第2話「美しき夜の娘」~メサイア・ネバー・クライ~



「……ちや」



 呼ぶ声に気づいたのは、微睡まどろみのなかだった。




「千夜」


 もう一度、はっきりと呼ばれ、あたしは眉根を寄せ、寝返りを打った。


((……誰?))


「オレだ」


((だから、誰だっだつうの))



「――千夜?」


 誰かが首をかしげた気配がした。


 ――“気配”?  なんで、あたしには、それがわかる?


 目を、つぶっているのに?


 あたしは、まぶたをこじ上げた。


 開けた視界に映りこむ、長い黒髪。

 

――すらりとした手足。

――こちらをまっすぐみつめる、アーモンド型のキレイな瞳。

 

 はっきりとした端正な顔立ちが、なにか不思議そうにこちらをうかがっている。

 それは、お世辞抜きで美しい女だった。それも、あたしと同じぐらいの年の。


「お前……」


 あたしは、今度こそ覚醒して言った。


「千夜」


 やつは、安心したように、やわらかな笑顔をみせた。


「お前……――誰だ?」


 あたしの言葉に、ぴたりと、やつの笑顔が凍る。


(……なんだこれ)


 頭ががんがんする。耳鳴りがする。

 今あたしの目の前にいるのは、一体誰なんだ。そう考えれば考えるほど、吐き気がした。


「千夜……お前、もしかして」


 眉を下げ、やつは情けない顔をした。

 かちり、いや、ぶちりかもしれない。何か、ものすごく不快な音が、頭のなかで響いた。


「……千夜千夜、うるせえんだよ。誰の許可取って、あたしの名前連呼してんだ」


 イライラする。


「――千夜、オレは……」


「――黙れ!!」


 頭が焼き切れるように痛んで、あたしは気が付くとどなっていた。


「どこの誰だか知らないけど、消えろ。……もう二度とあたしの前に現れるな!!」



 やつは目を見開いたが、やがて静かにうつむくと、「……わかった」と震えを押し殺したような声で言った。

 そして、どこに隠していたのか、変なお面をかぶって、背を向け、開け放された窓まで歩くと、振り向いた。


「――お前がそう言うなら、今日はここで退散だ。だがしかし、覚悟するといい。我は炎に誓いし、暗黒の使者。この先、何が起ころうとも、けしてお前を逃しはしない」


 肩で息をするあたしの、敵意と怒りに染まった瞳を、光に染まったその仮面ごしにみつめ、やつは、今度はひるむことなく、顎を上げた。


「<美しき夜の娘>よ。眠れぬ夜は、我の名前を呼ぶといい」


 そう言って、カーテンをまくると、やつは軽々とその枠を越えた。


 静寂が訪れた。

 やつはいなくなった。……やっと。

 なのに、残ったのは安堵ではなく、びりびりに破られたように痛む胸だった。


 あたしは荒い呼吸を整えると、ベッドの上に座り、膝を抱えて頭をうずめた。


「――なんなんだよ……」


 理解できない。どこの誰ともしれないあいつの言動も。

 そんなあいつに激昂し、獣のように牙をむくあたしも。このカラダを内側から叩き壊すような、激しい痛みも!!


 なにもかも、あたしには、意味不明だ。

 すがるように布団をたぐり寄せて、しわになるぐらい握りしめた。


 朝までの長い長い宵闇のなか、たったひとつ、わかったことがあった。

 きっと、あたしはあいつを知っている。


 “炎”に“誓”った、暗黒の仮面少女。


 ……“チカ”。


 唇で、その名前をなぞるように息を吐いた。


 理屈でもなく、本能でもなく。ただひたすらに、あたしは知っていた。

 その存在が、いかにあたしの心臓を、魂を、めていたか。


 なぜなら、ふいに零れ落ちた涙の中身は、怒りでも、悲しみでもなく……。


 ただ、ひたすらに喉を突き破る、慟哭どうこくのような嬉しさ、だったのだから。

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