気取ったパン屋
猫は心底怯えていた。抵抗する意志さえ見せないほどに。
わたしは猫を抱えて川辺に座っている。「ガチ勢」と関わりたくないとわたしは言ったと思う。なぜならわたしの時給換算は最低賃金を大幅に下回っているからだ。そしてポアロの責任も取りたくないと言ったと思う。自分の人生をチキンレースしている男の人生の片棒を誰が担ぎたいものか。だが現実はどうだ。腕のなかで震えている猫は薬の甲斐あって下痢がようやく収まったところで、わたしの通帳のために皆レクイエムを歌ってほしい。わたしは国民健康保険を含むあらゆる保険に入っていないから病気をしないためのあらゆる努力をしているというのに、まさか他人、この場合他猫だ、のために国民健康保険を含むあらゆる保険が適用されない病院に通わなくてはならなくなるとは思わなかった。自分の保険はどうとでもなるがこの猫の体調はどうすることもできないから保険に加入したいと病院で言ったらパンフレットを貰ったので(実在した)今真剣に検討しているが、もっと真剣に検討するべきことがあるはずだった。
わたしはこの猫を飼うのか?
わたしは、というかわたしたちは、今川辺に座っている。わたしのパーカーのポケットに猫は潜り込んでおり、相変わらず震えているが、もうわたしは気にしないことにした。医者も臆病なんですよの一言で片づけた。なら仕方がない。まだ幼い子供だから生来持って生まれた性質なのだろう。抵抗しないでいてくれるだけ有り難かったと思うことにしている。流血沙汰がなかったとは言わないが、わたしたちは今のところ良好な関係を築いている、と、わたしは思っている(彼の気持ちは知らない)。
わたしはパンを毟って、パーカーのなかに手を突っ込んだ。猫は鼻息を吐きかけたあと、わたしの指をおずおずと舐め、しかるのちにパンを口にした。わたしはそれをしている間ぼうっと川を見ていた。
ポアロ言うところの「格差社会」の向こう側、わたしのような生きるか死ぬかを通帳を拝む形で続けており日雇いのバイトのポスティングを毎週ポストから拾っては真剣に眺める側から大通りを一本隔てた向こう側には、ひたすらに高いビルが立ち並んでおり、小奇麗な格好をした美男美女(顔やスタイルがいいかどうかはよくわからない、服がきれいなのでとてもきれいに見えるのだ)が澄ましかえったガキをぞろぞろ連れて出てくる。わたしの生まれ育った田舎では子供というと危険のキの字も理解できないような生き物だったが、少なくともわたしの視界に入る範囲で、子供たちは親の手をしっかりと掴んでおとなしく歩いている。多分、車通りだからだろう。家の中ではひっくり返って泣きわめくのだろう。多分。
わたしのルサンチマンのことはどうでもいいのだが、とにかくその人々が暮らす側には、瀟洒なパン屋がある。
「うまいか猫、金の味がするか」
生きる気力がないのか怯えているのかそもそも何に怯えているのか全く分からないが、猫は食べ物さえろくに食べない。舐め取るようにほんの少しずつ、パンをかじっている、あまりにもかそけない気配が指に伝わってきた。獣医の見立てでは生後半年程度ではないかということで、その半年間彼がどのような世界の恐怖を見てきたのか、あるいは単にわたしが怖いだけなのか、わたしにはまったくわからない。まあそんなものだろう。一緒に生まれ育った弟のことも一緒に生まれ育ったも同然のポアロのことも、わたしはどうせろくすっぽ知らないのだ。
「猫よ、結局のところわたしたちは皆金を食っているんだよ。わたしはそのことに少し無頓着すぎたのではないかな。あいつに金を払わせて、当然だと思っていた報いが、小汚い猫の形をとってやってきたということになる。悪口を言っているわけじゃない、単なる事実だ、あと今のおまえは小汚くない、洗ったからな。猫用シャンプーの金のかかった匂いがする。口に入れて食べたいくらいかわいい。おまえが高い金のかかった缶詰を食べてわたしがおまえを食べれば完璧なんじゃないか? うすうす知っていたよ」
わたしは左手に、いわゆる「ハイジの白パン」を持っているのだが、それは猫に与えるために買ったものであり、わたしはそれを食べることができず、そしてわたしは自分用のパンは買っていない。気取ったパン屋のパンひとつで食パンが一斤買える。だからわたしがここでやっていることは、焼き立てのパンを猫に食わせるために河原に座るという、ただそれだけの行為に過ぎないし、しかもわたしは猫をパーカーのポケットに入れているので、はたから見たらひとりで喋っているようにしか見えないだろう。
「わたしとあいつは最悪のコンビなんだ」
わたしの名前を呼んだ少女が、虫歯ができた、と笑って言う。ぞっとするほど無邪気に言う。大学生のわたしの部屋には、バイト先で貰った、賞味期限の切れた菓子がたくさんあった。彼女はわたしの家を、お菓子の家、と呼んだ。わたしは猫の健康について調べ続けていて、時給換算など知ったことではない。どんなことでもしてやりたい。どこまででも一緒にいる。決して裏切らない。約束は守る。わたしとポアロは最悪のコンビだ。
わたしたちは、お互いを裏切らせないための取引に長けている。
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