どぶうさぎ

テオ・カブラギ


 友人の葬儀からの帰り道、ミルク色の額縁を買った。何をはめ込むかはまだ悩んでいるのだが、突然買わないといけない衝動に駆られてしまったのである。

 街灯に照らされた街路樹には雪が積もり、その下をくぐる度に雪が落ちてこないか心配になる。通り過ぎる人々は皆ぶっくりと着膨れて、せかせかと歩いていく。僕もそこに紛れ込み、身を潜ませるようにして家路に着いている。

 小さなマンションの角部屋のドアを開けて中に入ると「おかえり」と声が聞こえた。

 半年前に、自動車事故で家族を亡くした十五歳の女の子を一人、引き取っていた。家族という意識は無いが、部屋を留守にしている間に家事や買い物をしてくれるので助かっている。生活費はかさむが、幸い仕事はうまくいっているので、普通の一人暮らしをしていれば使い切れない位の貯金はあったのだった。

「ただいま」

 十畳ほどのリビングに行くと、彼女はノートパソコンを開いてこたつに入っていた。上下黒のスウェットを着て、ぼさぼさな髪が肩口まで伸び、その髪で覆い隠された黒目がちな瞳、頬にはニキビが少しある小柄な少女。暇な時間、彼女はいつもインターネットをしている。定額プランに加入しているので、特に料金は気にならなかった。

「晩飯は?」

「カレー、作りました」

 台所に行ってみると、コンロの上にそれらしき鍋が置かれていた。流しに今朝は食器がいくつか転がっていたが、今は全部背の低い食器棚に納められ、流しにはたわしだけがぽつんと置かれている。

 彼女の声がした。

「洗濯物、蜜樹さんの部屋に置いておきました」

「ありがとう」

 冷たい事務的な受け答えだと思われるかもしれないが、これが僕たちの日常会話である。

 居候と家主。決してそれ以上の関係はない。ましてや家族という意識など毛頭ない。女性としてみるならば、確かに彼女の肉体はこの半年ほどで成長しており、僕も健全な男子であるからして青い果実に欲情してしまうことはある。だが僕も三人ばかり、そういったときの汚れた欲望の捌け口があるので、今のところ、問題はない。

「あの、テレビ付けていいですか」

「ああ、いいよ」

 この時間は面白いバラエティ番組がやっていないのを知っているらしく、彼女は迷わずニュース番組にチャンネルを合わせた。テレビでは相も変わらず、二週間前の大地震のニュースを取り上げている。

 彼女はちらりと僕を見て、すぐ目線をテレビに逸らした。僕の家族は僕が小学校に上がる前に、地震で死んだのだ。僕と祖母だけが生き残ったが、祖母も僕が中学校に上がる前に死んだ。脳溢血だった。救急車が来た頃にはもう手遅れだったのを覚えている。

 僕は炊飯器を開けて中を見た。二人分以上はちゃんと入っているのを確認して、棚から皿を二枚取り出し、一枚目には多めに、二枚目には少なめにカレーライスをよそって、それをこたつに持っていくと、彼女は「ああ……すみません」と頭をぺこぺこ下げた。

 彼女の過剰な感謝は特に気にせず、「いただきます」と軽く手を合わせ、スプーンを黙々と動かし始めた。彼女も一瞬僕の表情を窺ったこと以外、その後の行動は同じだった。テレビを見ながらの食事は行儀が悪いからやめろ、などと言っていた教師もいたが、食事中こそ脳に栄養を送っている真っ最中なのだから、情報も入ってきやすいのだと勝手な持論を振りかざし、カレーを口に運んだ。彼女の口に合うよう、甘口だった。

 食事が済むと、僕は風呂に入った。すでに沸かせてあったことになんの疑問も持たなかった。体をゆっくり洗っていると突然、「失礼します……」と声が聞こえたかと思うとタオルで胸元から太ももまでを申し訳程度に隠した彼女が入ってきた。予想外の出来事に、思わず僕は笑ってしまった。するとそれにつられるように彼女もふんわりと笑った。笑った顔を見たのは何週間ぶりだろうかと一瞬考えたが、全く思い出せなかった。

「えっと、背中くらい、流しますよ」

 といったようなことをもごもごと吃りながら言い、タオルとボディソープを手に取ってわしゃわしゃと泡立て始めた。彼女の体にはいくつかの痣や、小さくて丸い、煙草を押し付けられたような火傷の痕などがある。ちらりと見えた内股は、痣で黒ずんでいた。それに家事の手際がやたらと良かったり、死んだ両親との思い出の品をさっさと捨ててしまったところから、何となく彼女とその死んだ家族との関係は想像することができた。

「じゃあ、まかせるよ」

 そういって僕が小さな丸い椅子に腰掛けると、白い泡に包まれたタオルが静かに僕の背中を滑り始めた。

「あ、もっと強く擦って大丈夫」

 僕が言うと、戸惑ったような彼女の声が背中から聞こえた。

「え、でも、えっと、い、痛くないですか?」

「もう痛くないんだ。大丈夫。平気、平気。」

 僕の体にも傷がある。あの地震のとき、運悪く台所にいた僕は揺れる恐怖に立ちすくんでしまい、揺れた勢いで開いた食器棚から食器の雨を浴びることとなってしまったのだ。おかげで全身古い切り傷だらけである。胸から上の傷が全て浅く済んだのが奇跡だと医者には言われた。

 特に背中の傷は痛々しい。割れた食器が散らばる台所から逃げようと駆け出そうとした拍子に、地震で台所にあった生ゴミの詰まったゴミ箱が倒れ、床に散らばった生ゴミで足が滑り、その勢いで割れた食器が散乱する床に背中から転んでしまった。七転八倒、塗炭の苦しみとは、きっとあのようなものを言うんだろう。熱で真っ赤になった網に背中から押し付けられたような激痛がほとばしり、僕は口から泡を吹きながら絶叫した。そのため傷が他の部分よりも深く、その傷も生ゴミで化膿してしまったのである。

 彼女の握るタオルが恐る恐るではあるが、やや強く背中を擦り始めた。

「寒くない?」

「や、大丈夫です」

 浴槽から立ち上る湯気に満たされた風呂場は、春のように暖かかった。

 背中をあらかた洗い終えると、彼女は泡をシャワーで流してくれた。泡の感触が無くなったのを確認してからシャワーのお湯を止めると、背中に柔らかな温もりが張り付いた。

 鏡を見てみると、彼女が僕の背中にぴったりと身を寄せていた。背中に、二つの乳房の控えめな膨らみが感じられた。

「どうした?」

 問いかけに彼女は答えなかった。ただ、僕の腹に手を回し、より強く体を密着させた。

 僕は目を閉じて、背中に触れている相手の傷を数えた。火傷はなんとか数えられたが、内股の痣の数までは数えられなかった。


「お友達は、どうしたんですか?」

 風呂から上がると、こたつに潜り込みながら彼女が聞いてきた。今日、葬儀に行ってきた友人の事だと察し、僕もソファに腰掛けながら答えた。

「自殺だってさ」

「自殺?」

「そう。警察の言い分がおもしろいんだぜ。ビルの屋上で首を自分でかき切った後に、自分の胴体を包丁で四回刺して、意識を失いながらフェンスを乗り越えて飛び降り自殺したって言うんだ」

 ソファに横になりながら、久しぶりに本気で腹が立ったことを皮肉まじりに告白した。ソファの心地よい柔らかさが、一瞬癪に触り、少しばかり胸糞悪い気分になってしまった。

 きょとんとして黙っていた彼女も、意味を理解したらしい。

「それ、絶対自殺じゃないですよね……」

「まぁ、たぶんね」

「ひどい……!」

 その言葉を聞いた瞬間に、一瞬前までの胸糞悪さがすっと引いていき、こうして僕の感情に同意してくれる人がいるのはたとえ子供であっても嬉しいものだと、僕はまるで他人事のように感じていた。

 それからしばらくの間は、二人で溢れるままに愚痴を語り合った。彼女の言うことには正直、理解できないような部分もあったが、そこには目を向けず、ただ彼女の意見を馬鹿みたいに受け入れ続けた。そうした方が、彼女の負担が減ることを悟っていた。

ふと時計を見ると、もう日付が変わりかけていた。彼女とこれほど話したのは久しぶりだった。いつもは、どちらかが早くに寝てしまうのだ。

 ふとベランダの外を見ようとしたが、室内で暖房を付けているために窓が結露して、外が見えなかった。でも、たとえ見えたとしてもいつも通り、変わらない景色が広がっているだけだ。夜の黒と蛍光灯の白は混ざり合っているように見えるが、実際は細かく折り重なっているだけで、混ざって灰色になることは無いのである。それは、世界の真理を映し出しているようにさえ今の僕には思えた。

 時計の針が進み、零時前を示した。すると彼女は突然こたつから立ち上がり、何も言わずに自分の部屋へ入っていった。と、すぐに戻ってきた。

 かわいらしくラッピングされた小さな箱を両手で持って。

 その時、時計がちょうど午前零時を示した。


「あの」

 彼女が口を開いた。

「お誕生日、おめでとうございます」

 僕の前に、その箱が差し出された。


 しばらく、呆然としていた。それからふと思い出したように、「あ、ありがとう」と礼を言い、箱を受け取った。

 あまりにも日常的な、忘れかけていた幸福の感情が堰を切ったように湧き始めた。

「気に入ってくれたら、嬉しいです」

 おどおどしながらそう言うと、彼女は自分の部屋に消えた。

 包みを開いて箱を開けてみると、中に入っていたのは奇妙なイラストが描かれた名刺入れだった。泥まみれで、ぼろぼろの汚らしい兎が二匹、寄り添うように描かれていた。

 そのイラストが、とてもかわいらしく思えたことに驚いた。

「……ばあちゃん、あの子がいいものをくれたぜ」

 思わず、そうつぶやいた。

 ソファから立ち上がると、僕はベランダに向かった。ガラス戸を開け、サンダルを突っかけてベランダから深夜の街を見回した。いつもと何も変わらない風景だったが、先月よりも少しだけ、しかし空気は確実に暖かくなりつつあり、冬の終わりが近いことが肌で感じられた。僕は、もう一度右手に握りしめた名刺入れの兎を眺め、そしてまた夜の街に視線を落とし、この景色こそあのミルク色の額縁に収めるのにふさわしいものなのだと思った。


(了)

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