何がブレンドされているかわからないハーブティー

 なにが楽しくて生きているのかわからない、などと言ったらあの人はどんな顔をするのだろう。呪いのように頭の端に引っかかった言葉が、皮肉ではないということは知っていた。「そうだね、君は、優秀だから」

 誰の話だ?

 駅から横断歩道を渡ってすぐ。僕は明るい窓のある店が好きなので、なんならオープンカフェならもっといいけど、オープンカフェだとコーヒーだの紅茶だのよりお酒に行っちゃったほうがいいよねって思うし、だって温かいもの飲んでたら冷めちゃうじゃないか、でもお酒別に得意じゃないので僕はオープンカフェに長居ができたためしがない。というわけで僕はおおきな窓のある喫茶店とか、パン屋とか、フードコートとか、そういうのが好きで、たとえば地下にあるバーとか、喫茶店でもいいけど、そういうのがすごく苦手だ。

 皮肉を言ってるわけじゃないんだろう。あの人はとても賢くていつでも優しくて誰のことも平等に扱う。兄貴からの抑圧だの姉からの横暴だの、遠い世界の話みたいだ。真顔で僕に面と向かって、天使、と呼んだことさえある。親切の極みを尽くしてもらっておいてなんだけども、頭に蛆虫でも湧いているんじゃないだろうか。

 狭くて暗い場所にいると気分が悪くなるから仕事をやめた、なんて、言えるはずがない。

 実際は休職だ。僕は誰にでも愛されるたちなので(これは皮肉だ)人権意識の高い人々に囲まれて、君のような優秀な人間がわが社から失われるのは損失だ、ゆっくり休んで戻ってきなさい、なんて言われる能力がある。僕は別に特別優秀なわけではない。狡いだけだと思う。あの人を見ていると本当にそう思う。狡賢いだけだ。そしてとんとん拍子にうまくいっただけ。これまでは。

「そうだね、君は、優秀だから」

 ハーブティーを飲んでいる。

 季節のハーブティー、と書かれているだけの、何がブレンドされているのか見当もつかないハーブティーは、ささくれだった感情を落ち着かせるいい匂いがした。何が入ってるんだろう。僕は勉強が得意なので(皮肉だ)、カフェインは良くないとわかってから、すぐにノンカフェイン飲料についてひととおり喋れるようになった。今後業務で扱うことがあっても即座に対応できると思う。一事が万事全部そう。

 優秀だから?

 皮肉なんだろうか。

 病院は駅のそばにあるから、山の中から二時間かけて出てきて、電車に乗っているのもけっこうつらい。窓があればいいというわけではないらしい。バスはもっと怖くて、でもバス停のほうが駅のプラットフォームよりましで、車なんか論外だしそもそも車の免許を取るタイミングを逃したままになっていた。都会では車なんかいらなかった。電車を待つ必要だってほとんどなかった。たぶんおおきな窓のある店の選択肢も、もっとたくさんあっただろう。あの頃は気にしたこともなかった。今ではおいしいかどうかなんてどうでもよくてただ大きな窓があることだけを求めているし、誰を連れていくに適しているかとか融通がきくかとかより、自分がそこで平気な顔をして座っていられるかを考えている。

 嘘をついた。

 あの人は昔からそうだ、言った言葉を全部、鵜呑みにして、絶対に疑わない。そんなんじゃ損するばっかりだよと言ったこともあったと思う。騙されやすいのもいい加減にしなよと言ったこともあったと思う。僕は一人暮らしをしたことがない。大学生の頃はルームシェアをしていた。それから彼女と住んでいた。彼女を残して出ていったあとは――。

 天使。

 誰のことだ?

 店を切り盛りしているのは老いた男性がふたりだ。どういう関係なのかわからない。似てるし兄弟なのかな。ひとりは厨房を担当しているらしくほとんど出てこない。ひとりはレジが併設されたカウンターの向こうでカトラリーを磨いている。時々ふたりは顔を見合わせて笑う。むしゃくしゃする気にもなれないくらい平和な風景だった。ねえ、と話しかけたかった。ふたりも若い頃はいろいろあった? ちゃんと険悪になったりした? きょうだいげんかのひとつもしてみたかったよ。できっこないよな。天使はどっちだよ。あの人は感情をどこに忘れてきたんだ。いつも優しい僕の。

 皮肉なんかじゃないんだろう。たぶん。

 夜が怖いから早く帰らなくちゃいけない。窓からふりそそぐ日差しが純粋な黄色からオレンジに傾き始めていて、僕はあわてて立ち上がる。伝票に書きつけられた淡い色のインクが目にとまって、そのまま何の名前も付けずに脳内に仕舞った。あの人の住む街はここから電車で二十分。二時間かけて帰るよりずっと近い。僕は一人暮らしをしたことがない。あの人は。

「あの」

「はい」

 ふたりは兄弟なんですか?

「このハーブティー、何のブレンドなんですか」

 老ウェイターは笑って答えた。

「季節のハーブです」

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