおりましたが、八鱗覇濤への出場が決まった途端、こちらを見る目が変わったものでございます」

 嘆かわしげに首を振る。

「ただの小柄な老いぼれが一匹。他の参加者に比べれば組し易しと見たのでしょうな。この身に宿れる神聖八鱗拷問具アルマ・メディオクリタスを奪わんと、示し合わせたように襲い掛かってき申した」

「ほほ、愚かな連中ぢゃ」

 前例のないことではない。

 実際、神聖八鱗拷問具に選ばれることが、八鱗覇濤に参加するための条件である。

 期日までに十六振りに選ばれた者が現れなかった場合にのみ、拷問具を持たぬ者の参加が許される。

 そして、八鱗を身に宿す者が誰かに殺められた場合、参加権はそのまま殺めた者に移るのだ。

 ――それにしても愚かなだけでなく卑小である。

 螺導・ソーンドリスが一回戦を勝ち上がるまで待っていたあたりが実にみみっちい。参加権を簒奪した後で戦う回数を可能な限り減らしたかったのだろう。しかしあまり待ちすぎても螺導が敗死するかも知れないし、勝ち続けた場合複数の拷問具を得て手に負えなくなるかも知れない。

 その葛藤の結果、今この時に襲い掛かったのだ。

 まこと、匹夫の思考である。

「彼らとはそれなりに良い関係を築けていたと思っておりましたが、まことに残念な仕儀でございます。しかしかような裏切りに遭ったとしても、人は慈悲の心を忘れてはなりませぬ。他人の持ち物を奪うような衝動に駆られてしまうのも、すべては視覚などに惑わされているが為。年長者として、彼らを正しく救ってやらねばなりますまい」

 視覚を奪うことが、この剣鬼にとっては救済らしい。

 大きなお世話と言うほかないが、しかしそれを成した技は筆舌に尽くしがたいものだ。

 見れば、斬られた者らは全員が一閃にて両目とも奪われている。

 つまり太刀筋は右から左に抜けるか、その逆かの二択しかない。相手の虚を突いて意識外の角度から攻撃することができないのだ。

 一人目や二人目ならば不意を打てば可能かもしれないが、それを生きて動いている十五人全員に対して成すなどと――朱龍には想像の埒外にある神域の剣腕と称するよりほかにない。何をどうすればそのような不条理がまかり通るのか、まるで理解不能だ。

 螺導は緑と白の餡で形作られた茶菓子を上品に切り分け、口に運んだ。

 実にのほほんとしている。

「……して、本日は何用で? 見ての通り、この酒場はしばらく営業不可能でございますので、たいしたもてなしは出来かねまするが」

「ふむ」

 朱龍は思案する。今この場で螺導とことを構えた場合、勝機はあるだろうか。

 ――絶無、であるな。

 決して戦士としての力量が劣っているとは思わないが、朱龍の戦力はほとんどがじゃんけんに比重を置いている。かの霊燼・ウヴァ・ガラク相手ですら、純然たるじゃんけん勝負であれば確実に勝てるであろうと目されているし、朱龍自身もそれを否定はしない。

 だが――この老人とは相性が最悪だ。先天的全盲。なんたる理不尽。こちらの最大の武器が最初から封じられている。

「なに、ご老体が救ったこの者らに用があったのぢゃが、身柄を確保してもよろしいかの?」

「ご随意に。こうなってしまってはもはやここで糊口をしのぐこともできますまい。やれやれ、老人には世知辛い世の中でございますなあ……おや」

 螺導が眉を寄せ、微かに首をかしげた。

「ふむ、ふむ、ほう」

 なにやらしきりにうなずいている。

「いかがした?」

「いやはや、近くに導きと救いを求める若者がおるようで」

 傍らにあった漆塗りの打刀を掴むと、ゆっくりと膝を立て、立ち上がる。

「やつがれ、これにて失礼つかまつる。《魔拳》どの、御身の健勝をお祈り申し上げまする」

「ほほ、八鱗覇濤の参加者になかなか皮肉の利いたもの言いぢゃな。とはいえまぁ、ありがたく頂いておくとしよう。ご老体も壮健であれ」

「ありがたし」

 矍鑠たる足取りで螺導は酒場の出入り口に歩みを進める。

 口の端を吊り上げながら、それを見る朱龍。

 打刀の鯉口は、いつの間にやら切られていた。

 《緋鱗幇》の武侠らに緊張が走る。

 剣技と、じゃんけん。それぞれの武林において頂点を極めたる二人の怪物の距離が縮まり――すれ違う。

 永遠のような一瞬。

 そして――何事もなく過ぎ去っていった。

 小柄な老人は、片時も足をゆるめず、酒場より出てゆく。

 その姿が完全に見えなくなってから、武侠らはほっと息をついた。

 急速に弛緩する空気。

 だが、朱龍のこめかみには汗が浮かぶ。

 ――剣呑剣呑。

 まったくもって僥倖と言うしかない。螺導の打刀の斬間は、踏み込みも合わせて三歩程度。それより遠くても近くても必殺は見込めない。ゆえに、その即死距離を通過する瞬間は、呼吸において朱龍に絶対有利な状況を構築しておかなければならない。

 極限まで洗練された歩法をもって、両性具有の麗人は自身が息を吐き切る寸前の機に、螺導が息を吸い切る寸前の機を合わせ、その瞬間に即死領域を通過する必要があった。

 螺導もまた、これらの事情を先刻承知しており、朱龍に呼吸を読ませるにまかせたのだ。

 お互いがお互いの呼吸を完璧に読み切り、かつ朱龍が綱渡りめいた間合いの調節を行うことで初めて可能となった、穏便なる別れ。


 これが、〈帝国〉に類を見ない二人の傑物の、最初にして最後の邂逅であった。

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