観覧車の終着駅

テオ・カブラギ

 学芸会の振替休日、うっとおしくなるほど退屈な午後を利用して、私は一人で小さな遊園地に出かけた。

 小学校最後の学芸会は、これといった思い出ができなかった。先生達が持ってきた台本を見ながらクラスみんなで役を決めて、それから先生と監督係の同級生が見ている中で、教室と体育館を使って練習。そのせいで本番は一つの失敗もなく終わった。最後は伴奏に合わせて全員合唱。少しくらい間違えたってばれやしなかった。終わった後の教室で、みんなよくやったなと先生がにっこり笑って私たちに言い放った。顔を蹴り潰してやりたくなった。私の中を全てが突風のように吹き抜けて、結局後に残ったのは目にも見えない塵だけだった。

 入り口で遊園地のマスコットキャラクターの着ぐるみが風船を配っていた。なんでわざわざお客さんの入らない平日に配っているんだろう。それにどうせ中には汗だくになった人が入ってるんだろうなと思ったりしたが、私も一応貰った。くすんだ黄昏色だった。私はそれを右の手首にしっかり結びつけて、両手を空けてから遊園地を歩き回ることにした。右手がほんの少しだけ軽くなった。

 有名なテーマパークと比べてみれば、私の部屋みたいに小さな遊園地だ。それでも実際に来てみれば広い。東京ドーム二つと半分くらいの広さらしい。それが家から自転車で四十分位の所にある。こいつに広さを取られたから私の部屋は狭いのかもしれない。低学年のころは行くことに決まっただけでわくわくしていた。休日になるとお父さんとお母さんに決まって「今日は行かないの? ねえ、今日は行かないの?」とせがんでいた覚えがある。でもすっかり遊びつくしてしまった今は、これと言った楽しみがほとんど消えてしまっている。見飽きた映画を何か新しい発見がないかと思って見返してみても、結局そんなものは見つけられないのが定番だ。

 メリーゴーランドが能天気にくるくる回る。子供たちと付添う親の楽しげな笑顔を硬くて冷たい背中に乗せて振り回すために、今日も誰かがスイッチを押し続けているのだ。休まず自転車を漕いできた私のおでこには汗の膜が張っている。背中側だけ濡れたシャツが冷たくて、背骨に沿ってぴたぴたと張り付いてすごく気持ち悪い。空は雲一つない晴天だ。真っ青な空には、太陽が一人ぼっちで輝いている。

平日だからなのか、どのアトラクションから聞こえる声も少ない。そしてきっとその声のほとんどは、私の小学校の児童とその親だろう。既に見たことのある顔をいくつか発見している。でも同級生には合っていないからちょっと安心。こんな所を一人で歩いている姿はあまり見られたくなかった。

お腹は空いていない。昼ごはんはちゃんと食べてきた。甘口のボンカレーだった。ちなみに今日の晩ごはんは買い置きしてあるチキンラーメン。今朝はコーンフレークを食べた。リビングのテーブルにお小遣いと一緒に一袋丸ごと置いてあったやつだ。全部食べてやろうと思ったが、半分食べたらお腹いっぱいになってしまい、仕方なく折りたたんだ袋の口を洗濯ばさみで閉じて、またテーブルに置いた。明日はその残った半分を朝ごはんにすることになるだろう。

足は自然に、入り口の料金所からほとんど反対側に向かっていた。お化け屋敷の横を通り過ぎつつ、コーヒーカップではしゃぐ私と同い年くらいの男の子と、彼の弟だろうか、ちょっと幼いもう一人の男の子、そしてその子達と一緒のカップに乗る両親を、歩く足を止めずに横目で眺めた。ぐるぐる回りながら四人とも馬鹿みたいに笑っていて、カップは楽しさで満たされていた。しかし、それよりも私はジェットコースターに乗りたかった。特別に好きっていう訳じゃないけれど、あのスピードや落下する浮遊感、それに吹き付ける風が、このねばねばした退屈を少しでも吹き飛ばしてくれるような気がしていた。

ジェットコースターが最初の山を登り切って、落下していく音がする。その中には、悲鳴なのか喜んでいるのか分からない人の叫びが少し混ざっている。休日ならうるさい位に声が聞こえることもあるのに。見上げてみると遠くに太い鉄の棒で組まれたレールがあって、そこを勢いよくコースターが通って行った。少しの間はそれを目だけで追い、でもだんだん目で追い切れなくなって首をねじった。

ちょうど、風船が目に入った。

そういえば、風船を持ったままジェットコースターに乗れるんだろうか。

最終的な結論までは十秒もかからなかった。無理に決まっている。風船を手首に巻きつけたまま乗っている人なんて見たこともない。

どうしようかな。休みの日にお父さんの車で来ていた頃は大抵お父さんかお母さんが持ってくれていた。でも今日は私一人だし、持っていてくれるような友達も誘ってないし、それ以前に友達と一緒に来ていたとしたら荷物持ちなんてさせないで一緒に乗って叫びたい。じゃあ遊園地の人に持っていてもらおうか。いや、わざわざ一人で遊園地に来ました、なんて言うようで恥ずかしいし、どんな言葉を返されるか分からない。ここの入り口だって、ちょうど近くにいた知らない家族とカップルがぞろぞろ入るのをちゃんと見はからって、それに混ざって入ったのだ。入場券は券売機で買える。

ジェットコースター乗り場に続く鉄板を重ねたような階段の前まで来たものの、それを上っていく理由が無くなってしまった。明らかに、右手首に巻きついている風船のせいだ。自分で結んだ風船の凧糸が、私を繋ぎ止めておく頑丈な手枷のように思えた。憎しみをこめて風船を睨んでみるが、風船はコーヒーカップのように、ただくるくると回るだけだった。




ジェットコースターの隣には自動販売機とベンチがたくさん並んでいる休憩所があって、そのまた隣には観覧車がある。そのちょうど降りてきたゴンドラに、私は飛び乗った。風船を持ったままでも乗れるというのと、ちょうど誰も並んでいなかったというのが乗ろうと思った主な理由だ。乗るためには入場券とは別に乗車券を買わないといけなかったが、私の財布にはたっぷりとお金が入っている。今日の朝、リビングのテーブルにコーンフレークと一緒に置いてあった三枚の千円札だ。明日になるまで家に帰らない、というお母さんからの置き手紙でもある。ちなみにお父さんは二ヶ月前から単身赴任している。

「はい、じゃあお気をつけて」

係のお兄さんは私が一人だということには特に何も言わず、ゴンドラのドアを開けて私を乗せてくれた。普段は気にしなかったけど、今日はそれがなんだかとても嬉しかった。

大きな音を立ててドアが閉められ、ゴンドラは静かに上昇し始めた。

ゴンドラの座席は、大人で数えて大体六人分くらい。まあこの程度の広さがどこでも普通だろう。広すぎず狭すぎず、ちょうどいい広さだ。クーラーが付いているみたいで、外よりもずっと涼しくて、乗った瞬間に、ずっとここの中にいたいと思った。

窓に左腕をくっつけるようにして座り、外を見た。だんだん人や建物が小さくなっていく。ジェットコースターも、メリーゴーランドも、入り口も、その向こうに広がる私の住む町並みも、人々も、みんな遠くに離れて小さくなっていく。ほんのちょっとの間、お別れだ。少し悲しくもなる。それでも、もともと観覧車は好きだった。普段は見れない広い景色を眺められるから。いつだって観覧車に乗れば、何かを発見できる気になれた。

でも今日はなんだか、そんな気分にはならなかった。空には相変わらず雲一つなく、町を太陽がせっせと照らし続けている。

ゴンドラの上昇がだんだんと遅くなり、時計の文字盤でいうと十一くらいの所で動かなくなった。これはいつもの事だ。この観覧車はときどき止まって、またすぐ動き出す。このまま動かなければ面白いのにと思う半面、動いてくれないと帰れないから困る、という思いもあった。でも今日は、帰っても誰も居ない。家の鍵は、出かける時に郵便ポストの中に入れておいた。郵便口に手を突っ込めばいつでも取り出せるので、私が家から持ってきたのは財布とケータイだけだった。それらをズボンのポケットに押し込んでしまえば、私は手ぶらになった。

逆らうことのできない一方通行の最中にいて、あまりにも私は身軽だった。

動かないゴンドラの中で、そっと自分の肩を抱いた。すると風船が手の動きについてくる。風船は窓にぶつかり、何回かバウンドした。外の景色を眺めているようにも見えた。

風船が窓にぶつかった時の小さな衝撃で、手首に結んだ凧糸がごく弱い力で引っ張られる。まるで、外を見てごらんと私の手を引いているようだった。抱いた肩の温もりと冷たくなった手のひらの温度が混ざって、どちらもぬるくなっていた。

肩から手を離し、窓の外に目をやった。と同時に、ゴンドラが動き始めた。目の前の景色がゆっくりと移り変わり始める。町から離れていくぶん、私はどんどん空に近づいていく。空には、太陽が待っている。でも無理。絶対に届かない。

ゴンドラの中を小さなチャイムの電子音がそっと包んだ。余韻が溶けて消えると、アナウンスが流れ始めた。ほとんど空っぽのゴンドラの中で、控えめな女の人の声はよく響いた。まもなく一番高いところを通るらしい。

私の町の向こうにまた別の町がある。そのまた向こうにも町があって、川なんかもあって、ずっと向こうには名前も知らない山がある。学校で教えられたような気もするけれど、私は社会よりも算数の方が得意だった。でもその山の頂上あたりに小さな電波塔があることだけは知っている。それは町のほとんどの場所から見えないのだけれど、観覧車の一番高い所からは見ることができることも私は知っていた。それを見るのも、観覧車に乗る楽しみの一つだった。

 今日も見える。今、町中であの電波塔を見ているのは私だけなんだと思ってみると、少しだけ優越感を感じた。でもすぐに思い直した。私だけじゃない。私よりも高い所から、風船が窓に顔をくっつけて塔を見ているじゃないか。私の分だけ見下せる人が増えて、もっと強い優越感を感じているに違いない。ああ、なんて嫌な奴なんだ。あの担任の先生に匹敵するかもしれない。

そうだ。風船の凧糸を手繰り寄せて、両手で風船を抱える。割れないように、でもこの手を離れないくらいに。これで私の方が視線が高くなった。風船は窓の外をろくに見ることもできない。電波塔が見えなくなるまで、こうしていてやろう。

ガスが詰まった風船の表面は柔らかくて、クーラーのすぐそばにいたから冷たくなっていた。触るとキュッキュッと鼓膜に刺さるような音がする。それは落下するジェットコースターに乗っている人たちのよく分からない叫び声に似ていた。

狭いゴンドラに、背の高い親友と二人きりで乗っているような気分になった。

電波塔にもう一度目を向けてみる。大丈夫、まだ見える。その上空には小さな雲が現れていた。一番高い所を過ぎても、電波塔が見えなくなっても、私はずっと風船を離さなかった。

ゴンドラはもう、下っていくだけだった。




「足元お気を付け下さい。ありがとうございました」

 乗ったときと同じお兄さんにドアを開けてもらい、涼しかったゴンドラから渋々外へ出る。途端に、もわもわした熱気が全身を包んだ。嫌らしい気温に思わず顔が歪む。でも手に捕まえてあった風船の表面はまだ少し冷たかったので、それをほっぺたに当てながら観覧車乗り場の出口をくぐった。その風船も乗り場の外に出た時には、もうカイロみたく暖まってしまったので、顔から離し、両手も離した。手首の凧糸はほとんど触っていないはずなのになんだか灰色に薄汚れているし、ほんの少しほつれているようにも見えたけど、風船は元通り、私の頭上に何のことも無く浮かび上がった。さっき私がした全力の意地悪も、まるで気にしていないみたいに。

 日はほんの少し傾いているように見えるが、まだしばらくは沈みそうにない。観覧車から離れようとする歩みをそのままに、風船を引き連れてどこへともなく園内を歩いていくことにした。

 園内の道は、柔らかいゴムとアスファルトの中間といった感じの、青っぽい黒色をした素材で覆われている。スニーカーの裏がこのざらざらしていて弾力のある地面に引っ掛かるので、とても歩きやすい。それがなんだか今日は楽しくて、自然とうきうきとした足取りになってしまう。そうやって頬を撫でる風を感じていると、だんだんと私の足が靴を引っ張っているのではなく、靴の方がこの頼りない足を前へ前へと運んでいるように思えてくる。ひょっとすると、私が歩くのを止めようとしても、もう止められないのではないかとさえ感じられてしまうのだった。

 一瞬、目の前の景色が灰色のガラスを通したように見えた。このまま世界の果てまでも歩いていかなければならないのだとしたら。山も、砂漠も、ジャングルも、海の底までも、靴の底がすり減って無くなってしまったとしても立ち止まれないのだとしたら。

 私ははっとして立ち止まった。おでこを冷や汗がつたう。全身に鳥肌が立っていた。辺りを見回すと、遊園地の一角を占める広い原っぱにたどり着いていたが、そこまでどういう道を通ってきたのかは、どうにも思い出せなかった。

 原っぱにはまばらに人がいた。ボールやフリスビーを投げ合う人達もいれば、地面に座っておしゃべりしている人もいる。原っぱは小学校の校庭が二つか三つ集まったくらいの広さで、ちょっとした遊具や小さい川、それに丘なんかもある。三年生の時に小学校の遠足でこの遊園地に来たけれど、ここでみんな一緒にお弁当を食べたのを覚えている。

 アスファルトのような何かの地面から一歩だけ踏み出して、土と草の地面に移動してみた。と、立ち止まった勢いで視界の隅にくすんだ黄昏色がふわりと現れた。風船が音も立てずに私の横に着いてきているのを今更のように思い出した。手首に巻き付けてある凧糸は体温で暖まって、ほとんど肌に溶け込んでいるように思えた。目の前の景色はいつのまにかくっきりと、曇り無く見ることができていた。

 ここから八十メートルくらいだろうか。そこにはなだらかな丘が、もう通り過ぎて行ってしまったはずの夏を思い出すような日差しに照らされていた。なんだかそこだけが明るく、ほんのりとゆらめいて見える気がした。ちょっとそこまで行ってみる気になったのは、丘の方から吹いてくる風が、アトラクションの方から吹いてくる風と比べると冷たいくらいに涼しかったからだ。そういえば、植物は蒸散して水蒸気を出すんだっけ。理科の授業で教わった。だから涼しい風が吹いてるのかな。ゴンドラのクーラーが乾かしてくれたはずの背中に、またシャツが張り付き始めていた。

 足首にも届かない、背の低い芝生を踏みしめ歩いていく。芝生には緑色の元気な芝に、枯れて白に近い茶色になった芝が混じっていた。この原っぱの周りは木と、緑色でやたら背の高いフェンスで囲まれている。というよりも、森の木を切り倒して、そこをフェンスで囲って、中に無理矢理広場を作ったような感じがする。なんだか箱庭みたいだ。

 一分半くらい歩くと、もう私は丘の上に立っていた。風が涼しくて気持ちいい。風船も楽しそうに頭上をくるくる回っている。地面がここだけ盛り上がってできたような何も無い丘だけど、小さい子達がこの高くもない頂上を目指してかけっこをしている姿はよく見かけた覚えがある。

 かけっこに疲れた子達がいつもするように、私は丘の上の芝生に座り込んだ。足をのばして、腰の後ろに手をつく。低学年の時は私も、この丘めがけて走る子どもの一人だった。男子に混じって全力疾走を何百回も繰り返したお陰で、女子にしてはそれなりに足が速くなった。運動会の徒競走でも、二年生の時と五年生の時に一位をとった。でもどっちの瞬間も、お父さんとお母さんは見に来ていなかった。お母さんは毎年来るには来るけれど、最初から最後まで見ていてくれたのは一年生の時と三年生の時だけで、それ以外の時はいつも最初のほうだけ見て、気がつくといなくなっているのだった。お父さんは四年生の時に見に来てくれていたらしいけど、私はそれを、その日の晩ご飯の時にお母さんから聞いた。

 ふいに太陽の光が弱くなったので、首を後ろにぐっと反らし、空を見上げる。頭の後ろにあった風船の糸が右の耳に引っかかった。雲が出てきている。太陽は雲の陰で休憩中のようだった。今日の太陽は朝からずっと働きっぱなしなんだから、これからゆっくり休憩して欲しい、と思った。

 私もちょっと休憩しよう。そういえばずっと歩きっぱなしだったから、数年前にこの丘で鍛えた私の足も少し疲れていた。辺りを見回すと、やっぱり人はぽつりぽつりといるけれど、誰も私に注目してはいないようだった。よし。思い切って、芝生に背中から寝転んでみる。太陽の熱をたっぷりと吸い込んだ草はほどよく暖かくて、草の優しい匂いがした。なんだか右耳の裏がちょっと痛い。風船の糸が耳にくっついたまま寝転んだので、耳の裏が糸で擦れてしまったようだった。その痛みが引いていくのに合わせて、私は目をゆっくりと閉じていった。眠気の中に沈んでいく間、風船がつんとすましたように私を見下ろしている気がした。私が完全に目を閉じる寸前、雲が少しだけ晴れて、太陽も顔を覗かせた。毛布のような温もりが、私に降り注ぎ始めた。

 その二人に見守られながら、私は沈み込んでいくように眠りについた。




 目が覚めたとき、既に空は半分以上赤みを帯びていた。

 もやもやする寝起きの頭をなんとか持ち上げて、体を起こす。大きな欠伸を一つすると突然、私が今遊園地に来ていて、そこの原っぱの丘で能天気に眠っていたことを思い出し、無性に恥ずかしくなった。顔に血が上るのを感じながら、急いで辺りを見回す。よかった、とりあえず誰にも見られていないみたい。ただでさえ少なかった人は、閉園時間が近づいているからか、もうほとんど見当たらなかった。

 そこで異変に気がついた。右手首に目を向ける。

 手首の結び目の所で、風船の糸がぷっつり切れていた。あの黄昏色の風船が、それまであったはずの場所から完全に消えていた。

 急いで顔を空に向け、それらしき影を一生懸命に探す。ガス風栓なのだから、ここになければ飛んでいったに違いない。けれど空はもう夕焼けに染まっていて、風船はその奥へ溶けていくように消えてしまったのだと思った。

 私の中の全てが、スイッチをオフに切り替えたように一瞬で停止した。

 何が起こったのかは、なんとなく予想がついた。糸の切れ目はぼさぼさに崩れていたので、風に吹かれてくるくる回ったりしているうちにいつのまにか結び目の部分が擦れて、少しずつ削られてしまっていたのだろう。そして横になったときには、耳に引っかかった糸が手首の結び目との間で引っ張られて、さらに結び目はきつく、糸自身を締め付けすぎてしまったのだ。もしかしたら私が横になって目を閉じた時点で、もう糸はちぎれていたのかもしれない。

 空っぽになったような気分で手首の糸を眺めた。それはどこからどう見たって、ただの凧糸にしか見えなかった。風船そのものも、風船がその先に付けられていたという跡も、一緒に過ごしてきた数少ない思い出も、どこにも見当たらなかった。

 ふいに吐き出した息が震えて、目頭がぎゅっと熱くなりだしたことに私はびっくりした。そんな、たかが風船が飛んでいっただけで泣くなんて、幼稚園児じゃあるまいし。でも、このとても寂しい気持ちはどこからやって来たんだろう。そんなことを考える暇もなく、目尻にはどんどん涙が溜まっていった。

 嫌だ。泣きたくない。私はそんなに弱くない。必死で歯を食いしばって声を殺してみるが、いくら我慢しても、細く息をするたびに涙がどんどん溜まり、目からこぼれてきてしまうまでにそんなに長い時間はかからなかった。納得もいかないまま、おでこを膝に押し付けるように体育座りをして、手の甲でそれを拭う。

 丘の周りに人影はない。でもきれいな夕日に照らされた原っぱを見渡すと、まだ何人かの集団が二つか三つ、確かにいるのが見えた。誰も泣いていない。もちろん、泣いているはずが無い。そう思った瞬間、自分がこうして泣いているのが、また恥ずかしくなってしまった。それは、さっきと違う恥ずかしさだった。

 でも、涙は止まらなかった。いくら歯を固く噛み合わせてみても、のどの奥を絞るように力を込めてみても無駄だった。口元がへの字に歪んでしまうのが嫌で、何とかそれを隠そうと右手で口を覆ったが、手首に巻かれた凧糸が夕日に照らされてあの風船の色に染まっているのがちょうど目に入った瞬間、心臓を針で貫かれたような衝撃が私を襲った。どうして私を置いていなくなってしまったんだ。そう思った途端に、私の心臓にできた無数の空洞は、この中途半端に残った凧糸に向けた強い怒りでいっぱいになった。

 手首に巻かれた糸を涙目で睨みつけ、私はそれに噛み付いた。口の中でいろいろ混ざり合った水分が、舌の上で凧糸にしみ込んでいくのが分かった。そしてぎりぎりと歯を左右に擦り合わせ、この糸を削っていく。両目から涙が一粒ずつ、湿ったほっぺたを流れた。

 糸が切れるまでは、思ったより時間がかかった。糸の繊維は、細くなるほどなかなか噛み切れなくて、それをしている間も目から鼻からしょっぱい水が溢れて、それを拭い続けた両手の甲はもうびしょびしょで、私はそれらをもう腕で受け止めていた。

 ようやく噛み切った凧糸は、唾で手首に引っ付いていた。私はそれを左手で掴むと、思い切り地面に叩き付けてやった。でもその弾みで、思わず甲高い泣き声が口から漏れてしまい、恥ずかしさに俯いた。風船の凧糸は枯れかけた芝生に混ざってしまい、どこに落ちたのかも、もう分からなかった。

 無料で貰えるガス風船一つ無くしたくらいで、私はなぜこんなに泣かなければならないんだろう。腕も、涙と鼻水でべとべとになりつつある。こんな苦しい思いをしにこんな遊園地までわざわざ来たわけじゃない。そうだよ。泣くのは間違いだ。間違いに決まっている。遊園地は、私の今日は、楽しいと決まっていたはずじゃないか。

 とっさに私は顔を上げ、体育座りを崩して膝立ちになると、倒れ込むように四つん這いになって、土下座みたいにして丘の芝生に顔を押しつけ、そこに鼻と目尻を乱暴に、何度も何度も擦り付けた。出るな、消えろ。もう涙はいらない。芝生はほんの少し固くてちくちくと顔をつつくし、食いしばった歯の周りと唇の裏には草が入り込んでくるけれど、そんなことは気にせずに、私は芝生と土で止まらない涙を拭き続けた。

 時々、震える息に混ざって押し殺された悲鳴のような声が漏れたけれど、もう恥ずかしいとか、みっともないとか、そういうことがすぐ思い浮かぶほど今の私の脳みそに空白は無かった。


 


 目尻の辺りに鋭い痛みが走って、ふと我に返った。体を起こし、膝を折って地面に座る。痛んだ部分を手で触ってみると、少し血が出ていた。草で切ってしまったのだろうか。指に付いた血と、頭上に広がる夕焼けを交互に見ていると、だんだん気持ちが落ち着いていくのがわかった。

 顔の上半分がひりひりする。特に目は、見なくても真っ赤に充血して、腫れているのがわかった。一粒、涙が静かにこぼれてしまったが、もう拭わないで、ほっぺたを伝っていくままにしておいた。

 どこからともなく、ノイズ混じりのチャイムの音が聞こえた。耳を澄ますと、山びこみたいに響いていてとても聞き取りづらい園内放送が、もうすぐ閉園時間だと告げている。ポケットからケータイを取り出して、時間を確認する。確かに閉園時間が近づいていた。

 目の前を見下ろすと、涙と鼻水でうっすら濡れた芝生が夕日を反射して、あの風船の色に光っていた。それを少しの間ぼうっと眺めていたが、風船が思い出されて少し息が詰まったけれど、もう涙は流れないみたいだった。ふと、近くの地面に目を凝らし、急いで手で探ってみた。

 探し物は案外すぐ見つかった。さっきまで手首に巻き付いていた風船の凧糸だ。噛み切ろうとした時にさんざん口に含んだので、 一部が灰色に変色していた。今は一本の線になったそれを真っすぐのばして、歪んだ円形に濡れた芝生に繋がるしっぽのみたいにくっつけて置いた。そしてそれを見ながら、ずっと遠い所に行ってしまったもののことを想像した。涙は、もう出てこなかった。

 私はぐっと両足に力をこめて立ち上がった。しばらく立っていなかったから少しふらふらしたが、ただ歩くだけなら問題なさそうだった。丘をゆっくり降りると、アトラクションが立ち並ぶ方へ向かって歩いていった。もう人影はどこにも見当たらなかった。時間を確認すると、もう閉園時間の十五分前だった。どのアトラクションも、もう動いていなかった。明かりだけが付いた遊園地と夕焼けの組み合わせはなんだか不気味で、でも綺麗な気もして、不気味と綺麗は以外と近い所にあるのかもしれないと思った。




 入場口の隣にある退場口は素通りするだけでよかったのだけれど、あの丘で鍛えた足ですばやく走り抜けた。他の人に見てもらうためじゃなく、誰にも見られることがないように、私のこの足を活用してみた。駐輪場で自分の自転車に跨がりながら、山の向こうに沈もうとしている夕日にふと親近感がわいて、買い置きのチキンラーメンを求めている自分の胃袋に気がついて、ペダルをこいで遊園地から徐々に遠ざかりながら、それでも結局、私はまだ生きてゆかなければならないのだと思った。

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観覧車の終着駅 テオ・カブラギ @thedelotala

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