これ、この状況が……!! (刺さりすぎてキモが冷える)

久美沙織『創世記』第二回

http://lanopa.sakura.ne.jp/kumi/02.html


<前略>

 人間、どーしても「自分」の育ってきた環境とか、文化が「あたりまえ」だと思うもので、イマドキノワカモノのことは、エジプトのパピルスにすら「だらしない」とかかれてるわけで、いつでもどこでも誰でも自分より若いやつは「ずるい、らくしてる、ずーずーしい」と思うものと相場がきまってるわけですが、それにしもここの変化は大きかった。

 そーゆーことをわかった上で、それでも言わせていただきますが、わしらの「消費」はまだユルかった。

 いまのみなさんは、なんでもパカスカ「消費」しすぎる傾向がある。

 ちょっとやってみて、やだったらすぐに捨てる、すぐに欲しがるけど、便利につかうけど、愛着はもたない、執着はダサいから、あまり本気でアツクなったりせず、いらなくなったらすぐに捨てる。

 なにもかも、まるで「使い捨てカメラ」のように。

 だって、いるときは、五分もあるけばコンビニか駅にたどりつくし、そこで売ってるもーん。

 みたいな。

 ちがいますか?


 でもって、「文字作品」っていうのは、消費にむかないんですねぇ。

 なにしろ、じっくりゆっくり読まないといけない。映像作品のように瞬間的にパッと見て理解して、好きかキライかを決めたりすることができない。しかも、「それまでの蓄積」がものをいう。


 活字のつらなりを理解するには、文脈と、行間を読む必要がありますから。

(映像にも文脈みたいなものはありますけど、ま、いちおー)

 ある単語が、どのような場合にどのように使われ、どのようなニュアンスを持つものであるかについての知識がなければ、その単語を理解することはできません。

 でもって日本語っつーのがまた、狭いムラ社会で、ほぼ単一民族の「根回し社会」で流通してきたものなので、「額面上の意味」と「隠された意味」、ホンネとタテマエ、無意味な挨拶的言語と、真剣にそのひとのタマシイから出てきたコトバなどなど、じつに重層的に複雑な構造をなしているわけです。


「ばか」

 というヒトコトを考えてみてください。

 あなただって何種類も使い分けてるでしょ、日常で?

 マジギレ寸前の「ばか」。

 テレぎみの愛情のこもった「ばか」。

 うんざり疲労感の「ばか」。

 しかし、表記すると、みんな同じ「ばか」ですね。

 どのニュアンスでいっているかは、どのキャラがどんな場面でいっているかによって変わる。

 そしてまた、そのキャラがどんなキャラであるのかは、そのキャラがそれまでに言ってきたコトバややってきたことなどなどから、類推される。

 だもんだから、「馬鹿」とか「バカ」とか「莫迦」とか「ばか」とか「いやンばかん♪」とか、いろんな工夫をしたりはするわけですが……それにしても、「ばか」は「ばか」。

 この「ばか」のビミョーな区別がまるでできないやつがいるってえことを、みなさん痛感しているから『バカの壁』がベストセラーになるわけですね。


 ですが、……たとえば

「あんた、バカぁ?」

 と書くと、アレをみたことのあるひとは、必ずや、惣流・アスカ・ラングレーの二次元画像(その発言をした時の表情つき)と宮村優子さまの声が「同時に見えるし聞こえる」。


 というような「ジョウシキ」あるいは「共通の認識」をおのずと持っている同士でのみ通用する表記、あるいは、読者に「そのような認識を期待する」表記、これがいまや書籍界にもどんどん乱入している。

 わたくしめは、いまどきのいわゆる「ライトノベル」というものは、つまり、そのようなものである、と定義できるのではないかと思うのです。

 生まれたときからビデオもCDもへたすると家にパソコンもあって、それらを使いこなすことがあたりまえで、であるからしてすべてのメディアのクリエイト作品をともすると「消費」しがちな脳みそを形成してきてしまったひとたちの、ひとたちによる、ひとたちのための、作品なのではないかと。


 これは、おーきくでちゃうと「文章表現という表現形式における鬼っこ」状態です。


 『新人賞の獲り方おしえます』三部作の中でわたくしめが口を酸っぱくして言った(いや書いた)のにいまだに新人賞の応募作品の多くが、どーしてもやっちまいがちなのが、このアヤマチです。


「誰にでもわかるように書け、あんたのおかあさんにも、カドのタバコ屋のばーちゃんにも、遠くはなれた別の県のひとにも、十年後のひとにも、読んだらちゃんとなにがかいてあるのか間違いなく理解できるように書け!」

 これがわからない、できない、そーゆー日本語が使えない、なのに、「小説」を書こうとして、実際に書いちゃって、自分ではデキがいいじゃん! と、幸福にも思ってしまうらしいひとが、あとを絶たないんすねー。


 歌を歌うのがすきだからって、歌手にはなれないでしょ。

 お風呂場でハナウタ歌うのが好きなのなら、歌ってればいい。

 でも、ひとに聞かせようとするなよ。

 カラオケ屋さんでナカマウチで楽しんで盛り上がるならいい。

 でも、それでプロになれると思うなよ。


 ……とかいってたら……あまりにも「あんた、バカぁ?」でオッケイで、というか、そのほうがスキなぐらいのひとたちのパイがでかくなり、その中だけでも充分商売がなりたつようになってしまったように見える今日この頃だったりはするんですけども。<後略>



 これ、これに関する危惧がヒシヒシと感じられるもんだから、そっちへ行くのを止めたんだよねぇ!!

 だってさ、これ、前提に「元ネタを知ってないと入れない」が絶対的にあるじゃんて。そんで、今の状況を見てると、こういうメタ的な共有関係は細分化の一途だもん。どんどん小さくなって、どんどんそれぞれは隔絶してって、…だったら先はないんじゃないか、という危惧だよ。


 今だって、ちょっと時代が過ぎた世代にはもう刺さらなくて、それが以前は十年単位とかだったのが五年になり、三年になり、ってどんどん短くなってる気もする!

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