モスキート・ラブ

箱庭 星

モスキート・ラブ

シュウは、臆病な蚊だ。

血を吸うのも一苦労で、生命を維持する為に必要な人間の血は、仲間の戦いの果てで、安心して吸えると証明された場所でのみ、得ている。そんなシュウを周りは嘲笑した。しかし、シュウは馬鹿にされても、覆す自信がこれっぽちもなかった。彼は臆病だから。だから、周りの目を気にすることもなく、仲間とともに動き、そして漁夫の利を得て、今日も生きている。


 シュウの属する蚊のコミュニティは基本的にツーマンセルかスリーマンセルで行動させるルールがある。メンバーは、戦闘能力、危機回避能力、俊敏性などの能力に合わせて振り分けられる。シュウは、戦闘能力は皆無だが、臆病であることが図らずも、抜群の危機回避能力を生み出していた。

 朝のミーティングで、今日の班割りが発表された。シュウは、勝ち気で切り込み隊長のカイトと、お調子者で、裏表の激しい、とシュウが内心苦手に思っているユウナと同組になった。

「やったぁ、カイト君と一緒だ!」ユウナの喜ぶ声が聞こえる。続けて、「シュウなんて役立たずの、腰巾着なんだから、私とカイト君だけで、十分、ね?」「ユウナ、お前は邪魔をするような奴じゃないと思うが、足手まといになるなよ」カイトはいつもこうだ。気障で、自信過剰。早死にする性格のくせに、動きは速いし、判断も的確。正直、こいつには勝てる気がしない。そもそも、だれにも勝てないんだけど。シュウは大きすぎる存在と比べて、また落ち込み、今日もいつも通り、ついていき、安全が確保されたら動くという、これまで生き永らえてきた処世術に従って、やり過ごそうと心に決めた。

 「定刻11時、さあ、皆、今日も生きて帰ってこられるよう、幸運を祈る」

合図により、僕らの班は出陣した。


 「今日はこの団地にしましょう」ユウナが提案する。「どうした、いい匂いがしたか」カイトは血をすいとることに関して一流の腕をもっている為、ターゲットはおいしい血の匂いを醸し出すものにしか目を向けない。

「この前の狩りで、帰り道にここを通ったの。そのとき、もう、忘れられないくらいの匂いがね。私、3回くらい振り返ったもの。ただ、もう終えてた後だったし、追えなかったから、どこに住んでるかは分からないし、ターゲットがどこのどいつかも分からないの。でもね、本当に、あれは、良い血のはず。カイト君も絶対気に入ってくれるよ。」ユウナが饒舌に語る。そこまで言うということは、ターゲットは相当良い血を持っているのか。シュウも、臆病ながらに食欲は人一倍、いや、蚊一倍あるので、ユウナの話は魅力的だった。

「そいつはいい。ターゲットはこの団地なんだな。分かれて探そう。匂いを追って、場所を突き止める。見つかり次第、合流して、狩りを始めるとしよう」カイトの仕切りにより、班の動きが決まる。シュウに異論を唱える勇気も度胸もないので、そのまま指示を飲み込む。ただ、飲み込んだだけで、シュウは探すことに関して、従う気持ちはなかった。彼は臆病だから。シュウは、カイトかユウナ、どちらかの後ろに気づかれないように追跡していくことに決めていた。これは、いつも彼がとる常套手段である。今回はユウナに決める。匂いを知っているのはユウナであること、そして、カイトは速すぎるからだ。


「よし、それじゃあ、捜索開始。散」

勢いよく飛び出すカイトとユウナ。その場に留まり3秒数え、ようやく動き出すシュウ。

ユウナは団地正面入り口に向かっている。気づかれないよう、追跡開始。

ユウナが通った道であれは、安全。処世術通りに生きるシュウは徹していた。

ここまでシュウが生への執念を見せるのは、これまでの狩りでの体験による。

シュウは幾度となく目にしてきた。仲間が無惨に殺されていく瞬間を。

人の手でひねりつぶされるところを。匂いに誘われ、急に落ちた者を。電撃を食らった者を。

仲間の死が身近にあるからこそ、シュウはそのたびに学習し、生きる糧を得た。

だからこそ、彼の危機管理能力は並外れているのだ。


ユウナは当てがあるようだった。進む道筋に迷いがない。

カイトにそれを伝えなかった意味は、おそらく自分で見つけた手柄をアピールしようという魂胆か。

自分が提案した場所だけで、もう手柄だろうに。いまカイトが探しているのはただの手間ではないのか。

シュウはついていくだけなので手間ではないし、見つかり次第、遅れて合流とふるまうだけだ。

カイトを不憫に思いながら、先を行くユウナを見ながら考える。

ユウナがそこまで言う血は、どんな人間のものなのか。今まで吸ってきた血は老若男女、多種多様のもので、おいしいものもあれば、食欲をただ満たす為だけのものもある。匂いだけで吸うことを体が拒否したこともある。仲間が絶賛する匂いというのは時たまあるが、そのどれもがはずれはない。

匂いは、当たる。匂いは、蚊の社会のなかで信頼できる情報源の一つなのだ。


ユウナの行き着く先、団地東側2階の真ん中、204号室。

ここで、ユウナが止まる。なるほど、これは期待できる。

ほのかに甘く、果実のような匂いのなかに、温かみを感じる。

いまだかつて嗅いだことのない匂いといっても過言ではない。

この血の持ち主はどうすれば、こうまでも違いを生み出せるのか。

シュウは、いつも嗅ぐ人間の血の匂いを思い返し、今までにない出会いだと身震いした。

ユウナが止まって少し遅れたことを装い、シュウも止まる。

そしてカイトも遅れて合流。「ユウナ、でかしたな。礼を言うぞ。」

すかしたように言うカイトの声は、心なしか気持ちが高ぶっているかのようだ。

これならば、自分はついていくだけで、大丈夫そうだ。シュウは安堵する。

カイトと同じ班でよかった。張り切るカイトはおそらく無敵だろう。

普段は正直嫌いな部類だが、味方でいるならば、この上なく心強い。


「さて、まずは作戦会議といこう。ご馳走にありつけそうなんだ。ここは慎重に行こう。」

「慎重といえば、シュウの得意分野じゃない。あんた、案出しなよ。」

シュウの安堵は儚くも崩れ去る。な、なぜ自分がそのようなミッションを課されるのか。

何もしなくとも、シュウはこの血を堪能できると信じ切っていた。

良いことばかり考えている時は、たいてい思いもかけない負荷がかかるものである。

シュウは教訓と捉え、前を向く。

この血を前にして、臆病であるはずの彼も、少なからず心が躍っているようである。

「じゃ、じゃあ、僕の考えを言うね。」シュウは続ける。

「入り口はおそらくこの玄関と横の窓の二つ。窓は開いていないし、玄関も今は人の出入りがないからこっちも開いてない。まずは開くのを待つしかないだろうね。下手に入ろうとしても住人がこの血の持ち主だけとは限らない。ユウナは階段を、カイトは見張ってくれるかな。僕は、ポストのなかで中から、待つよ。」

一番安全で隠れる場所に最適、しかも大義名分もついてくる役割を自らに与えた、とシュウは思った。

会心の案を捻り出したと思ったのだが、「あんたまた安全な場所を、この意気地なし」ユウナにすぐ見抜かれてしまう。「まあ、いいさ。お前はポストの暗闇がお似合いだ」カイトに憎まれ口を叩かれながら、それぞれ持ち場につく。シュウはポストの中が好きだった。蚊の対策など皆無の場所で、暖かく、持ち主の手が伸びてこようものなら、そこで血を頂戴できる。シュウにはぴったりの場所だ。


ポストのなかにはチラシが数枚落ちていた。この紙がまた温かみをくれて、シュウは好きだった。

紙であれば潰されることもない。シュウは丸まったチラシの間に身を隠し、感覚を研ぎ澄ます。

水の流れる音、しゃべり声、足音・・匂いに惑わされることなく、自らの聴力を頼りにする。

すると、こちらに向かう足音、有り。スタスタスタスタ、キュッ。フローリングと足がこすれる音がする。すぐ目の前で立ち止まったようだ。靴を履いているのか、もぞもぞ物音がする。

こんなに早くチャンスがくるなんて。カイトとユウナに合図し、シュウもポストから素早く出、玄関前に陣取り、いつでも突入できる準備を整える。

そして、「カチッ。」カギを開ける音と同時に、ひゅううう、と扉が開け放たれ、外の空気が勢いよく中に入り込む、その流れに乗り、また、扉を閉める際に起こる風圧も味方にして、一味は潜入に成功した。

「俺たち、ラッキーだな。こんなに早く入り込めるなんて。」カイトが先陣切って、進んでいく。

その刹那、カイトの顔が歪む。「だ、だめだ、これは・・」

カイトが急降下していく。何が起こったのか、シュウは少し後ろからあたりを見渡す。

すぐ入れたことに油断してしまった。シュウは悔やんだ。蚊の対策で一番手をかけられるのは入り口、玄関であることを。いつも一番慎重になる場所で、カイトは油断し、警戒を怠り、先へ進んだのだった。

まだ間に合うかもしれない、シュウとユウナは落ち行くカイトの元に駆け寄った。

おそらくカイトの意識はほぼない。あったとしても、体のコントロールがきかないだろう。

「助けるから、私がカイト君を助けるんだから」ユウナの悲痛な叫びがシュウにも聞こえた。

シュウもカイトを救いたかった。このミッションを成功させるには、カイトの勇猛果敢な切り込みが必要不可欠だった。それに、シュウは臆病である。カイトに先に逝かれてしまっては、手も足も出せない。自己保身の気持ちが強くとも救いたい気持ちに変わりはなかった。

残り数センチのところまで近づいたところでユウナとシュウの体にもいつもとは違った、体が痺れるような感覚がした。うまく前に進まない。このまま前に進めば、余計に体をおかしくさせるだけと思われた。シュウは躊躇した。このままいけば、全員が同じ運命をたどることになる。それは避けなければならない。同じ班のメンバーだからといって、運命共同体ではない。蚊の命は、人の手によって、これまでも何度も奪われていくのを見た。それは直接的にも、今回のように間接的なトラップでも。シュウはユウナを呼び止めた。「ユウナ、これ以上は行っちゃだめだ、君も同じようになる」「で、でも。このままじゃカイト君が。嫌よ、そんなの」「君が死ぬ、いいのか」「で、でも・・」ユウナの言葉がかすれ、消えていく。悟ったようである。見切りをつけなければいけないことを。

「カイト君、ごめん。ごめんね」ユウナの視線は落ち行くカイトの最期を、追っていた。

カイトの姿が見えなくなってしまった、おそらくカイトは床に落ちた。体の損傷はないだろう。人間に踏まれないことを祈るばかりだ。葬儀はできないが、人の手に挟まれてつぶれたり、ティッシュにくるまれてゴミ箱に行くよりは幾分かマシだろう。


 「ユウナ、落ち着こう。この先も油断はできないよ。カイトのことは残念だけれど、僕らはまだ生きている。生きている限り、チャンスはあるんだ」ユウナに語り掛ける。シュウはユウナを案じたわけだが、「あんた、なんでそんなに落ち着いてられるのよ。仲間が、仲間が死んだのよ。しかもカイト君が。もう、カイト君はいないのよ。そんなの、意味ないじゃない。」

ユウナは、カイトが好きだった。その思いがヒシヒシと伝わってきた。シュウが誰かに恋心を感じたことは一度もないが、すぐに察することができた。咽び泣くほど思い、慕う相手がいること、ユウナの思いをすべて理解することはシュウにはできないが推し量ることはできる。ユウナは悲しいのだと。

「分かった。ユウナ。君の気持ちをないがしろにしたことは謝る。カイトはうれしいだろうね、こんなに思ってくれる相手がいて。」シュウの言葉は寂しさと切なさが入り混じった、初めて抱いた感情を含んでいた。

今まで、シュウは臆病故に、深く関わることを避けてきた。近づきすぎると摩擦が起こり、心をすり減らす。離れすぎると誰も相手にしてくれなくなる。程よい距離感がシュウの居場所であり、そこから踏み込むことはしなかった。しかし、いまユウナを見ていて、恋という儚い現象が、自分の気持ちをぶつけることが、こんなに心を震わすことに驚いていた。

「・・ありがとう」ユウナの、掠れながらも優しい言葉がシュウに届く。ユウナはまだ気持ちを整理できていないようだったが、前は向いていた。「カイト君の分まで、生きて、そして、このミッションを果したら、届けにいく。私が、カイト君の分を。今までに味わったことのない血を」

誰にともなく宣言するユウナの目は、強く輝いていた。命を燃やすかのような、輝き。シュウはうらやましかった。こんなにきれいな瞳があるのかと。自分も、いつかこんな瞳を持ちたい、ユウナのような、命を燃やす思いを感じたい。シュウのなかにも、臆病だけではない、何かが芽生えているようであった。


廊下を慎重に通り過ぎ、半開きの扉をすり抜け、生活感あるリビングにたどり着いた。

薄いピンクのシーツがかかったベッド、小さな白いテレビ、部屋は狭いながらも綺麗に整理されており、荷物も多くない。まずい、隠れる場所が少ない。しかも、白を基調にした部屋は蚊にとって完全なるアウェイだ。

黒い物体が浮いているだけで、すぐに目立つ。茶や黒い生活雑貨があるだけで蚊の味方となり、カモフラージュしてくれるものだが。そんな心配をよそに、ユウナはこの部屋を気に入ったようだった。

この部屋の主は、つい先刻出て行ったので、ターゲットである血はまだ得られないようだが、それでもこの環境に身を置けるだけで、ユウナもシュウも舞い上がりそうであった。カイトの死は悲しいが、それ以上にこの先の未来に溢れる希望が、二人を少なからず高揚させた。


シュウはあたりを見渡し、この部屋のなかで隠れる場所を探した。黒が目立たない場所。今までの隠れ場所であれば、茶系の本棚に溶け込んだり、黒色のカーペットに紛れ込んだり、洗濯物の隙間に隠れることができるのだが、この部屋には、そのどれもが見当たらない。「どうしよう・・」シュウは頭を抱えた。

「シュウでも見つけらないなんて、この状況、もしかしてやばい?」珍しくユウナが心配する。

「この部屋では、本当にアウェイだと思ったほうがいい。移動も気を付けよう。完全に僕らの体の色は悪目立ちしかしない。」「まあ、体の色は変えられないからね」ユウナが笑う。

「もっと薄めの、それこそ、ボウフラのままでいたかったわ」「あの頃は、ユウナもこんなに気は強くなかったしね」「ちょっと、どういう意味、それ」「そのまんまの意味で受け取ってもらえば幸いです」「あんた、性格悪い」「ずっと言われてきたから、今さら言われても響かないよ」「もういい」

いま、ユウナの会話の相手は僕しかいない。向けられた言葉を対処することは心地よかった。


「とりあえず、テーブルの下は間違いない、ね。動きも自由にできるし、追ってきてもこの空間であればこっちに分がある」「うん。じゃあ私、そこ。シュウは他の捜索よろしく」「え、それはひどくない?」「レディファーストって言葉知ってる?」「知ってたとしても、ユウナには当てはまらないと思ってた」「いや、それもひどくない?」「まあ、いいや、もっといい場所見つかっても譲らないから」「ケチ」飛び交う言葉を受け流し、シュウは神経を尖らせた。いつも安全な場所を確保してきたシュウが、これまでの経験から算出した絶対安全領域は・・。あった。この部屋にある、唯一の黒。なぜ気づかなかったのか。そうだ、部屋の基調に合わせた白色であり、電源がついたままだから、逆に黒い部分に目がいかなかった。

普段切れていれば漆黒の、テレビ画面。

ついたままということは、そんなに長い外出ではないかもしれない。


人の目が向きやすいテレビは正直、自分の存在に気づかれやすい為、あまり蚊にはおすすめできないという蚊界の定説がある。しかし、シュウは好きだった。器用に、黒い部分に居座ろうとすれば気づかれることはない。臆病であればあるほど、動きも慎重になる。このシチュエーションで慎重になれる場所。

シュウは、テレビに身を隠すことを選んだ。


ガチャ。扉が開く音がする。スタスタスタ、足音がこちらに向かってくる。緊張が増した。

探し求め、ついにたどり着いた。至福の時まで、あと少し。ドクッドク。唾を飲み込むシュウ。

ベッドまで歩き、丁寧にしゃがみ、扇風機のスイッチを押す、彼女。

血の主は、若い、乙女だった。シュウは、初めて会う彼女に、妙な親近感をもった。

イメージしていた主像から、的が外れることはなく、シュウの頭のなかから具現化されたようだった。

細すぎず、太りすぎず、肩や二の腕、足は少し丸みを帯びた、小柄な女の子。

髪はパーマをかけているのか、くるくるしている。走ってきたのか、すこし汗が滴っていた。

蚊ながらにして思う。かわいい。シュウは、この女の子に見惚れていた。

危ない、気を抜くところだった。彼女に存在を知られてはいけないのだ。

蚊は、彼女ら人間にとって、忌み嫌われる存在なのだから。


彼女が現れただけで、求めてきた血が目の前にあるというだけで、シュウは幸せだった。

甘美な匂い、清楚な風貌、おしとやかさ、育ちの良さ、品。

シュウはあれこれと彼女を称賛する言葉を並べたが、一向に行動に移そうとはしなかった。

一歩が踏み出せない。ここにきて、カイトの不在を悔やむ。切り込み隊長のカイトなら、いの一番にこの状況でも突っ込んでくれるだろう。ユウナも2番手としては動きは良いほうだが、果たして突っ込むことができるのか・・。自分自身が一番に突っ込むことなど、シュウには頭の片隅にも残っていなかった。他力本願。

彼の座右の銘でもあり、生きていくうえでの処世術。しかし、このままでは状況は変わらない。

ユウナに合図を送る。「どうする?」「あんた、行くわけないよね・・?」「うん」

「でも、はやく味わいたくない?」「うん」

「じゃあ、勝負して、どっちがいくか決めましょ?」「なにするのさ」

「んー、なんか思いつく?」「考えなし、ですか」シュウは呆れる。

「だってそうでもしないと決まらないでしょう?」「まあ、そうだけどね」

「じゃあ、天井までどっちが先につくか、スピード対決、というのはいかがですか」シュウの提案に、

「いいね、それ、面白そう。」面白がってどうすんだよ。内心突っ込みを入れながら、すんなり通った提案に安堵する。ユウナには言っていないが、シュウは、天井のぼりが得意だった。重力に逆らって上ることは、蚊にとってなかなか大変な所業なのだが、シュウは逃げる為の手段として、人の手が届きにくい天井のぼりを得意としていた。そんなことをユウナが知る由もなく、彼女の目をかいくぐって合流し、いざ、勝負の時。

「ヨーイ、ドン」ユウナの合図とともにスタートする。

最初は、ユウナが意気揚々と駆け上る。シュウはそのあとをマイペースに進んでいく。

1メートルはお互い余裕しゃくしゃくと上がり、辛くなってくる2メートル手前。

ユウナのペースが極端に落ちる。ユウナを横目に、シュウはすいすいのぼる。

「ちょ、ちょっとあんた・・な、なんで、そんな、余裕なの、よ。」息を切れ切れに、ユウナが叫ぶ。

「ごめん、ユウナ、言ってなかったけど、僕、これ得意」にやにや笑いが止まらないシュウは勝ち誇ったまま、進む。この言葉を聞いたユウナは、完璧にキレた。どこにそんな体力が残っていたのか、ユウナはものすごい形相で、シュウを猛追する。「あ、ありえない。」シュウはユウナを見、前を向き、いや再度振り返り、ユウナを、二度見した。自分がとんでもない失言を発してしてしまったことに今更ながら悔やんだ。さっきまであった余裕はもうない。シュウも切り替え、前だけを見て進む。しかし、キレたユウナは手が付けれないほどだった。そのまま、シュウに突っ込んでいくのではないか、という勢いで、ユウナの飛行は続く。残り、数センチ。シュウの逃げ切りか、ユウナの差し切りか。さながら、競馬のような、シュウの失言がそうさせてしまったのだが、白熱した戦いになってしまった。

「よっしゃーーーーー。見たか、シュウ。この私を、舐めるな!!」ユウナが勝鬨をあげる。

負けてしまった、相手を侮った、そして、気を緩めた。シュウが自分で招いた敗北だった。

「はい勝ちー。私の勝ちー。シュウ、行ってこーい。」ユウナの高笑いが響く。

負けたこともショックだが、これから、自分が飛び込まなければいけない状況を考えると、さらにげんなりした気分にさせた。血は楽しみなのだが、まさか、自分が一番手とは。完全なる想定外。

何が起こるかわからない世の中だとは常日ごろから思うところだが、それでも、のらりくらりとやり過ごしてきたシュウから見れば、この逃げられない状況は受け入れがたいものだが、負け惜しみをいってもユウナに蔑まれるだけであり、負けを認め、立ち向かうことに心を向けることが今、シュウには求められていた。


さて、どうしたものか。トップバッターとして、彼女の血を吸いにいく権利を、手に入れることができた。願ってもいない、と切望するより最早、罰ゲーム感覚になっているのだが。安全に、確実に、このミッションを成功させるため、先ほどのような失態を犯さないよう、最悪の事態を想定しながら、慎重にいこう。そう、心に誓った。

まず、状況を鑑みる。いまの彼女はというと、部屋着に着替えたのか、ショート丈の爽やかな水色のパンツに、世界的に愛されているネズミのキャラクターが彼女の表面にグデンと居座り主張している半袖のTシャツを着て、ベッドに寝転がっている。何か読んでいるみたいで、テレビにも気を留めていない。パッと見だけでいえば、正直狙いやすい。肌が露わになって、絶好のターゲットだ。注意するとすれば、彼女に向けて、涼しさを与えている、扇風機。この機体は天敵である。風が人間に向けて飛んでいるということは、蚊にとって、近づこうとする人間を風が邪魔し、体のコントロールがきかなくなる。気を張って飛ばなかければならない。

あとは、彼女が足をむやみやたらに、バタつかせていることだ。足を狙おうものなら、上から急降下する足にひねりつぶされるかもしれない。読んでいる姿勢で肘をついた状態、狙うならば、上半身の、露わになった、二の腕。シュウはそこに狙いを定めた。今までで成功率も高い場所だった。まず第一撃はここしかない。


そこまで考えた。シュウはいつも考えることまではすぐ、思いつく。最善の手段を。

しかし、行動力がついてこない。失敗したらどうしよう、と。失敗は死と同義だ。

人間に見つかれば、叩かれる。殺意を剥き出しにして。死への恐怖が、シュウをしり込みさせている。

シュウのいるテレビの淵、その出発点はさながらバンジージャンプの飛び込み台、いまシュウはそこにいる心持ちだった。

なぜカイトは勇猛果敢に飛び込めるのだろうか。誰かに背中を押されなければ、今回は勝負に負けた罰ゲームでもなければ、シュウは飛び込んだりしない。命を粗末にできない。

そこでシュウは考える。自分はそこまでして自分の身を守っている、そのことに意味があるのか。

臆病なだけで何もせず生きてきた。仲間の死を憐れみつつ、自分の命があることにほっとしてきた。

生きながらえていることに、意味があるのか。普段考えることがなかった。

自分は何のために生きているのか。

血を得る為、食欲を満たす為、そのためだけなのか。

子を、子孫を残す為、誰かと添い遂げる為、にしては女っ気がない。ユウナを選ぶことはないだろう。

自分が何のために生まれてきたのか、シュウは分からなくなってしまった。

誰も教えてくれない、生きる意味。というより、誰も言わないだけなのか。

みんな、持っているのだろうか。蚊として生まれ、蚊として生きる道とは何なのか、その答えを。


悪い流れだった。躊躇しあと一歩がでないときに限って、違うことを考えそちらに集中し、気を紛らわそうとする。しかし、ユウナがそれを許さなかった。「は、や、く、い、け!」

背筋がぞっとした。このまま逃げていては人間に殺される前に、ユウナに殺されるかもしれない。

そのくらい、ユウナの目つきは血走り、睨み付けていた。

しばかれる前に手を打たねば。背に腹は代えられない。シュウは覚悟を決めた。

先ほどの考えは後回し。とりあえず、いまは、この状況を打破して、血を頂くことが先決だ。


シュウは、飛び込んだ。テレビの淵から離れ、彼女めがけて。

距離2メートル。10秒あればたどり着く。シュウには、その10秒かけて進む2メートルが、

生きてきたなかで1番長く感じられた。

慎重に進み、彼女の動きを見極め、注意の薄い、首の後ろまで回り込み、そこから二の腕に近づく。

二の腕の表面、彼女には見えにくい裏側に陣取り、着地する。ここまでは、計画通り。

いける、そう確信したシュウは、歯をたて、唇先を這いめぐらす。

「いただきます」そう心のなかで念じ、シュウは血を啜る。


シュウは一瞬、気を失った。ほんの一瞬。シュウはどこかにいっていた。

ハッと我に返ると、シュウの体のなかが暖かく、じんじん痺れていた。

今まで感じたことのない、ふわふわした感覚だった。

取り込んだ血が、シュウを満たす。何も言葉が出なかった。

ユウナが急かすように感想を求めてくるまで、余韻に浸っていた。

「・・シュウ・・・・・シュウ!・・シュウってば!!」

「んんん」「何眠たそうな返事してんの」

「ん・・あ、ああ。ご、ごめん」

「どうなの、はやく教えてよ」

「ユウナ、一番を譲ってくれてありがとう」

シュウは、なぜかユウナに感謝した。罰ゲームのはずが、シュウは快感を味わってしまった。

そのことが、シュウの思考を混乱の渦に迷い込ませ、先ほどの恨みつらみを変えてしまった。


「なんなのあんた。ちょっとどころじゃなく、気持ち悪いんだけど」

ユウナの皮肉が、シュウに届きこそすれど、全く怒る気持ちにはならなかった。

「ユウナ、君も、味わうといい。僕がどうこうゆうより、味わった方が早いよ」

その言葉を聞き、ユウナも身を乗り上げるように、すぐさま、彼女に向かった。

同じ場所で吸うのは、目立つ可能性が高い、ユウナは察して、別の場所を目指す。

ユウナが目をつけたのは、太腿だった。彼女の上空を攻め、腰から太腿に向かえば気づかれることもなく、たどりつけるだろう。なるほど、ユウナはかしこい、と感心する。

上半身の方が新鮮な血が手に入るが、いまは確実な方法が得策だろう。

ユウナも吸い取る姿勢をとり、「いっただきまーっす」とハイテンションに、威勢よく、すいつくというより噛り付くように歯を立てる。「んんんっま。え、なにこれ。うっま」ユウナの感想は、乙女というより、少しギャルのような、少し下品な、おしとやかさの欠片もないものだった。それを今いうのは、一度余韻を味わったシュウにはマナー違反だと感じられた為、心に閉まっておくことにした。

一度目のすいつきから間を置くことなく、2度目を味わうユウナ。

「どうだい?」「これ、ハンパないね。生きててよかったー!私、これを味わうために今日まで生きてきたと思う」「いつもならユウナに賛成するのは少し癪だと思ってたけど、今は激しく同意するよ」

「なにさらっと悪口言ってんのよ、でも、もう怒る気持ちが一切湧かないくらい、もう、快感」

「感謝する気持ちも分かるだろう?」「そうね、気持ち悪いなんて言ってごめん」

この血は蚊の性格を変えるみたいだ。ユウナが、素直になっている。


シュウも、一度だけでは満足できず、2度目を味わうことにする。

先ほどの第一撃は、快感が先にきて、快感が体を突き抜けた為、血をゆっくりと味わえてはいなかった。

「すみません、もう一度、いただきます」礼儀正しく、挨拶を済ませ、2度目。

口に含み、味を確かめる。人間がワインを味わうように、蚊もテイスティングするのだ。

暖かいと感じたのは、なるほど、彼女の体温が少し高いからみたいだ。

この時期、夏の暑さにやられ、人間であればエアコンという、便利で快適なアイテムを駆使し、温度をコントロールしようとする。その恩恵に蚊も助かっているところだが、この部屋は扇風機のみ。

風で涼しくはなるが、部屋自体は暑いままだ。それが彼女の体温をあげている。

シュウは舌に血を絡ませ、味を深く確かめる。

今までの経験値、学習してきた言葉では形容しづらく、なかなか出てこない。

なんと言ったらいいのか。

甘い、だけじゃない。その中に、深い何か、コクと一言では片づけたくない、何かが潜んでいる。

シュウは自分の語彙力のなさに頭を抱えたが、それでも、この血を味わうことを堪能する。


シュウとユウナが計4発、彼女を刺した。シュウの心に後悔と反省の念が同時に押し寄せた。調子にのりすぎてしまっている。4回も刺されれば、どんなに鈍感であろうと気づく。だからこそ、蚊は人間から嫌われる。

シュウはその場からすぐさま立ち去り、元いたテレビの淵に逃げ込む。

しかし、ユウナはその場から動かなかった。余韻に浸っている。このままじゃ、まずい。

「ユ、ユウナ!危ないから!一旦離れるんだ。」

シュウの捻り出した叫び声は、ユウナには届かない。

すると、彼女に大きな影ができ、そのなかにユウナは溶け込む。

上を見上げてみると、先ほどまで気配を一切感じさせなかった男が、立っていた。

男は、そっと彼女に近づき、手を振り上げた。

シュウは恐怖した。今までに見てきた仲間の死。そのシーンがフラッシュバックした。

一番多い死、気配を消した人間の手が伸び、蚊めがけて飛んでくる。

気配を感じ取れれば逃げ込める。しかし、ユウナはもはや気が抜けている。

振り下ろされる手。彼女の太腿めがけて飛んでくる手。その手は、彼女の太腿と、ユウナに向かっていた。


パチーン!!

『いったぁーい、え、なに。もう。痛い痛い』

『いまお前守ったんだよ、ほれ』

男の手には、ひねりつぶされた、ユウナの死骸がこびりついていた。彼女の血を滲ませながら。

『うわ、ほんとだ。えー刺されちゃったのかな』『とりあえず、太腿は刺されてんじゃない?』

『かゆくなるところじゃん、でも後ろでよかった、目立たない』

『いつ入ってきたんだろうな』『んー、網戸から入ってきたのかな、閉めてたんだけど』

男と女、二人で繰り広げられる日常会話に、シュウは打ちひしがれていた。

ショックだった。あんな簡単に、ユウナが死ぬなんて。

男の気配にいち早く気づいていれば、救えたかもしれない。

シュウは自分の力不足を恨んだ。

もっと声を張り上げていれば気づいてくれたかもしれない。

もっと周りに意識を向けていれば、避けられたかもしれない。

シュウは全く気付かなかった。男の存在に。男が部屋にいることに。男が近づいていたことに。

それだけ彼女の血に夢中になってしまっていた。彼女の血に、心を奪われてしまっていた。

いつもなら慎重に慎重を重ねて危ない橋は渡らない主義で、

今日だって、隠れて、黒に溶け込んで、場所を選んで、ここまできた。

だから、ここまで来れたとも思う。しかし、一度の油断が、仲間の死を招いてしまった。

この状況で、シュウが助かる可能性は極めて低くなった。

部屋から逃げるには彼女だけではなく、男の目を潜り抜けなければならない。

彼女の部屋には逃げ込める場所は少なく、いまいるテレビから一歩でも足を踏み出せば、すぐさま存在がばれる。そして、先ほどのように、手が飛んでくる。帰り道には、カイトが死んだ、トラップも待っている。

万事休すか。シュウは、なかば諦めていた。

良い血に巡り合って、堪能して、最後に良い思いができた、か。

そう思えば悪くない生涯だったように思う。

でも、できるなら、もっと生きたい。生きて、もっとあの血を味わいたい。

彼女のそばに寄り添って、彼女の体温を感じていたい。

シュウのなかは彼女で埋め尽くされていた。この欲望を、シュウの中に芽生えた気持ちを満たすには、あの男が邪魔だった。いつものシュウであれば冷静に分析し、慎重に事を進めるところだった。

しかし、今のシュウにそんな余裕はない。臆病なシュウは、消えた。彼女の血と引き換えに。


シュウは飛んだ。男めがけて。血が欲しいなんて欲じゃなく。

彼女が欲しかった。彼女を手に入れる為に、彼女の横にいたいから。

立っている男に気づかれないよう低空飛行で進む。

足元を責めるか、後ろに回り込んで背中に潜り込んで刺すか。

シュウは瞬時に判断した。足元だ。裸足であれば、すぐに飛びつける。

手が向かってこようと上から振り下ろされる前に逃げ込める。

右足の親指に着地し、すばやく差す。一番かゆくなるように。

シュウは念じた。「苦しめ、そして、出ていけ」

まだ男は気づいていないようだった。第二射撃を左足に決め、後ろに回り込み、

左足のかかとより少し上、筋の通っている場所に食らいつく。

シュウはここが人間を苦しめることを知っていた。

見れば、すてに足のほうは腫れてきていた。効果はバツグンのようだった。


『かゆっ。すごいかゆいんだけど』『えっ。どこどこ?』

『左足の親指』『あーほんと、腫れてるじゃん』

『まだ残っていやがったのかよ』『ごめんごめん、多分さっきゴミ出しにいってきた時に入ってきちゃったんじゃないかな』

『いつ入ってきたかなんて今聞いてないって。それより、どこだよ蚊』

『んー見当たらないね』『お前の部屋、白いんだから、目立つだろう』

『だって、いないもんはいないもん、後ろにいるんじゃないの?』

『俺の背後を取るなんて、なかなかやるな』

『なに言ってんの』彼女の笑い声が響く。

このやりとりを、シュウは男の背後に回り込み、Tシャツの内側から聞いていた。

そう、彼女のいうとおりの場所にいた。

彼女には自分が見えているのではないか、シュウはそう思い、うれしく思った。

男が後ろを向き、上下左右目を動かし、室内を眺めまわす。その視界にシュウはうつりこまない。

その間にも、シュウの射撃は止まらない。後ろに2発、くらわした。

僕だって、やるときはやるんだ。見てるかカイト、ユウナ。

臆病だって笑った君たちも、この姿を見れば感心してくれるはずだ。


そう思ったシュウに、一瞬の揺らぎが生じた。

そうか、もういないんだった。カイトもユウナも、いない。

人間の罠にかかり、人間の手を振り下ろされ、簡単に殺された。

いつだって、簡単に殺されてきた。

なぜ、こうも嫌われているのか。ただ血を頂戴しているだけじゃないか。

虚しさがシュウを襲い、力が抜け、刺すことも止めた。

いったい、僕は何の為に、いま、この男を刺しているのか。

復讐の為?彼女を手に入れる為?

復讐ならば、果したのだろうか。もう4発も刺してやった。

でも、その復讐に何の意味があるのか。

刺すたびに、男の殺意は膨れ上がり、その矛先は、すべてシュウに向かう。

全神経を尖らせ、僕の存在を目で追い、見つけたならば、すぐにあの手が向かってくるだろう。

復讐すれば、その分、僕の死が近づくだけだ。

でも、彼女を手に入れるって。蚊の分際で。シュウは自然と笑っていた。自分の存在の矮小さに。

彼女だって、僕のことが嫌いだ。僕を見つければ、殺すだろう。こんなに彼女を思っても、彼女のそばにいたい気持ちが強くても、それを伝える術なんて、ない。

話せたら、僕が人間だったら。あの男だったら。彼女のそばにいれたのに。

シュウには、もう、先ほどの気持ちの高ぶりはなかった。男を攻める気持ちも残っていなかった。

自分という存在が、彼女から見れば、ちっぽけな存在だということ。

先ほど死んだユウナも僕も、彼女から見れば、彼女の人生で出会った何百匹という蚊のなかの、たかが一匹に過ぎないこと。


シュウは、諦めてしまった。自分の存在を。蚊として生きる道を。

「どうせなら、男じゃなく、彼女に殺されたい。彼女の手の中で眠りたい。」独り言を呟いた。

いまなら、男は後ろを向いて、僕には気づかない。いま出ていけば、シュウの姿は彼女の目の前に現れる。

「いましかない。」意を決して、シュウは、男のTシャツから抜け出した。


『あ!いたよ!それっ!!』

パチン。

鳴り響いた音は、彼女の手と手が重なり合ってできた音。

そのなかには、黒い、小さな、小さな蚊が眠っていた。

彼女の手の中で、シュウは、死んだ。


目を覚ますと、見覚えのない場所にいた。

「どこだろう」

暗い、水っぽい場所だった。

ドクンドクン、ドクンドクン。

落ち着く音が響いていた。

匂いで感じる。

「これで、ずっと側にいれる」

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モスキート・ラブ 箱庭 星 @hakoniwastar

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