「幸色のワンルーム」と表現の自由

 表現の自由ということに関しては、私のスタンスは「法に抵触しない限りOK」というものです。だけど、ちょっと、もっと深く考えなきゃいかんなと思いました。


 例えば、ヘイト発言に関して、私個人のスタンスだと「名指しでないならOK」という判定です。この名指しという範囲は、「髣髴させる」はアウト。いくら発言者が個人を指したわけではないと言っても見苦しい言い訳と断じる所存。


 ただ、この「髣髴させる」というのにもグレードがあるんで、ここは裁判所にお任せするしかないなと思うわけです。個人の裁量に収まらんでしょ、というか。


 表現の自由は、私としてはフランスのどっかの誰かがイスラムの預言者をパロりましたけど、あれもOKとしつつ、それに対する報復テロの宣言まではOKかな、という判定です。実行はさすがにOUTとは思うけど。口喧嘩の範疇ということで、各国間のロビー合戦ももちろんOKだから、反日抗日だってOKだろうと思ってます。


 基本、私の思う「表現の自由」は限りなくドンブリです。


 ヘイトがOKということは、オタク差別に繋がる煽動だってOKですよ、私的には。根も葉もない言いがかり、大いに結構。言うだけは自由。


 それは、差別というものもロビー活動の一環と捉えて、やられたらやり返せ、の精神でどんどん反論して相手の発言を潰していけばいい、という考えからです。差別より言論封殺の方が断然禁ぜられるべき、という考えです。


 オタクは犯罪者予備軍という風説を広げたい勢力に対抗するなら、それは根も葉もない言いがかりだという反論で塗り替える、そういう運動は「表現の自由」を認める世界においては当然に行われるべき活動であり、そこを怠けて手っ取り早く言論封殺というのは頂けない、という考え方です。


 そこまで徹底して、「言論・表現の自由」を標榜した上でも、今回の件は難しいなぁと思います。ちょっと自身の論理を整理し直す必要があるなと思った次第。


 今回の件はまさしく「髣髴とさせる」案件なのですな。現実の事件に取材したのではないのか、という疑惑が持たれるネタで描かれた作品です。作者が否定したからなんだと言うのか、その否定で片付くなら裁判所なんざ要らんのじゃ。


 で、現実の事件に取材した作品なんてのは世間に山ほどもあるわけです。しかし、その場合、ルールとして、「憶測で書いてはならない」くらいのモラルは守られねばならない。翻って、件の作品は守っているのか? この一点が焦点と言っていいんじゃないかなと思うのですね。だから、難しい。


 実際の事件を彷彿させるのか?

 憶測で書かれてはいないのか?


 この二点ですね。難しい。



 ロビー活動はそのうち面倒になってきます。そこで、法制化という合法に出るわけですので、多くのロビー活動は法制化が最大の山場ですわな。法治国家は法に従わねばならないわけで、だから表現の自由を守る気があるなら政治に無関心ではいかんのですけどね、ホントはね。(苦笑


 それから、モデルと疑われている「朝霞市の事件」というものも、あるいは多くの同じような略取監禁という犯罪では、もっと悲惨な側面を考えるべきではないかと思うのもある。


「洗脳」だ。


 色んな洗脳事例があり、そこに類似の傾向が見られる。ストックホルム症候群というのも有名だけど、これにしたって従来とは捉え方を変えるべきではないかと思えるほど、昨今はデータが出揃ってきたじゃないですか。


 実態は、もっと悲惨なものがあると思えてならないのだ。洗脳絡みならば。


 実際の誘拐被害者の心理というものがあまり取り沙汰されておらず、リアルなこの心境を描いたものも少ない。洗脳と合わせて、知られていないのが本当であり、そこに危惧するものがある。


 取材も難しく、赤裸々な告白となると、不勉強ゆえ私は聞かない。

 もっと考えねばならないなと思った次第です。



 あ、もちろん、「誘拐から始まる恋」て妄想を否定するわけじゃないよ。

 実際の事件を彷彿させないなら何やったってOKでしょ。彷彿させるなら、その時点でちゃんと取材して憶測に依らないことは必要と思うのね。取材が面倒なら、彷彿させないように気をつける。ね、簡単でしょ。



追記:

 弁護士さんの論説読んだけどさー、大穴開いとるよ。


 社会規範を引き合いにだすなら、断固として「不倫」は責められねばならん。(笑


 ま、私は不倫男女をボコボコにしてやるネタを胸に潜めていて、こういうのって、創作の醍醐味だと思ってるわけです。反論があるならまた誰かが作品にする、そうやって綿々と綴られていく思考の足跡って、イイくないですか?(笑


 表現には社会的責任が伴う、というのはそれはそうとは思うけれど、ならばこれを正しいと思ってやっていた場合は、社会的責任という弾圧を加えることに他ならない。その責任における表現のボーダーは「誰が」決めるのか。


 だけども、作品がもしあの事件に取材すると認められたら、あの作品は誹謗中傷と言われても仕方ない部分に立脚した設定となると、その弁護士さんの見解は支持する。あの事件がモデルか否か、に掛かっている極めて難しい問題ですなぁ。


 実際の事件というものは、どんな事件でも、加害者家族にも被害者やその家族にも、いつまでも終わりのこない恐怖と苦痛で、「何も変わらないよ、」と吐き棄てた秋葉原事件の犯人の親爺さんの言葉が重いなと思いました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る