【私用】なんとなく日々を過ごす中で思いつく事があれば書き留めておく雑感みたいな何か。
柿木まめ太
「はじめに」の代わりに。表現の自由について。
2000ページ以上もあるこのエッセイで、どうしてもトップに置いておきたい文書が出来たので、面倒臭い作業をして、わざわざ四年も五年も前の記事群を掻き分け掻き分けほじくり返して、このページを挿入しに来ました。面倒くさい論調だけど大事なことなので読んでくたださい。
表現の自由に対する私の考え方を表明しておきます。
昨今はどうにも表現の自由という権利の周りが騒がしいと感じます。個々人が当たり前に持っていて当然のこの権利を、何かと理由を付けて奪いたがる人が多いと。
そこで、自分なりに整理しておくことにしました。
まず、権利の規制を巡っては、近代に入って全国的に規制が厳しくなったタバコが思考の土台に相応しいかと思うので、これを元に考えていきます。
タバコは、昭和の終わりまでは確実に、喫煙者の権利の方が勝った状態にありました。タバコ嫌いな人に対してはエチケットという形でしか考慮されることはありませんでした。多くの場所が喫煙可能で、タバコの自販機には年齢制限さえ施されていないといった状態だったと記憶しています。子供がお使いでタバコを買いに行く姿も一つの風物詩と数えられました。
当時、規制派が黙っていたということはないのでしょうが、世間話にしろメディアにしろ、あまり聞こえてくることはありませんでしたね。タバコの害についてはかなり知れていて、早いうちから例の但し書き…あなたの健康を損なう怖れが云々、という文言もいつ頃からか付されてはいましたが。
形勢逆転となったのは、私の記憶ではやはり「副流煙」のデータが登場した後でした。それまでは、他者にまで害が及ぶといった証拠がない以上、喫煙の権利は守られるべき、という意見が多数派だったということでしょう。それ以上に、規制は安易に為されるべきではない、という保守的傾向が優勢だったのでしょう。
しかし、確固たる証拠が出て来てしまったために、一気に禁煙が進んだということもまた、言えることだと思います。信頼の置ける機関が出した科学的なデータに基づいて初めて、タバコの有害性は規制に値すると認められたわけです。
害を自ら好んで摂取する、それもまた自由という権利の範疇なのです。そしてこの権利を踏まえた上で検討した結論が「嫌煙派は自ら行動して避けることが出来る以上、喫煙の自由における諸権利を制限するには当たらない」となっていた。
他者への多大な害があるという説を裏付ける確固たるデータが出てきたことによって、初めて規制の方向へ舵を切り直した、ということです。副流煙の害を行動で避けることは難しいというデータによって、です。
人には当たり前に付与されているはずの数々の権利。これを規制すると言うのなら、このくらいの慎重さで当たるべき、という事例と思います。
ところが昨今の規制論者はずいぶんと軽く人の権利を制限せよと叫びます。その根拠を問えば、酷いケースだとただの論です。科学的データも何もない、単なる一説です。裏付けが取れない学問である人文科学だの哲学だのの、ただの一説によって、基本的人権を蔑ろにしようとしてきます。
フェミニズムだのポリティカルコレクトネスと言った言説は、ただの一説です。
バラエティー番組の注釈によく見る「これは世間における一説であることを云々」というアレと同じだということを、言っている本人たちすら忘れている。
歴史を扱うTV番組などのシーンにおいては、必ずと言っていいほど、「諸説あります」という但し書きを付してきます。それは、歴史のうちには確たる証拠が残されていない場合が多く、確証を得られないことが多々あることが要因です。
証言ひとつ取っても、紙面に残された文書が一級史料と認められ、その書籍類が多数あることが説の補強となり、説の信憑性を高める、といった具合です。
間違っているかも知れないと解りきっているから、「諸説」と注釈するんです。
どれだけもっともらしいお題目を並べようが、それは一説でしかない。きっちりとした測定法によって科学的に数値化されたデータによる論証がなされていない、ということです。何の根拠もないに等しい。
個々人の持つ基本的な権利の中には、表現の自由、主義主張の自由、言論の自由などがあるので、それらの説を開陳すること自体は何ら問題のない行為ですが、その「説」をもって規制が妥当であると勘違いされるのは甚だ迷惑です。
ただの一説ですから。
他者に対し損害を被るような要求をする、その根拠が、こんなエビデンスもない単なる「説話」によるなどと、それはほとんど暴力です。それを賛成多数という同調圧力を利用して行おうという行為については、すでに歴史上多々存在した事例をもって名称が付されています。「ファシズム」です。ナチスが有名です。同じです。
ところが嘆かわしいことに、こういう規制派の動きに対抗する表現規制反対派の人々の間では「それってあなたの感想ですよね?」という返しが流行っています。
この言葉はテストの解答用紙に式を省いた答えの数字だけを書くのとほとんど変わりありません。感想にすぎないというその結論自体は合っていても、聞かされた相手はまるでその真意を理解などしないでしょう。それは徒に喧嘩を売るだけと思いますし、なにより第三者からも理解を得ることが出来ない。第三者が理解しないということは、その第三者がまた間違ったゴリ押しファシストになる可能性を潰し得ないということです。面倒臭いのかどうかは知りませんが、式を端折るのは止めてもらいたいと、つい考えてしまいます。
規制を求める対象物が有害であることをまず科学分析や統計などの確実なデータによって証明すること、そのデータに基づいた学術論文が信頼の置ける機関による査読を受けて認められること、などが必要です。それを言うべきなのです。
さらに、多数派工作で賛同者を増やし、権利に対する抑圧を正当化するのにエビデンス不要の空気を作り出そうという動きは、根拠もない説話によって民意を操ったヒトラーと同じ、唾棄すべきファシズムであると、こう返すべきなんです。
世界では今、「暴力に類する力の行使による、どんな現状の変更も許さない」という機運が強まっています。私もこれに賛同します。
差別を言う者の、差別者というレッテルを貼りつける暴力を使っての、現状変更などとうてい受け入れることは出来ないし、怒りすら感じます。
2023.3.21
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます