第三章 (肆)
酔螺は目を閉じると、しばらく黙考した。
全て知っているのではないか?
心は酔螺の様子から疑念を持った。この得体の知れない女が何を謀っているのか、想像もできない。
だが、こうして思考を深く沈めた時、酔螺は真実だけを言う。例え結果がどうなるにせよ。
酔螺の閉じていた目が開かれた。
しばらくの間、心を見つめる。
そして酔螺はおもむろに口を開いた。
「功宝とは、肉体も精神も一切合財自由に変革できる技法さ」
部屋の空気が変わった。
一言一言が鋭気を帯びて、心の中に飛び込んでくる。
心は
余りにも荒唐無稽で理解できない。
「分かるかい? 動物の延長に過ぎない人と言うものを、全く別の種類に変えてしまえるのさ」
途方もない話。
途方もない予感。
「例えば宇宙に進出する。地上とは全く異なる環境で生きるには、人は人ではいられないのさ。肉体はもちろん、精神から変えなくては生存し続けられないんだよ。
自らの意思で自らを変革させられる。
自らの意思で進化の方向を決められる。
自らの意思で、好きに進化できる。
その方法を見つけてしまったのさ。モンゴルの国境近くでねぇ」
心は震えた。
もしそれが本当に存在するなら、自分の体も変えられるかも知れない。
極端に虐げられた経験はないが、何度もからかわれたりいじめられた事はある。
生きるのに不自由はない。でも恋人一人持てないのは無念過ぎる。
「進化のコントロール何てできる訳がない、非科学的すぎるっ」
進化は、種の多様性と淘汰を繰り返し培われるものだ。一固体が決められるものではない。
「そいつは教科書の受け売りかい?」
その通りだった。真実教科書が正しいのなら、それが元で争いなど起こる訳がない。
第一、その元の科学でさえ発展途上の代物だ。まだまだ未知のものは数限りなく存在する。
「神への冒涜何て言いませんが、自然の摂理から外れているんじゃあ……」
「お次は宗教かい」
〈人格を持つ神〉何てものがいるかどうかは別として〈この世界を構成させるもの〉そいつを神と呼ぶなら、と酔螺は言った。
「進化は神の意思じゃあない。
少なくとも、神何てものがいても、そんなものは持ちはしない。
神の意思と言うなら、さぞ沢山の意思があるじゃあないか、一貫性もなく。
神に意思はないよ。
進化は私らの意志さ、生命のね」
心は黙った。酔螺の言う事は突拍子もないが、否定もできない。
何より見つけたと酔螺は言う。
「遺跡には序文の様な物が書かれていてねぇ、それは何とか読めたのさ。何故か複数の言語で書かれていてねぇ。古過ぎて完全じゃあなかったけど」
そこには、呼吸法を始めとした、現在言われる功法によって体内に発生するエネルギー、それが何故存在し、それが何を意味するか、そしてそれによって何ができるのかが記されているらしい事が分かった。
「気功による体調、体質の変化は、前段階でしかないのさ、肉体の変革へのねぇ」
「そんな事できる訳が……」
「あたしらの知っている気功は元々仙術の一つさ」
酔螺は気功法の一つ、小周天の法を始めた。深く呼吸を繰り返して気を練り、体の中芯、正中線を縦に周回させる。
腹の下、丹田と呼ばれるところで呼吸によって精製した気を背骨に沿って上昇させ、頭蓋を通し体の前面に沿って下降させ、再び丹田に下ろす。これを繰り返すのだ。
これができるまでには幾つもの難関を修行によって克服しなければならないのだが、酔螺は朝のラジオ体操でもするかのように簡単にやってのけた。
同じく気功を練る事に慣れた心は、その気が酔螺の体の中で、次第に精錬されて行くのを感じた。
「体調を整えるところから始まって、体質そのものまで変えてしまう事もある。
ならもっと突き詰めれば」
「人そのものも変える!?」
心は唸った。確かに気功には未知の部分がある。やっている者にしか分からない、深く広いところに続きそうな何かが。
「まさか師匠、その技法を……」
「見つけたと言ったらどうする?」
体を変える技法、古くは仙人伝説などで語られる、それがある。おそらく遺伝子レベルで肉体を変えてしまうような。
興奮しないと言ったら嘘だ。
心の夢、いや人の夢。それが手に入るかも知れないのだ。
「師匠、功宝はどこです?」
「そいつが、ちょいと石動の奴に狙われれちまってねぇ」
酔螺は、バリバリと豪快に銀髪を掻いて嘆息した。
「預けたは良いけど手出しができなくなっちまったのさ」
「預けたって、一体どこにですか?」
「お前さんの学校だよ。印斉理事長に解読を頼んだのさ」
心は思い出した。両印学園の理事長は創設者の一族で、哲学、武術、言語学の専門家だと言う事を。
「だから心、データも功宝も学校さ」
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