第6話 ‐強欲‐ ~バイオレンス・オブ・ザ・アンガー~【後編】
宝子と出会ったのは、東京府認定の医大だった。
「明海宝子(あけみ・たからこ)」という名が、僕の名前、「進藤明(しんどう・あきら)」に似ていると、宝子は、勝手にシンパシーを感じ、しきりに話しかけてきた。
もとから友人の少なかった僕にとって、当時、明海と呼んでいた彼女の、無邪気で表裏のない言動が、ことのほか好ましく映(うつ)ったのも、仕方のないことかもしれなかった。
宝子はまた、年齢の割に幼い性格だった。
純真無垢(じゅんしんむく)といえば聞こえはいいが、騙(だま)されやすく、人を疑うことを知らなかった。
そんな彼女を守りたい、と思ったのは、腕のあざをみた頃だった。
転んじゃって、と照れたように、はにかんでいた宝子。
だが、それは、ただの怪我(けが)ではなかった。
傷は、日に日に増えていった。
問いただした僕に、宝子は、「わたしがね、いけないことをしたから。辰巳(たつみ)くんは、悪くないの」と、儚(はかな)く微笑んだ。
……吐き気がした。
暴力を振るう男に捕まった女の、お決まりの言葉。
憤(いきどお)らなかったと言えば、嘘になる。
だが、僕が、少しでも怒ったような態度をとると、決まって宝子は、泣きそうな顔をするのだ。
直接、コンタクトをとろうと、思ったこともある。
相手は、同じ医学部の先輩で、七織辰巳(ななおり・たつみ)という、飲酒癖があり、欠席ばかりしてフラフラしている、正真正銘(しょうしんしょうめい)の屑(くず)だった。
だが、相手は、取り合わなかった。
明海と別れろ、などいう権利は、彼氏でもなんでもない僕が、言っていい台詞(せりふ)ではなかったし、そのヘラヘラとした顔で、明海のことをけなすその言い分は、もう、救いようもない泥沼に、明海が墜(お)ちてしまったことを彷彿(ほうふつ)とさせて、僕はただ、己の無力さに絶望するのみだった。
僕は、煮え切らない思いを抱えつつも、別のところで、宝子を守ることにした。
気が優しく、もとから病弱だったこともあり、しばしば、タチの悪いイジメにあう宝子の、「なくした」モノを探すことも珍しくなかった。
小学生の嫌がらせよろしく、ゴミ箱に捨てられていたこともあったし、くだらない陰口の被害に合うのも、しょっちゅうだった。
僕が助けに入ると、決まって宝子は、「進藤くんは、王子様みたいだね」とへらりと微笑った。
だが、僕は、その言葉と笑顔をみると、決まって、この愛しい友人を、どういうことか、絞め殺してしまいたくなるのだった。
だからきっと、暴力を振るうあの男のことを、非難する権利など、ないのだろう。
宝子は、こうも言った。
「私、本当は、せんせいになりたかったんだよね」
「……先生?」
「そう。保育園の先生。あ、幼稚園でもいいかな」
「君は、子どもが好きなのか」
「――だいすき。進藤くんは?」
「僕は、嫌いだ」
「じゃあ、進藤くんとは、結婚できないね」
私、子どもを産むのが夢なんだよね、と宝子は、いたずらをたくらむ子どものように、無邪気に笑った。
じゃあ、なんで医学部に? という僕の問いに、宝子は、心底不思議そうに言った。
「そうだね。なんでかなぁ~」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明海は、夢見がちな娘だった。
か弱く、それでいて、いつも驚くほど真剣に、相手と向き合うきらいがあった。
それは、明海自身が、そう扱われたかったせいかもしれない。
明海は、いつも弱いものに心を砕き、助けた。
明海は、明らかに、助けを求めていた。
「進藤くんは、私のヒーローだね」
ある日、明海は言った。
それは、泣きそうで泣かない彼女が、はじめて泣いた日だった。
いつものように、持ち物を隠された日。
でもそれは、あの辰巳という男の、浮気を知った日でもあったのだった。
「だってこうして、いつも助けに来てくれるでしょ」
……なんちゃって。と、明海は、そのこぼれ落ちそうな瞳に、涙をにじませたまま、はにかんだ。
「――明海」
「なあに?」
あんな男と別れろ、と言おうとして、ぐっとこらえた。
「……結婚しよう」
「……え?」
明海の顔が、はっきりとひきつったのが、わかった。
それでも、止まらない。もう、止まれない。
「――僕と結婚してくれないか、明海」
「進藤くん」
明海の、濡(ぬ)れた瞳が、揺れている。
「明、と呼んでくれないか」
「……進藤くん」
明海が困ったように眉尻を下げるのを見て、僕は、最初で最後の賭けをした。
「どうか僕を助けてくれないか、明海」
「……それは、お願い?」
「……ああ、お願いだ」
「それは、私にしかできない?」
「その通りだ」
「……心から?」
「……心からだ」
僕は膝まずき、片膝(かたひざ)をたてた。
「結婚しよう、明海。そして、幸せになろう」
明海の手を取り、その細い指に、「それ」をはめた。
「進藤くん、それ、指輪?」
明海がくすり、とおかしそうにはにかんだ。
それは、僕達が共同で作り上げた、水晶体嚢拡張リングのプロトタイプだった。
「悪かったな。色気がなくて」
「――ううん、嬉しいよ。だってこんな指輪、世界にたったひとつしかないもん」
明海は本当に嬉しそうに、指輪をはめた手をかざした。
「――ありがとう」
そして、泣きそうな顔をして、振り向いた。
「……だいすきだよ、私の王子様」
ああ。君のその澄んだ瞳を守るためなら、僕は、どんな汚れ仕事も引き受けよう。
君を奪う、悪役にだって、なってやる。
君がたとえ、不治の病にかかり、絶望に盲(め)しいたとしても。
僕が、その瞳のなかに輝く、まばゆく無垢な、水晶の珠(たま)を、絶対に、治してみせる。
たとえ、明海の心が、まだあの、暴力男のもとにあったとしても。
僕が、明海を護ってみせる……。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明海が、宝子が死んだと聞かされたのは、アメリカで医師試験を受けた直後だった。
僕の心中は、それはとてもひどいもので、三日三晩、なにも口にできなかったほどだった。
やがて、僕はさらなる絶望を知る。
その日から、何年たっても、僕は年を取らなかった。
あげく、知ったさらなる事実。
明海は妊娠(にんしん)していた。
そして、自分の命と引き換えに、その子を産んだのだと。
僕は、その足で病院へと向かった。
ガラスケースごしの赤ん坊は、すやすやと眠っていた。
お子さんを抱きますか、と微笑んだ看護士にうなずき、僕はその体に触れた。
しかし、その無防備(むぼうび)な姿に、僕に沸(わ)いたのは、煮えたぎるような憎しみだった。
<<お前さえ生まれなければ、宝子は……!! >>
首をしめようとした僕に、赤ん坊は目を開けた。
そして、僕をみて、きゃっきゃ、と笑った。
その姿に。その、あまりにも無垢(むく)な笑顔に。
僕は、たまらない羞恥(しゅうち)を感じ、その手を止めた。
そして、二度と病院には行かなかった。
……そう、僕は、たったひとりの我が子を、千夜を捨てたのだ――。
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