カノン興亡記・終

キール・アーカーシャ

第1話

 年老いた者が死ぬ。

 それは自然の摂理であり、遺族などは表では悲しみこそすれ、むしろ良くぞここまで生きたと賛嘆する心も内には生じうる。

 しかし、若き死は別である。それは悲しみでは無く、苦しみである。それは摂理に反しており、不条理そのものだ。いや、それは哀(かな)しみも内包しており、烈(はげ)しい痛みと言いしれぬ絶望を人に与える。

 親は逆縁の苦しみに打ちひしがれ、時にその執事なる貴族は遺体の前で、我が子は未だ生きていると夢想する。

 だが、彼らは死したのだ。


 アルカンドの第一王子ヘレクトル。

 旅人レクとも呼ばれる彼は死した。

 愛する者を、そしてカノンの民を守り、年若き彼は異国の地で死んでいった。

 彼の従者である名も無き魔導士も、王子ヘレクトルの命(めい)によりカノンの姫を守り、そして確かにそれを果たし命を散らした。しかし、それを命じた主も時をほぼ同じくして命の灯火を尽くしたのだ。

 若き死、これ程の悲劇があろうか?

 だが、それは起き、既に覆る事はない。

 あぁ、これが喜劇ならば良かったものを・・・・・・。もしくは死しては生き返り、生き返りては死すを繰り返すような《安き死》なら良かったものを・・・・・・。

 しかし、世界は悲劇に満ち満ち、人は外なるそれを見ようとはしない。

 それは必ず自らにも訪れるのに。


 包囲戦により荒廃した首都カノンを、一人の盲いた男がボロ切れを纏いながら歩いていた。

 彼こそは、かつてアウラこと王妃アラマスタに両目を奪われた山地族の男ハドゥクスであった。

 ハドゥクスは目を失ってより、盲目の吟遊詩人として諸国を放浪していた。

 そして、たまたま首都カノンを訪れたのだ。

 だが、首都カノンの人々も窮乏しており、彼に施すだけの余裕は無かった。

 それでもハドゥクスは歌い歩いた。

「さぁさ。皆様、どうかこの盲いた吟遊詩人の歌をお聴きください。お代は銅貨で結構。もし慈悲深き心がおありなら銀貨を。金貨を頂くほどには手前の歌は大した事はありませぬ。それならば卵を一つ、おくれなされ。そいつを割れば黄金の実が出でて、白い冠が二つも出来る。しかし、白身にはご注意を。南方では、こいつを結婚なさっている貞淑な貴婦人の寝床にぶちまける悪戯が流行っているとの事。そうすれば物も知らぬ夫は、ベッドにかかった白い液を見て、妻の不貞を勘違い、怒る怒る。とはいえ、賢しい子供はすぐに気付き、そいつをぺろりと舐めて、卵の白身と確信する。そして、勘違い夫の前で、ついた液を焼いて見せて、そいつが白身と証明して見せるのです。もちろん、手前は白身を悪戯(いたずら)などに用いず、黄身と一緒に焼いておいしく頂きますがね」

 だが、飢えた民はハドゥクスの言葉に興味は示せども、再びうつむき動こうとしなかった。

 それでもハドゥクスは歌い歩いた。

「しかし、世の中は末も末。良い者ばかりが死んでいき、悪しき者ばかりが栄えていく。噂じゃ、アルカンドのヘレクトル王子も亡くなったとか。一方で、蛮族の盗賊王シュレイジオは生きており、それもピンピンとしているとか。どこかの東の皇帝は一度も戦場に出ず、全てを将軍やら宦官や魔導士に任せて、劇場から拾ってきた麗しき妻と離宮で過ごすと聞く。その身分低き妻を彼は深く愛し、彼女との結婚を反対した忠臣はとうに首と胴が離ればなれとか。やれやれ、蛮族の中で最も気高く戦ったキリア族、その数百名はその悉(ことごと)くが宦官ナルゼスの率いる数万の軍に突っ込み、討ち死にしたと言う。しかも驚くことに彼らは敵の大将まで肉薄したとか。もし、これが叶って居たならば歴史は大きく変わっていたでしょうが、あまり大きな声では言えませんがな」

 さらにハドゥクスは勢いを上げながら続ける。

「蛮族の壮年の弓使いピロハネスはヴィエラ湖を撤退しているさなか、忠実に仕えた主達に置いて行かれ、今も助けを呼んでいるとか。おっと、同じく蛮族の弓使いと言えば、麗しきヴィス=ティージスを忘れてはいけない。彼は盗賊王シュレジイオとの戦いに敗れ、北の大地で行方も知れず。一説では女魔導士により《生ける死者》として蘇らせられたとの話ですが、それこそおとぎ話のようなもの。誰も信じますまい。彼の腹心なるアイオス=シェネトは寡兵を率い、神出鬼没にシュレイジオの軍を襲っているとか。復讐とはまこと怖ろしきもの。仮面の女傭兵アウラは道半ばにして倒れ、炎と共に舞台を去った。下世話な事ながら、彼女の素顔を見た将軍ベリウスは不能になってしまい、愛する妻とも楽しめなくなってしまったとか」

 これには周りの者も失笑を漏らした。

「さてさて、皆様。しかし、これでは困ってしまいますな。疲れ切った皆様は軽い物語をお望みでしょうが、これでは主人公たる人物がおりません。世間的に良き人物は皆、非業の死を遂げてしまい、主役に適さぬ者ばかりが生き残る。とてもとても物語になりませぬ。とはいえ、どうかご安心を。この盲いた吟遊詩人には一計がございます。すなわち、なにも主人公は人間で無くても良いのでございます。たとえば古の魔剣物語ならば、代々の魔剣の所有者が主人公なのではなく、魔剣そのものが主人公であります。古代アルキア神話では、人型のからくり《アルマ》に少年達が乗り戦ったとされます。この場合、子供達ではなく《アルマ》こそが主役なのでしょう」

 そして、ハドゥクスは本題に入るのだった。

「なればこそ、私はカノンという国を物語の主役に据えましょう。私はカノン人ではありませんが、なればこそ公正に公平に、カノンという国を見渡せるのです。あぁ、確かに偉大なるかな、カノンよ。その歴史は千年を超えるとされ、未だに続いている。蛮族に一度は西を占領されたとは言え、今や東と統一された。それは本来と違う形やも知れぬが、確かに国は統一されたのです。これこそはカノンという国にとり悲願であり、これよりカノンは栄えていく事でしょう。あぁ、偉大なるかな、カノンよ。お前は数々の困難に打ち勝ち、ついに勝利の星を占めたのだ。お前こそは勝者であり主役に最もふさわしいと言える。どうか不甲斐ない人間達に代わり、物語の中核を担っておくれ。では物語を名付けましょう。カノンの織りなす興亡の物語、すなわちカノン興亡記と」

 ひとまずを語り終え、ハドゥクスは胸に手を当て、恭しく頭を下げた。

 これにまだらではあるが拍手が返っていく。中には銅貨をハドゥクスの帽子の中に入れる者もあった。

「ありがとうございます。あなたに神々の祝福があらん事を」

 と、お決まりの言葉を返すハドゥクスだったが、お決まりでない事態が彼を襲った。

 少し離れた所で、一人の少年が東カノンの守備兵に告げていた。

「あの人です!あの目の見えない吟遊詩人が、皇帝陛下やナルゼス様の悪口を流布しておりました」

 その少年こそは宦官ナルゼスが都中に放ったスパイであり、少年は確かにハドゥクスを指さしていた。

 こうしてハドゥクスは逃げる事もままならぬ中、守備兵達に取り押さえられて連行されていく。だがハドゥクスは高笑いを発した。

「はは、皆様、ご安心なされ。案外、牢の中とは外より暮らしは良いやも知れませぬ。食事も一度は出るでしょうしな。これよりそれが正しいのか身をもって試してくると致しましょう。もっとも首と胴が繋がっている限りですが」

 そして、狂ったように高笑いを発しながらハドゥクスは引きずられていくのだった。

 だが途中で守備兵に「黙れと言っているだろう!」と殴られ、沈黙のみが後には残った。

(今は黙そう。しかし、それでも私は謳い続けるのだ。この命ある限り。何故だと思う?それはこの世の中が狂っているからさ。狂っている世界には道化が必要だろう?いつだってそうなのだ。誰もが私の声を聞かない。誰もが私を蔑む。為政者に媚びた物語や毒にもならぬ詩ばかりが、もてはやされる。もしくは毒そのものを人々は嬉々として飲んでいる。彼らは骸骨だ。骸骨の群れだ。だからこそ毒でなければ、無い胃を満足させられないのだ。あぁ、世界はさながら死者で占められている。そんな澱みきった沼のような世界を、私という狂った魚は跳ね踊るのだ。さながら熱した青銅の器で焼かれるようにな)

 皮肉げな笑みを口元に浮かべながら、ハドゥクスは心の内で届かぬ声を叫び続けた。


 そんな頃、東カノンの宰相であり将軍でもある宦官ナルゼスは予備の執務室の席にどっしりと座っているのだった。その横では暗黒魔導士ヴァル=グレイブが彼の話を聞いていた。

「私は昔、西カノンに住んでいたのだ。ちなみに、私自身は母が巡礼している最中に、ラスティーナで生まれて、そこに住む親族の家で赤児の時分を過ごしたから、生まれはラスティーナという事になる。しかし、物心の付いた時には首都カノンに戻され、そこで育った。さて、私の家は代々首都カノンに住まう貴族に仕えていてね、それは蛮族に占領されてからも変わらなかった。その貴族のメザラ家は名誉を重んじすぎて、蛮族に上手く媚びを売れずに没落していた。一方、私の家では兄が蛮族相手に商売を始め、段々と少なくない額を稼ぐようになっていた」

 と、かつてを懐かしむようにナルゼスは言った。

「私の祖父の頃は一家が皆で、メザラ家の邸宅に住み込みで働いていたそうだが、没落貴族にはその金を払う余裕すら無く、私は母や兄と近くの小さな家に住んでいた。一方、私の父はメザラ家に住み込みで働き、ろくに給料を貰ってなかったのに良く仕えていた。そして毎朝、私は卵や牛乳や食料を届けにメザラ家へと向かい、そこで父に渡すのだった。その時には母が用意した朝食用の弁当も手渡す。メザラ家は父に晩飯しか食事を与えなかったのだ」

 そう告げるナルゼスの言葉には、ほの暗い響きが混じっていた。

「もっとも、兄の事業が成功し出すと、生活にも余裕ができ、父に昼食用の弁当も渡す事が出来るようになった。この頃が私にとり最も幸せな時期だったと言えるかも知れない。幼い私は身分の差という物も良く知らず、メザラ家の子供達と遊んでいた。私は何も知らなかったのだ、何も・・・・・・」

 さらに、ナルゼスは続けた。

「いつしか私も成長し、それでも未だ子供だった頃、徐々にメザラ家の子供達は私に対してよそよそしくなっていた。彼らも子供ながらに身分の差という物を自覚しだしたのだ。とはいえこの時の私は愚かにも彼らに友情を感じていたのだ」

 そして、ナルゼスは深い溜息を吐いた。

「だが、この儚い幸せは泡のように弾けた。兄の成功に嫉妬した誰かが、蛮族に告げたのだ。《あの男はカノン解放軍と通じているぞ》と。この頃、首都カノンではカノン解放軍を称する連中があちこちで破壊活動をしていたのだ。そして、これを真に受けた蛮族は兄を引き立て、裁判も無しに処刑した。それからが地獄だった」

 思わずナルゼスは血が滲む程に拳を握っていた。

「ちょうど兄は事業を拡大しようと投資をしたばかりで、借金ばかりが残ってしまい、しかも蛮族達は《犯罪の証拠を集める》と言い、わずかな財産も奪っていった。こうして困窮が始まり、父はメザラ家に許可をとり、夜中にも仕事を始めた。母も体が弱いのに徹夜で手仕事をしていた。私も二つの料理屋で休みも無く働いた。給料は低かったが、野菜の余りなどを貰えたので、何とか食いつなげた。だが・・・・・・最初に倒れたのは父だった。そして、看病疲れもたたり、糸が切れたように母が・・・・・・。二人は同じ夜に亡くなった。父が倒れてから一週間も経たぬ話だ。

今にして思えば、二人は死を望んでいたのかも知れない。少なくとも、働けない体のまま私に迷惑を掛けてはならないと思っていたようだった。私は一人になった」

 部屋には重苦しい沈黙が流れた。

「だが、生きている限りやらねばならない事がある。生前に母が懇意にしていたアトラの神官に頼みこみ、ほとんどタダに近い額で二人を弔って貰った。その神官は今や亡くなっているが、感謝してもしきれない。そして一族の墓地に両親の骨を埋め、私は首都を去る決意をした。兄の遺体は火刑の後、川に流され一族の墓に入れられなかったのが唯一にして深い心の残りだったが仕方が無かった。この時、私はラスティーナの親戚を頼ろうと思ったのだ。ここ数年、親戚とは連絡が取れていないが、兄と両親の死を報告せねばならなかったし、申しわけ無いが彼らに助けて貰おうと考えた。だが先立つ物が無かった」

 この話にヴァル=グレイブは無言ではあったが確かに深く聞き入っていた。そして、それを分かってナルゼスは続けた。

「病で両親を亡くした私は穢(けが)れていると見なされ、二つの料理屋を首になった。しかも、兄は反逆者の汚名を着せられており、私を雇おうとするものはいなかった。なので、ラスティーナの町に行くだけの金が無かったのだ。そこで私はメザラ家を頼った。少しで良いから金を恵んで欲しいと乞食のように乞い願った。メザラ家の人々は私をゴミでも見るような目で見て、金は貸せないと冷酷に告げた。しかし、父の今までの献身を語り、私はどうか哀れみ施して欲しいと言った。だが、結果は駄目だった。すると、彼らは雑炊を出して来たのだ」

 その時、ナルゼスは怒りで肩をふるわせた。

「私は諦め、食事だけでも頂いて帰ろうと思い、雑炊の入った器を手にしようとした。この数日、私はろくに物を食べて無く、それが粗末な雑炊であろうと豪華な食事に見えたのだ。だが、手が器に触れるや否やの所で、メザラ家の長男に・・・・・・かつて親しく遊んだ彼に、雑炊を取られた。そして、奴は告げた。《この庶民がッ、下層階級の豚がッ!客人に雑炊だけを出すというのは『帰れ』という意味なのだ。それを本当に食事を貰えたと思うなど、猿並にしか物を知らぬのか?》確かに私はその知識を知らなかった。それでも空腹の絶頂であった私は惨めにも、彼が取り上げた雑炊に手を伸ばそうとした。しかし、その雑炊は床に捨てられ、それにありつこうとした私は奴に蹴られた。他のメザラ家の者も私を蹴り、女性達は嘲笑って見ていた。そして、私は逃げ帰るしか無かったのだ。逃げ去る私の背中には清めの塩が投げつけられた。誰も居ない私の家、いや、その時には借金取りに奪われた家・・・・・・その前で私は手についていたわずかな雑炊を舐めたのだ。私は思った。いつかこの礼をせねばならぬと」

 この時、ヴァル=グレイブは何の魔導も持たぬはずのナルゼスに対し、空恐ろしいものを感じていた。

「それから私はラスティーナの親戚に無事、会うことが出来た。旅費をどうしたって?あぁ、モノ好きな行商人に体を売り、連れてって貰ったよ。当時の私は可愛かったからね。そして、私は同情したラスティーナの親戚にお金をタダで貰い、その金を手に東カノンへと向かった。西に私の場所は無いと悟ったのだ。ラスティーナの親戚にこれ以上、迷惑を掛けるわけにも行かなかったしね。まぁ、後はヴァル=グレイブ。君も知っての通りだ。大した出世だろう?今や私は西カノンを制圧し、首都カノンに総督として居座っている。しかも、皇帝陛下は私に皇帝代理の権限も下さるそうだ。すなわち皇帝の代理として西カノンを正しく納めよと。陛下は西カノンより得られる税金と交易に期待しておられるのだ」

 すると、初めてヴァル=グレイブが口を開いた。

『おめでとう、我が雇い主にして上官にして友よ。素直に私も嬉しいよ』

「ありがとう、我が友よ」

『しかしだね、友よ。めでたい話の後にこんな事を言うのも何だが、復讐はしなくていいのかね?蛮族に復讐は果たした。まぁ、果たし足りないかも知れないが。とはいえ、私の知る限り、メザラ家を処刑したという話は聞いていないのだよ。君は復讐を忘れてしまったのかね?』

 これにナルゼスは破顔した。

「いやいや、とんでもない。とんでもないよ、友よ。今聞かせた通り、私はいつだってあの苦しみを胸に抱いて生きてきた。毎年必ず父と母の亡くなった日には雑炊を食べる事にしていてね。さて、それにヴァル=グレイブ。島国アルカンドではこう言うでは無いか。《復讐という料理は冷めた頃が最もうまい》と」

 その言葉を聞き、ヴァル=グレイブは珍しく深く頷いた。

 すると、部屋の反対側から呻き声がした。執務室はナルゼスの座る机に光が当たるように採光されており、その逆側は薄暗く、呻き声がするのはそこからだった。

「あぁ、紹介しよう、ヴァル=グレイブ。そこに居る彼こそはメザラ家の現当主にして、かつて私と楽しく遊んでくれたコニウス・メザラだ」

 そこには立てつけられた板に縛り付けられた男が力無く立っていた。彼は何日も食事が与えられていないのか痩せこけており、猿ぐつわをされて何もしゃべれない状態だった。

 しかし、あまりの恐怖に無い力を振り絞り、体をガタガタ震わせていた。

 そんな彼にナルゼスは優しく話かけた。

「なんだい、もしかして怯えているのかい?安心してくれ給え、私と君の仲だろう?なぁ?」

 と、ナルゼスは柔和に微笑むも、逆にコニウスは恐怖に引きつられた。

「いや、しかし君も災難だね、コニウス。首都カノンの包囲戦で家族の大半を失ったそうじゃないか。男で残ったのは君だけ。女で残ったのは君の母と妹だけ。大家族だったのにねぇ、可哀相に。いや、でも私は実は心配だったんだよ。君達家族が包囲の西から逃げてしまうんじゃないかって。さしもの私でもアルカンドに逃げられてしまったら君に会えないからねぇ」

 そうしみじみとナルゼスは言い、続けた。

「でも、流石はカノン貴族。君の使用人から話を聞いたんだけど、何と首都カノンから全く離れようとしなかったそうじゃないか。いや、偉い、偉い。西カノン人の鏡だよ、君達は」

 そして、ナルゼスはわざとらしく笑うのだった。

「とはいえ、君の奥さんや息子夫婦に関してはお悔やみ申すよ。私は彼らに会った事が無いからね。可哀相に。包囲が始まる前に逃げれば助かっただろうに」

 すると、ナルゼスはポンと手を叩いた。

「あぁ、そうだ。君のお母さんと妹に会ったんだ。いや、二人とも痩せてはいたけど、歳に比べて若く見えたね。良いもの食べてたんだろうねぇ。そしたらねぇ、彼女らを見たトゥランの外国人傭兵部隊の隊長がね、モノ好きな事に二人を欲しいと言ったんだよ。私もびっくりしてね。妹さんも三十も後半だろうし、君のお母さんに至っては君を若くに産んだそうだけど、歳なわけだ。いくら若く見えるとはいえね。でも、それでも構わないそうなんだよ、トゥランの隊長さんは。それで彼と数十名の部下に、君のお母さんと妹をあげたんだよ。いや、凄かったね。彼らは穴さえあれば良いんだろうね。あぁ、でも安心してくれ給えよ。私は無理矢理というのが大嫌いでね。あくまでそういった行為は互いの同意が無くてはならないと思ってる。そこで、このヴァル=グレイブ、彼は魔導士なのだけど、彼に興奮させる薬を貰って、君のお母さんと妹に与えたんだ。するとどうだい。あんなに嫌がっていた彼女らが、泣きながら腰を振っていたんだ。いやぁ、彼女らにも隊長達にも喜んで貰えて、私はとても満足なんだ。ただね、どういったわけか、君のお母さんと妹は行為が終わった夜に首をくくって自ら死んでしまったよ。あんなに楽しんで居たのに。世の中は不思議なものだね。プライドさえ無ければ長生きできたのにねぇ」

 これを聞き、コニウスは怒りで暴れた。

「なんてね。冗談だよ、冗談。いくら私が宦官でも、女性に対しそんな事するわけ無いだろう?いや、本当の所を言おう。それは計画してたんだ。まぁ、実行するか悩んでたんだよ。私にも良心があるからね。正直、私の心は計画を中止する方に傾いていた。でも、それで二人を牢に閉じ込めていたら、なんと彼女らは勝手に自殺してしまったんだ。誓って言うが、私はそれなりに広い牢に入れたし、食事も悪く無い物を出した。暑すぎず寒すぎず、ジメジメもしてない。ベッドだって備え付けられていたし、貴族用の牢なんだよ。看守だって心穏やかな者を選んだんだ。でも、彼女らは籠に入れられた小鳥にように死んでしまった。申しわけ無い。まさか、ナイフを牢の中に持ち込んでいたなんてね。牢に入れる時にきちんと検査させておけば良かったよ、本当に。・・・・・・本当に」

 とナルゼスは、涙を見せるコニウスに対し、白々しく言った、

「ただ、勘違いしないで欲しいのは、私は君の母と妹を理由も無く牢に入れたわけじゃないという事だ。彼女らには、人を不当に陥れた罪の疑いがあった。それは私の兄でね。兄はカノン解放軍という組織に関与していたと誰かに嘘をつかれ、それを真に受けたキルメア人に捕まって処刑された。私は常々、この嘘をついたのが誰か考えて居た。そして、私がカノンに戻って来てから調べた所、なんと、なんとだよ、君の母と妹が何十年も前にキルメア人の兵士に告げ口をしたという話が出たんだよ。いや、告げ口よりたちが悪い。それは根も葉もない噂であり、私の兄は一家を支える事以外に気が回らない人だったのだから。しかし、君の母と当時は小さかった君の妹は、キルメア人に嘘を告げたのだ。何たる虚偽か。これが許されるのか?大方、成功していく兄を妬んだろうね、君の母は。そして、君の小さい妹を使って証言させたのだ。」

 さらにナルゼスは続けた。

「そうすれば単純なキルメア人は女が、しかも片方は少女だ、嘘をつくなんて発想に無かったのだろう、君の母や妹の言葉を信じて、私の兄を処刑した。ただね、君の妹は小さく・・・・・・とは言っても14で成人はしていたが、罪は無いんじゃないかと、私も少し思った。でも、どうにも君の雇った新たな侍女の話によると、君の妹を含め、君の一家は私の兄をはめた事を非常な喜びとしており、事あるごとに話の種、酒の肴にして楽しんで居たそうじゃないか。自分のしでかした罪を悔いるどころか、むしろ正義と考えて居たみたいだ。反省の色が全く無い。そんな容疑者二人を牢に入れる事は悪なのだろうか?いや、それは本来あるべき姿なのだ」

 興奮のあまりナルゼスは息をつく間も無く一気にまくしたてた。

 これにはコニウスの涙も止まり、自身の命への恐怖の方が勝った。

「さて、コニウス。君も十分に苦しんだだろう。私も苦しんだ。互いに家族を失い、一人ぼっちだ。そこでだね、仲直りをしようと今日、君を招いたんだ。ヴァル=グレイブ。戒めを解いてやってくれ」

 ナルゼスの言葉に、ヴァル=グレイブは指を鳴らす真似をした。すると、独りでに戒めは解け、弱ったコニウスは床に倒れこんだ。コニウスは水分が足りないのか、乾いた咳を繰り返した。

「そして、君のために用意した物があるんだ」

 と言い、ナルゼスは机に置いた木箱から、雑炊を取り出した。

「これは私のお手製でね。あの日の味を忠実に再現したものなんだよ。ただあの日、指についた分しか食べれなかったからね、本当に再現できているかは分からないけど。あぁ、安心して良い。これには毒は入ってないよ」

 そう言い、ナルゼスは木のスプーンで一口をすくい、ゆっくり噛みしめ呑み込んだ。

「ほらね。平気だ。さぁ、お食べ。私は君達と違って嫌味な事はしないよ。あげると言ったら本当にあげるんだ。それに改めて誓って言うが、これには毒は入ってないよ。神々に誓ったっていい」

 この言葉を聞き、あまりの空腹もあり、コニウスはよろよろと雑炊へと近づいていった。

 だが、コニウスの手が雑炊の器に触れる瞬間、ナルゼスは取り上げ、床に落としてしまった。

「おっと、手が滑ってしまった」

 しかし、コニウスの我慢は限界だった。

 床に零れた雑炊を必死に舌で舐めとり、犬猫のように食していた。

 この様をナルゼスとヴァル=グレイブは冷ややかに見ていた。

 すると、思い出したかのようにナルゼスは友に尋ねた。

「そうだ、ヴァル=グレイブ。君に調合して貰った毒は、どれくらいで効き目が出るんだい?」

 このナルゼスの言葉を聞き、コニウスは恐怖で青ざめ顔を引きつらせ喉に手を突っ込み吐き出そうとした。

『それは今だ』

 ヴァル=グレイブの残酷な宣言と共に、コニウスは鮮血のみを口から吐くのだった。

 床に痙攣しながら倒れるコニウスに対し、ナルゼスは冷たく告げた。

「言っておくが私は嘘はついてないぞ。雑炊には毒は入れてない。ただし雑炊をこぼした床には毒を仕込んでおいたがね」

 しかし、その言葉の端は痙攣すら失ったコニウスには届いていなかった。

『それで、どうだ我が友よ。冷たい復讐を味わい』

 と、ヴァル=グレイブは尋ねた。

「そうだね。思ったよりもあっけなく、でも・・・・・・初夜を迎えた後のように、ドキドキする。思わず笑みを浮かべてしまいそうだ。終わったのに胸の高まりが止まらない。昨日は寝付けなかったが、今夜は程よい高揚の中、安らかに眠れそうだ」

『それは何よりだ』

 この友の言葉に、ナルゼスは満足そうに頷き、コニウスの死体の前へ歩いて行った。

「でも、コニウス。私の兄さんをはめるように計画したのは、お前なんだろう?お前が自分の母や妹に頼んでやって貰ったんだろう?お前は私の兄さんが嫌いだったからな。それを証言したのは一人の侍女だけで、確証が持てなかったが、お前の何かを隠している表情を見て確信したよ。なぁ、お前がやったんだろう。そうだと言えよ、なぁコニウス」

 だが死人に口なし。コニウスは何も答えない。

『それで、ナルゼス。この死体をどうする?焼いて灰にするもよし、磔(はりつけ)にするもよし。お前の好きにするといい』

「そうだな。実は私には疑問があってね。君の作った毒は完全に無臭なようだが、この毒を喰らった死体を鳥や犬は食べるのかどうかという事だよ。それで彼を使って実験してみようと思う。彼を広場にさらしておいてくれ。犬も食べれるように腰を掛けた形でね」

『了解した、我が友よ。その結果には私も興味がある』

 そうして残酷な実験が成される事になる。死体を辱めるなど、首都の民衆は眉をひそめたが、誰も何も言わなかった。

 さて、結果から言うと犬や鳥は何も知らずに、コニウスの遺体を噛み、ついばんだ。

 しかし、その毒はそれらの動物にも回り、それらの動物は少し離れた所で死んでいった。

 そして飢えた乞食などは、その鳥や犬の死体を何も知らずに喰らい、また死んでいった。

 ヴァル=グレイブの用意した毒はあまりに強力であり、今回の事件は彼の暗き名声を高める事となった。

 首都カノンの人々は以来、飢えていても転がっている動物の死骸は喰らわないようになった。

 彼らは戒めて言うのだ。《毒は連鎖する》と。


 その夜、ナルゼスは護衛も連れずに一族の墓地へと訪れていた。いや、正確には墓地の外れにヴァル=グレイブが待機して細心の注意を払っていたが、それでも彼とも数十mは離れて居た。

 今、ナルゼスは妙な感慨にふけっていた。

「父さん、母さん。それにここには居ない兄さんも。私は成し遂げたよ。みんなの仇を私はとったよ。でも正直、これで正しかったか分からないんだ。何かを間違ってしまっている気もする。それでも・・・・・・ここまで来たんだよ、私は。褒めてくれるよね?」

 そう言いナルゼスは墓石に手を触れるのだった。墓石にはナルゼスの涙が零れ、彼のすすり泣きの声が響いた。

 この声を遠く聞いていたヴァル=グレイブは、銀に輝く満月を仰ぎ見る事しか出来なかった。



 島国アルカンドには、ようやくレクすなわちヘレクトル王子の死が王宮に伝えられた。

 これを受け、緊急に会議が開かれ、現アルカンド王でありレクの兄でもあるヘレモスは諸公に意見を聞いた。

「諸君らも聞いての通り、我が兄ヘレクトルが蛮族の長シュレイジオに敗れ殺された。そして、シュレイジオはあつかましくも遺体の引き渡しの対価を要求している。さすが盗賊王の末裔を自称する男だ。だが、私としては兄の遺体などに、金貨一枚も払う気も無い。どうか?」

 すると、大臣の一人がおずおずと手を挙げた。

「ですが国王陛下。ヘレクトル殿下は仮にも王族。その遺体をないがしろにするのは、いかがなものでしょう。もちろん、近年の我が国の財政難は承知の上です。ですが、それを踏まえても蛮族シュレイジオと交渉する余地はあるかと存じます」

 これにヘレモスは顔をしかめた。

「しかしだ。もし仮に兄の遺体を受け取れば、それこそ盛大な葬儀を執り行わなければならない。私としては国民に兄の存在を一刻も早く忘れさせたいのだ。我が政権を盤石にする為にも。特に南部においては、未だに兄が王位継承者であると主張する輩が居る。そして、噂では我が兄には子供が居るという話では無いか。もし、その子が男子ならば面倒な事になる。南部の人間はそいつを担ぎ上げるかも知れぬ」

「ですが、陛下。たとえば葬儀の費用を南部の貴族に負担させればよいのでは無いでしょうか?そうすれば、南部の貴族も満足するでしょうし、彼らの資金は減って発言権も落ちます。葬儀が必ずしも陛下に害するとは思えません」

 しかし、ヘレモスは聞き入れなかった。彼は机を威圧的に叩き告げた。

「ともかくだ。蛮族と交渉はせぬし、遺体を引き取る気も無い。以上だ」

 この横暴には諸公も眉をひそめた。とはいえ、諸公はあえて何も言わずにいた。世の中には理屈の通じぬ人間も居る。その手の人間は感情的になっており、その激情は得てして反抗的な人間にも向かいうるのだ。

 ただ諸公としても、最初から決めているのなら意見など聞かずに単に命令すればよいのに、という思いもあった。特に海運国家として合議を尊ぶ国柄としては。

しかし、時に人間とは公正に意見を聞くふりをして、自分に賛同する意見を集めたいだけなのだ。それを諸公も十二分に承知していたが、それでも不満は残った。

 この時、会議室の外が慌ただしくなった。

「ん?」

 思わず扉の方を向くヘレモスであったが、開かれた扉より現れた人物は彼が予想だにしない者だった。

「ち、父上?」

 ポカンと口を開け、ヘレモスはそう呼ぶのだった。

 ヘレモスやヘレクトルの父である先王ヴェレアスは、落馬で頭を強く打ってより意識が朦朧(もうろう)としており、まともに言葉をしゃべれず意思の疎通もほぼ不可能だったのだ。

 それが明確に自らの意志で歩き、その瞳には強い自我の炎が灯っていた。

 これを証明するよう先王ヴェレアスは告げた。

「お前達は何だ?何故、生きている。我が最愛の息子が死んだのだ。玉座の傍らに備わる対(つい)の宝剣の水晶は輝きを失った。私はこの目で見てきたのだ」

「ち、父上。よくぞお目覚めで。嬉しく思います。私です、ヘレモスです貴方の大切な息子のヘレモスです」

 ヘレモスは駆け寄り父を抱擁しようとするも、ヴェレアスはその手をはねのけた。

「黙れ・・・・・・。聞いた、聞いたのだ、私は。お前は兄を死地へと追いやり、そして殺したのだ、この愚かな息子め。死ぬのがお前ならば良かったものを。悪が栄えるとはこの事か。兄を国より追いやり、勝手に王位につき、我が物顔で振る舞っている。次に殺すのは私か?私が王に復位するのが怖いのか?」

「おお、何て事を言うのです、父上。父上が望まれるのであれば、今すぐにでもこの王冠をお渡しいたします。お返しします。女神モルガナに誓って」

「誓うだけなら猿にでも出来る。そうやって油断させて、後で毒殺でもする気か?だが、そんな事など、もはやどうでもよい。王位など貴様にいくらでもくれてやる。・・・・・・あぁ、可愛いヘレクトル。強く逞しく魔導と騎士の技に長けたお前だからこそ、お前の望む旅に送り出したのに。なんと可哀相な事か。あぁ、父より先立つとは何と親不孝な事か。思えば、お前の母もそうだった。私を置いて、すぐに亡くなってしまった。ヘレクトルよ、髪麗しい母には会えたか?もし、そうならば、せめてそれが救いだ」

 この先王の様に、諸公は直視する事が出来ず、袖を目にあてるのだった。

 年老いた先王ヴェレアスはさめざめと泣き出していたが、唐突に胸元を掻きむしった。

「お前達に分かるか、この胸の苦しみをッ!私の胸は・・・・・・裂けてしまいそうだ」

 と叫び、ヴェレアスは自らの上着を左右に引きちぎろうとするも、力が足りず、わずかに裂けただけだった。そして、何度も何度も引きちぎろうとするも、悲しいかな、寝たきりに近い生活をしていた彼に服を破くだけの力は無かった。

それは何も知らぬ者から見れば滑稽に感じられたかも知れないが、時に悲劇とは喜劇であり、喜劇もまた悲劇に転じうるのだ。

 今、先王ヴェレアスはよろよろと、会議室の外にあるバルコニーへと出て行った。

「父上ッ!」

 現国王ヘレモスはそれを追い、その後を顧問官などが急いで付き従った。

 ヴェレアスは雲一つ無い空を、穏やかな波間の海をせん望し、狂ったように叫んだ。

「おお、海よ空よ。お前達はどうしてそう澄み渡っているのか?私の息子が死んだのだ。それなのに、どうして悲しんでくれない。どうして、荒れ狂い、雷鳴を轟かせ、暗闇で覆い尽くしてくれないのか?悲しみが足りぬのか?それとも何も知らぬのか?どちらにせよ、我が悲しみを直に受けるが良い!愛しき我が子、我が妻よ、今行くぞッ!」

 そして、ヴェレアスは渾身の力を込めて、バルコニーから眼下の海へと飛び立った。

 下は垂直に切り立った崖となっており、先王ヴェレアスの体は真っ直ぐに海面へと吸い込まれていった。

「ヒィィィイッ!」

 との大臣達の悲鳴が響いた。これを聞き、何事かと他の諸公も狭いバルコニーに押し寄せた。

「先王ヴェレアス陛下が海に身を投ぜられたッ!」

「い、急いでお助けせねば」

 半狂乱に人々は叫んだが、それを国王ヘレモスが制した。

「良いッ!・・・・・・良いのだ。我が父ヴェレアスは十分に苦しみを受けた。これ以上の苦しみをどうして負わせる必要がある?それは拷問だ、針のむしろを登らせるものだ。それは救いと呼べるのか?否ッ!・・・・・・故に、これで良いのだ。このまま海の底の王宮に眠らせて差し上げるのだ。私は間違って居るか?我が父への処遇として、これは間違って居るか?」

 国王ヘレモスの剣幕に、諸公は押し黙った。段々と彼らは国王の狂気に気づきだしたのだ。

 そんな中、ヘレモスは唐突に高笑いを発しだした。しかし、その目からは本人も気付いて居なかったであろうが、血の如き涙が零れていた。

「父上よ。あなたは兄や忌まわしき妾のもとへと向かおうとなさったのでしょう。ですが残念ながらそれは無理でしょう。兄やあなたの妾の死と、あなたの死は別なのです。彼らは生を全うしたが、あなたは自ら死を選んだ。逝くべき所が違うのです。父よ。あなたが逝くところは、我が母の逝きし所、あなたの愛を感ぜず絶望の中、自ら首をくくって死した我が母が赴きし場所なのです。ハハハッハッ!何たる皮肉か。最も望まぬ場所へ自ら向かってしまうとは。愚か、何と愚かな事か。だが、父よ、そんなあなたでも私は愛しておったのです」

 さらにヘレモスは心の内を叫び続けた。

「私はあなたに愛されたかった。それは私の母も同じだった。ですが、あなたが愛した妾や、その非嫡出子に敵うわけが無かった。妾や妾の子の美しさに敵うはずが無かった。そして、私や母が、自らが愛されていない悲しみを、苦しみを表に出す度に、父よ、あなたは私達親子を疎んじたのだ。さらに、早くに亡くなったあなたの妾は、あなたの中で神格化されてしまい、決して損なわれる事が無かった。その妾の子、我が腹違いの兄もまた王宮にほとんど住まうことも無く、古代魔導騎士の技を学びに遠くに出かけ、父上とほとんど会うことは無かった。故に、父よ、あなたは我が腹違いの兄の嫌な面、悪しき面を見ることは無かったのだ。それに比べ、父よ、あなたは私と毎日嫌でも顔を突き合わせねばならず、私の欠点を重重承知であり、故に私を毛嫌いした。悲しいかな、苦しいかな。それでも私は生きねばならぬのだ。それこそが我が母の望みであるから。その母は苦しみに耐えかね、死を選んだというのに。それでも私は母の願いを叶え続け、アルカンドの王として君臨し続けるのだ」

 そして、国王ヘレモスはきびすを返し、バルコニーと会議室を後にするのだった。


 会議室を足早に去った国王ヘレモスは、妻のアドラメーチェのもとへと向かって居た。

「うぅ、苦しい。胸が張り裂けそうだ。この痛みを和らげねばならない。アドラメーチェ・・・・・・、美しき我が妻よ。お前に会えば、この苦しみも和らぐに違いない。そして、胸もすく。にっくき我が兄ヘレクトル、あやつの婚約者を私は奪ってやったのだ、あやつが就くはずだった王位と共に!だが、あやつは文句一つ言わずに、それらをあっさりと捨て、いや、命すら捨て・・・・・・惜しむことは無かったのか?」

 国王ヘレモスは認めたくなかった。だが、ふと思ってしまう。

《そうならば、それは英雄ではないか・・・・・・》

 ヘレモスにとり自らの命とは最上であり、決して損なわれてはならないものであり、何よりも保護されるべきものであった。だから、彼は王宮に引き籠もり指示だけする東カノン皇帝の気持ちも良く分かったし、彼を賢明だと思っていた。

 しかし、一方で命を惜しまぬものに対する畏怖もあった。

 幼い頃より、ヘレモスは父に古き至言を聞かされた。

《己(おの)が死を恐れぬ者よ、汝は運命の王なのだ》と。

 その言葉が父の声となり、ヘレモスの脳裏に鳴り響いた。

 これを言ったカノンの哲学者は悪逆なる皇帝に命じられ、自害した。

 妙な符合の一致、自ら飛び降りし父と、王なる自分。

 いや、とヘレモスは思う。自害は自害でも父のは自殺だ。自ら望んでやった事だ、私は関係無い・・・・・・関係無いはずだ、と。

「あぁ、あぁ、どうしてこうも心がざわつく。私は勝者のはずなのに、どうして誰よりも敗者を感じねばならぬ。父などもはやどうでも良い。私は私だ。ただ、私なのだ。あぁ、アドラメーチェ、我が最愛の妻よ。私にはお前しか残って居ないのだ。お前しか・・・・・・」

 そして、階段を駆け上がっていくと、偶然にも王妃アドラメーチェがその階上より姿を現わした。

「あなた、ヘレクトル義兄様がお亡くりになったと聞いたのですが」

「ああ、我が妻よ。もう、それはいいのだ。もう全ては済んだのだ。それよりもお前に慈悲があるのなら、どうか私を慰めておく・・・・・・れ?」

 今、階段の途中でヘレモスは恐怖に体を震わせていた。

「あなた?」

 並々ならぬ様子の夫に、アドラメーチェは心配し、近寄ろうとした。

「来るなッ!ヒィッ!ヘレクトル、お前、お前なのかッ!?死んだハズだ。亡霊になってまで私を苛(さいな)ませるのか?!」

 ヘレモスの両目は焦点を失っていた。今、ヘレモスの目には最愛の妻であるアドラメーチェが、死したヘレクトルに重なって見えたのだ。アドラメーチェとヘレクトルは従兄弟同士であり、その顔も似ていたのだが、通常ならばその顔を見間違えるはずも無かった。

 だが、心を病んでいたヘレモスは、二人の顔の違いも分からなくなってきたのだ。

「あなたッ!」

「ああああぁぁぁっぁッッッ!」

 手を差し伸べてきたアドラメーチェに対し、逃れようとしたヘレモスは階段から無惨に転げ落ちていった。そして、アドラメーチェの悲鳴が響き渡る。

 落下の恐怖の中、ヘレモスに父の言葉が緩やかに木霊した。

《己が死を恐れし者よ、汝は運命の奴隷である》

 そして、彼は激突し、それでも生にしがみついたのだ。


 炎の如き赤髪を有する蛮族の盗賊王シュレイジオは返答を待っていた。

 しかし、望んだ答えはいつまでも来なかった。

 彼の副将は告げた。

「アルカンドの奴らはヘレクトルの遺体などどうでも良いようですね。どうします?たとえば、遺体を車にくくりつけて、市中を引きずり回させるなど、いくらでも辱めの方法はありますが」

 それに対し、シュレイジオの答えは意外なものだった。

「丁重に弔ってやれ」

「は?」

「うるせぇッ!二度は言わねぇ。ヘレクトルを最大級の葬儀で、あの世に送ってやるんだ。燃やした後の遺骨は、立派な塚を作り、この土地に埋めておけ。いいな!」

 これに副将はフッと笑い、了承するのだった。

 そして、シュレイジオは誰にともなく呟いた。

「羨ましいぜ、ヘレクトル。その敵ながら見事な死に様と共に、お前は歴史に善人として名を残しやがった。対して、俺は大悪党として名を残すだろう。あぁ、勘違いをするな。だから、お前を弔ってやろうっていうんじゃねーんだぜ。俺が何をしようが、俺の悪名はすすがれない。むしろ、何かをすればする程に、民草は俺を怪しみ恨むだろうさ。ヘレクトルよ、単に俺はお前が嫌がる事をしたいのさ。お前も俺などに弔われたくねーだろう。クックック、だが駄目だ。お前に選択権は無いんだ。なぁ、ヘレクトル」

 そう寂しげに告げるのだった。


 こうしてシュレイジオの手で、皮肉にもヘレクトルの葬儀は盛大に執り行われた。

 もっとも葬儀を実際に準備したのは市中の人々であり、彼らは高く積まれた薪の上にヘレクトルの遺体を置き、そして夕闇に火を点した。これをシュレイジオはどういうわけか、ジッと見つめ続けていた。

 人々は清めの為にThyme(タイム)の枝葉を火に投じ、聖なる場を荘厳させた。

 黄昏の女神が地平の下へと姿を消す中、薔薇色の炎が遺体を焼き浄める。

 その葬儀の噂は市中より遠くに及び、市中だけでなく続々と遠方より参列者が訪れた。

 遠き丘の向こうにまで、松明の灯火を手にした参列者を伺うことが出来、その長き炎の列は葬儀を彩る荘厳さと化していた。

 灰は緩やかに舞い、組まれた薪はとうに崩れ、その炎も弱まるも確かにその身を示し続けた。

 これ程までに長い夜があっただろうか?

 それでも時の流れは神々ですら止められぬ。

まして人はそれを受け入れざるを得ないのだ。

 いつしか地平の彼方より暁の女神が湧出し、その代わりか薪の炎は尽きかけるのだった。

 本来ならば喜ぶべき清き朝の訪れの中、人々は再び涙に伏せった。別れの時が来たのだ。

 人々は断腸の思いで、薪の残り火に輝く果実酒を振りかけて消していく。

 そして、冷えた薪の灰の内より、偉大なる者の白い骨を拾い集めていくのだ。

 残さず集められた遺骨は、神聖なる紫の布に包まれ、さらに青銅の壷に厳かに入れられた。

 彼らとしては黄金の棺を用意したかったが、万一にでも墓を暴かれぬように、あえて青銅を用いたのだ。

 すぐに深い穴が掘られ、その底に石が敷き詰められ、その上に壷が置かれる。この上に慎重に土がかぶせられていき、塚が築かれていくのだ。さらに数多の人々により、無数の花々が敷き詰められた。

 盛り上げられた奥津(おくつ)城(き)を照らすは、暁の女神のみであった。

 こうして偉大なるヘレクトルの葬儀は確かに終えられ、歴史と一つの聖地が生まれた。


 詩歌の女神フォーサの住まうとされるミリティス諸島、その海岸より少し離れた丘にある小さな家に、身重のナーシャは暮らしていた。

 夜明けの時分である今、彼女は眠っていた。

 いつもならば暁の時を、鶏たちや空行く鳥たちが告げるものだったが、この日に限り鳥獣は沈黙を保っていた。

 そんな中、ナーシャは不思議な夢を見ていた。

 夢の内にて、ナーシャは小屋の扉が叩かれるのを聞いた。

 それを聞き、彼女は急いで扉を開けた。彼女にはそれが誰なのか分かっていた。

 扉の外には確かにその人が居た。ヘレクトル、その人が。

 しかし、ナーシャにはこれが夢だと分かっていた。

 そして、夢だからこそヘレクトルは扉の内へと入って来れなかった。

 どうしようも無い隔たりが外と内にはあった。

 それでもナーシャは涙を堪え、最愛の男性(ひと)に微笑み言うのだった。

「お帰りなさい、あなた」

『ああ、ただいま』

 最愛の女性(ひと)に穏やかに微笑み返すヘレクトル、しかしその姿は幻想のように消えて行った。

 夢は覚め、ナーシャは全身が震える中、急いで起き上がった。

 彼女には頬を伝わる涙を拭う余裕すら無かった。

 お腹の赤児に配慮しながらも、彼女は早く、少しでも早く扉へと向かった。

 そして、焦りながら扉を開ける。そこには誰も居ない。本当に全ては夢だったのか?

 いや、しかし彼女は彼を感じていた。

 扉の先よりは暁の陽が水平に差し込み、彼女を照らした。

 今、彼女はその光が遙か東で眠る彼と繋がっているのを確かに感じた。

 彼女はよろめきながら扉より進み出で、両膝をつき、祈るようにその光を抱きしめるのだった。

「ずっと・・・・・・ずっと一緒なのね、あなた。この太陽と空と星が私達家族を繋げてくれている限り。ね、あなた」

 そうナーシャは微かに膨らんだお腹を優しくさすりながら、遙か遠くも近いヘレクトルの魂へと語りかけるのだった。

 ただ、宝剣のみが・・・・・・家の中、厳重にしまわれし宝剣のみが、新たな継承者の成長と覚醒を、確信と共に待ち望んでいた。







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カノン興亡記・終 キール・アーカーシャ @keel-a

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