第三章:異邦人の家

 車のドアを開けて外に出ると、どこか土臭さの混ざったコンクリートの匂いと共に、ひやりと鋭く冷たい空気に晒される。


 空港の駐車場を歩いている時は、ミュンヘンより暖かく、この長袖長ズボンでは少し暑いと感じたのに、それから小一時間もしない内にもう一枚着込んで来れば良かったと思うような肌寒さにまで冷え込んでいた。


「その格好で寒くない?」


 半袖のワンピース一枚のゾヤに尋ねると、相手はどうということのない笑顔で頷く。

 そうすると、風に紛れて薄められたローズの香りがまたこちらに流れてきた。

 土臭い地面からの匂いと混ざると、工業的に作った香気ではなく、近くに咲く野の花から匂って来た様に感じられる。


「少し涼しいわね」


 剥き出しの細い二の腕を眺めていると、私のジャケットを脱いで掛けてやりたくなる。

 同じくらいの背格好で、この子の方がもっと細身だから、寒さには弱いはずだ。


「君はそれで暑くないの?」


 スーツケースをトランクから下ろしながら、アンリはやや怪訝な声を出した。

 こちらは長袖の白いシャツが夜目にも蒼白く浮かび上がって、眺めるこちらの方が冷えびえとしてくる。


「ええ」


 むしろ、少し寒いくらいだ、と心の中で付け加える。

 多分、二人からすれば、こちらの皮膚感覚こそ狂っているのだ。


 車を留めて向かう先は黄土色のレンガ造りのアパートだ。

 遠目にはレンガがまるで積み上げたクッキーのようで、おとぎ話のお菓子で出来た家を連想したが、近付くに従って、夜目にも古びてくすんだ外壁だと分かった。


 私たちの祖母が今、一人で暮らしているのは、そんな、街の中心部にありながら、忘れられたように煤けてしまった一角なのだ。


 入り口まで来て、すぐ脇の暗がりに蒼白い二個の光を見出して、思わず背筋がびくりと震える。


 シベリアン・ハスキーの成犬が一匹、というよりも一頭、まるで招き猫のようにうずくまってこちらを眺めていた。


 灰青色の鋭い目つきといい、大きく頑強そうな体躯といい、これは「野犬」というより「狼」そのものだ。


「ここにいつもいる犬だから、気にしないで」


 私の気持ちを見透かしたようにゾヤが振り向いて告げる。


「睨むだけで、吠(ほ)えないし、咬(か)まないよ」


 後ろからカラカラとスーツケースの車輪の回る音に混ざって、アンリの付け加える声が聞こえた。


 二人に挟まれる形でアパートの入り口を通り過ぎる。

 廊下には限りなく灰色に近い白の電球が点っていたが、街灯の照らし出す外より却って暗く思えた。


 あの犬は恐らく純血のシベリアン・ハスキーではなく、雑多な血が混ざっているだろうけれど、種の掛け合わせ方によっては、野犬らしからぬ性質の個体が生まれてしまうのだろうか。


 それとも、「飼い犬より吠えたり咬んだりしやすいのが野犬」という見方自体がそもそも誤りで、野犬にも実は個体の数だけ固有の性質が存在するのだろうか。


 仄暗いアパートの階段は、日本の感覚からすると、〇・七段程度の高さ、一・三倍くらいの幅を持つ段が、一・五倍レベルの段数で続いていた。


 一段一段はむしろ楽なはずなのに、なかなか上には進めないような、まだるっこしいリズムで昇る。


 階段を三階まで昇り終えた所で、カシャリと金属の触れ合う音がして、先を歩くゾヤがポケットから鍵を取り出すのが認められた。


 どうやら、祖母の住む部屋は、この階らしい。


「重かったでしょ、ありがとう」


 私はアンリを振り返って、軽く頭を下げた。


「いいんだよ、このくらい」


 相手は屈託なく笑って、手の甲で額の汗を拭う。

 やはりもっと荷物を少なくするべきだったと軽く後悔する。

 帰りには、自分でこのトランクを持ってこの階段を昇り降りしなければいけないかもしれないし。


 薄暗いため、ほの白く浮かび上がって見える壁に対して、さながら等身大に掘られた穴のような黒いドアにゾヤは鍵を差し込む。


 キラリと鋭い刃に似た鍵の残像が目を刺し、胸が奇妙にどきついた。


 軋むような重い音を立てながら扉が開き、同時に淡いオレンジ色の光、そして煮込んだチーズとキャベツの暖かな匂いが廊下に溢れ出す。


「今晩は、ブニカ(お祖母ちゃん)」


 ゾヤはまるで歌うように声を掛けながら、迷いなく温かな灯りと匂いを湧き出す奥へと進んでいった。

 その朗らかな声を追うように、私も足を踏み入れる。


「ナディアが来たわ」


 その言葉を耳にして初めて、自分もまず挨拶をしなければいけないのだという事実に今更ながら思い当たった。


「初めまして」


 何だか語学テキストの冒頭文みたいだな。

 苦笑いしながら、温かなスープの匂いを放つリビングに足を踏み入れる。


「ナディアです」


 そこでぶつかった目線に、私の顔を漂っていた笑いが一瞬で凍り付く。

 氷そのもののような、二個の灰青色の瞳がこちらを射るように見据えていた。


「今晩は」


 青を含んだ灰色の目線の主は、ひっつめにした艶のない真っ白な髪と皺だらけの萎びた顔に反して、まだ張りを失っていない、そして瞳と同じ冷徹さを孕んだ声で続ける。


「よく来たね」


 ――よくも図々しく来てくれたね。

 ――よく今さら顔出しできたね。


 視線をスープ鍋に戻してテーブルの皿に盛り始めた、白黒のタータンチェックのワンピースを纏うその背中は、そんな辛辣な声を暗に発しているように見えた。


 テーブルには、朱色の地に白い幾何学模様を織り込んだ、ヨーロッパというよりむしろ東洋的なクロスが掛けられている。

 その上には、四枚の皿が、二枚ずつ向かい合う形で置かれていた。


 だが、祖母と若い孫カップルの分を除いたもう一枚は、本当に私という日本から初めて訪れた孫娘に用意されたものなのだろうか。

 そんな疑いすら過ぎる。


 いや、これは予測していない事態ではなかった。

 祖母にとっては、三十過ぎまで一度も顔を合わせる事のなかった孫なのだから。

 まして、家出同然で外国に出て行って死んだ娘が産み落とした、異邦人との子なのだから。


 招かれざる客。


 これは、従妹カップルと三人で居た時には、束の間、意識せずにいられた言葉だ。

 この家に数日泊めてもらえるだけでも、祖母としては本来は驚くべき寛大措置なのかもしれない。


 だが、実際にこうして骨張ったタータンチェックの背中を目にしていると、想像以上に心が冷えてくる。


「これ、どこに置けばいいかな?」


 背後でアンリがガタンと床にトランクに置く音がする。

 そういえば、ここまで来ても彼に持たせたままだった。


 階段を上がり切った所から自分で持てば良かったのに。

 きっと、こういう無意識の行動が厚かましいと思われてるんだ。


 我ながら歯がゆい気持ちでアンリを振り向いたところで、肩越しに冷厳な声が飛ぶ。


「取り敢えず、そこに置いといて」


 従妹の恋人はこうした応対にはもう慣れ切っているらしく、穏やかに微笑んだ顔のまま頷いた。


「分かりました」


 これが、祖母の他人に対する一般的な態度なのだ。

 そう思えば、多少安心できなくはない。


「お酒はツイカでいい?」


 ゾヤは尋ねながら、食器棚から既にグラスを取り出し始めている。

 私を追い越して行ったアンリがその半分を受け取って、テーブルに並べる。


「私は大丈夫」


 実際、ルーマニア産の蒸留酒はこれまで飲んだ経験として苦手ではなかった。

 しかし、それ以上に、この家で、自分に拒否することは許されていない気がする。


「座って」


 白黒のタータンチェックの背中が、振り向かずに、また素っ気ない声で告げた。


 *****


「ヨコハーマから遠かったでしょ」


 食事が始まると、向かいの席のゾヤがまず口を開いた。


「うん、まあ」


 私が住んでいるのは確かに横浜だが、こんな風にルーマニア語の中で「ヨコハーマ」と発音されると、得体の知れない異国の街に思える。


「日本からこっちって直行便あったかな?」


 斜め向かいのアンリはふと思案する顔つきになる。


 ゾヤからのメールには、彼とブルガリアのソフィアを旅行した写真が添付されて送られてきたこともあった。


 だが、さすがに極東の島国となると日常の圏外にあるらしい。


「トランジットでミュンヘンに止まって、そこからティミショアラに来たの」


 ハンドバッグの中に入れた娘へのテディベアから、連鎖する形でトランクの中身を思い出す。


「後で、日本からのお土産、渡します」


 隣の祖母を振り返ると、相手もスプーンの手を止めて、ゆっくりとこちらを振り向いた。


「気に入ってもらえるといいけど」


 話しながら、笑顔が引きつるのを感じる。

 どうして入国管理の事務員がパスポートと本人の顔を見比べる時のような目でこちらを眺めるのだろう。

 向こうのトランクに入ってるのは、麻薬や爆弾じゃありませんよ。


「日本のお茶とハンカチとポーチ、それからチョコレート」


 ハンカチとポーチは和柄の手ぬぐいと巾着で、チョコレートは抹茶味のキットカットだが、最大公約数的に訳してみる。


「素敵ね」


 向かいから、ゾヤが助け舟を出してくれた。


「貴方たちにも受け取って欲しいの」


 私は若い二人に声を掛ける。

 もともとゾヤに渡す分も入れて二つずつ買ってきたから、少なくとも緑茶とキットカットはアンリにも行き渡るはずだ。


 確かめてないけれど、彼が日本茶を嫌いでないことを願おう。


「どうもありがとう」

「楽しみだよ」


 向かいの恋人たちは華やいだ声で口々に答えた。


 やっぱり、「若い」ということはそれ自体、価値がある。

 素直な笑顔を浮かべた二人を目にしてつくづく思う。


 こちらも平均寿命的な観点からすれば「まだ若い」と言えなくはないけれど、もう掛け値なしの若さを誇れる時期にはいないから、その擦り減らされていない華やぎが良く分かる。


「どうもありがとう」


 すぐ隣でも、乾いた声がぽつりと落ちる。

 振り返ると、祖母はもう元通りスプーンを手に取って口に運ぶところだった。


 ――別にそんなもの要らないわ。


 深い皺の刻まれた横顔は、そう告げているとしか思えない。

 ひっつめにした髪形のため長さの際立った首筋やすんなり高い鼻の形は、記憶の中にあるママの横顔と重なった。

 正面からだと必ずしも似ていないけれど、こうして見ると、やはり母娘なのだと思う。


 このスープの味だって、昔、ママが作ってくれたスープとほとんど同じ味をしている。

「ほとんど」というのは「完全に同じ」とするには、何かが少し違うからだ。


 味付けのさじ加減が微妙に異なるのか。

 ママが日本で揃えた具材とティミショアラで暮らす祖母のそれとは恐らく全部は一緒でないからなのか。


 二十七年前に、片方の味が永久に失われてしまった今となっては、確かめようがない。

 自分の味覚だって、その時と一緒ではないわけだし。


 斜め向かいの席からアンリがまたテーブル中央に置かれた鍋に手を伸ばして、スープのお代わりをよそっていた。


 具ばかりでなく、スープもたっぷり皿に入れる様子を見ると、「男を射止めたいなら、胃袋を掴め」という言葉を何となく思い出す。


 祖母本人は苦手でも、作る料理の味は好きだから、彼もちょくちょく訪れているのかもしれない。


「たくさん作ったから、もっとお食べなさい」


 祖母は横顔のまま、またぽつりと言った。

 少なくとも、この角度からは、纏め上げた髪から色味を残した髪が一筋も認められない。

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