電影の森でー新しい古傷ー

OSAMU

第1話

「―ここで、何かご用ですか……?」

 自殺志願者かも知れない、と思わしき老人の項垂れた背中へ、僕は意を決して誰何した。


 ―数日前からだった。この市街で一つの観光名所とされる、風光明媚な橋の中腹。そこで煤けた欄干へ寄り添う様に、一日中ただ茫洋と立ち尽くす人間の存在に気付いたのは……。

 心此処に有らずと言った風情で、変化の無い水面をじっと眺め続けている恰幅の良い初老の紳士。彼のその背中は何処か言い知れない哀愁を帯びていて、足元からは亡霊を想わせる様な長い影が舗装に伸び色濃く落ちていた。

 そして漸く我に返った老紳士の振り向き様、橋元から吹き上げられた強風に僕達の髪や衣服は柳の如くそよがされる。彼はシルク帽が中空へ舞ってしまわない様にと、反射的に力強く頭を抑え付けようとさえしている程だった。


 そう、僕達が踏み締めているこの橋は上昇風に煽られる様な高度で何百mと在る……。水面を覗き込めば、その深度に誰もが眩暈さえ感じ身体を竦ませてしまうだろう。もしも欄干を跨ぎ越えようとすれば、その後の惨劇は誰かが語る迄もない事だった。

 そんな欄干の手前で佇んでいる彼を連日に亘り見掛けていた事で、僕には或る薄暗い想像が心に留まり続けていたのだ。

(彼は、この底知れない川へ飛び降りてしまうつもりではないだろうか……?)

 それは恰も、咽喉に突き刺さり、いつ迄も取り切れない魚の小骨の様な疑念……。周囲一帯の治安管理が職務である僕としては、延々と看過出来る光景では無かったのだ。


「この場所で何かご用ですか……?」

 彼は背後から見知らぬ人間に恐々と話し掛けられた事で、少々面喰った様子を隠し切れないらしい。しかし彼は僕が羽織っているスタッフ仕様の制服を見遣ると、直ぐ様こちらの意図を察知した様に確りと向き直った。

 彼は草臥れた老犬を思わせる様な、力無い、憔悴した微笑を湛えて僕に応える。

「―お気遣い、申し訳ない。……しかしバーチャル空間でも、飛び降りたりすれば現実世界の本人迄が死ぬのかね?」

 彼は生死に纏わる重大な疑問を、料理のトッピングを隣人へ尋ねる様な気安い調子で問い掛けながら、夕陽を鈍く照り返す堅固な造りの欄干を撫で擦った……。


 ―世界的規模で近代化が為された現在。

 各国は最先端テクノロジーの恩恵を与りながらも、その弊害から動植物は減少の一途を辿っていた……。世界中が発展し自然が淘汰されて行く中で、いつしか田舎の情景と言ったものは過去の遺物と化してしまったのだ。

 今や大自然を散策する手段は、バーチャル空間内での体感が主流となっている。現実と錯覚する程の仮想空間を再現し、ユーザーが意識接続を行う事でその世界内を体感出来る、我が社の一大商品『ドリームシアター』……。

 近年発売されたこの傑作が予想以上の大ヒットを記録し、世間にはバーチャル空間の大自然へと帰巣する消費者達が続出した。

 『ドリームシアター』は専用のゴーグルを装着しネットワークに意識接続すれば、訪問したい世界中の土地、時代等のコース選択が可能である。 丹念な時代検証を行い、それぞれの風俗習慣迄をも完璧に再現した立体空間。ここには自然主義者、望郷の念を抱く者、歴史的見聞を目的にする者達等、あらゆる人間が各々の理由で訪れていた―。 

 僕はこの空間内で、ユーザーに対する案内や事故防止を生業にしているスタッフの一人なのだ。


 ……そして彼が若し自殺するつもりなら、止めなければならない。


 仮想世界と言えど『ドリームシアター』は現実性を徹底的に追究し発展を尽くした為に、五感は厳然と存在する。

 事実、体感的苦痛が現実世界の本人に直結し、昏倒してしまったと言うユーザーの事例は既に数件報告されていた。この世界での自傷や自殺行為は、或る意味で現実世界よりも簡易に踏み切れてしまうのである。

 自殺を決行するのは本来、並大抵の覚悟では決して出来ない。一例を挙げればリストカット等もその苦痛は想像を絶するもので、死に切れずに結局は本人が病院に担ぎ込まれる、と言った事例は珍しくないのだ。しかし仮想世界では肉体的限界よりも精神的感覚が優先される為に、一旦行為に走ってしまえば歯止めが効かない。

 飛び降り自殺した人間が手足や臓物を生々しく散乱させ、地上で血溜まりを造る……。そんな陰惨な光景を想像すれば、この仮想世界で耽美的に散る方法を選択する人間達が現れ始めても不思議ではない。独りでは自殺する覚悟が不足し、サイト上で有志を募り集団自殺する事件も散発している時世だ。この仮想世界こそ、その様な手合い達が集結して実践するには格好の吹き溜まりに成り得るのだった。

 

 ……悄然とする僕を真っ直ぐに見据え、老人は暫くの間、黙して語ろうとはしなかった。しかし、意を決した様に開かれたその重い口からは思わぬ理由が訥々と述べられ、僕の懸念は杞憂だったと悟らされる。


 ……五十年以上前の婚約者を待っている、と老人は告白した。戦争の渦中で生き別れてしまった女性と、「いつかこの橋を目印に落ち合う」と言う、再会の約束を契って。

 しかし動乱が収束するも、近代化の潮流で現実世界の鉄橋は撤廃されてしまっていたそうだ。

「私は、彼女に謝りたくて……。そして彼女に逢える可能性を賭けて、余生はここへ日参する事に決めたのですよ。

私の様な年代では今時の機械の扱いなんて分からんものでしてね、操作を覚えるのにも一苦労でしたが……」

 そんな風に、紳士は自嘲気味に乾いた笑い声を立てる。その後、彼は声を潜め秘密を打ち明ける様に漏らした。


「それと、これは声を大にして話せる事ではないのですが……。当時の私と彼女は実物の橋に彫り物をしましてな。本来は、この欄干に二人のイニシャルを相合傘として刻み付けた事があるんです。流石にこんな個人的で些細な傷跡迄は再現されていない様ですがね……」

そう言って彼は古びた一枚のモノクロ写真を取り出して見せた。厳密には現実世界内で本人が所有している写真を精巧にデータ化し反映した物であるのだが、兎も角その写真の中に写る欄干には、氏の語る通り「A/Y」と男女を想わせる其々の筆跡で頭文字が刻印されている。


 ……そして一通りの経緯を傾聴し、事件性が無いと判断出来た事で立ち去る頃合いが感じ取れた。僕は深々と低頭する。これ以上彼の追憶を阻害しない様にと、踵を返し立ち去る歩調を速めた。

 ……不意に、夏の甘酸っぱい匂いが鼻腔を擽る。山は深緑を広げ、そのなだらかな稜線は青垣で視界に収まらない。

森林から虫の鳴き声が合唱と成り、津々と鳴動する。川の浅瀬では泳ぎ戯れる子供達。靄靄とした茜雲の一群が滞空する中、日は更に落陽し始め、黄昏が帳を降ろす。 こんな豊潤な自然が見せてくれる牧歌的情景も、全ては仮想空間が齎す泡沫の夢に過ぎないのだろうか?


 ……老人はいつ迄待ち続けるだろう?


 仮想空間での待ち人。

 彼こそ最も全てを理解している筈だ。しかし僕に容喙する権利は無く、叉、したくなかった。過去へ遡行するタイムマシンの様な高度技術は現存し得ない。我が社の技術力を以ってしても……。しかし、だからこそ多種多様な人々が此処へ訪れ続ける。過去への憧憬が唯一息衝く場所、『ドリームシアター』へと―。

 「非現実世界への傾倒は、現実世界への虚無感を生む悪因」、と迄メディアに批判されている時代だけれど……。

 それでも、この非現実の世界でも人間の真摯な想いだけは紛れもなく「現実」だ。僕の仕事は、その為の自然と人間を護る。そう、そんな仕事なのだ。

 ふと夜空を見上げると、そのデジタルの虚空に吸い込まれそうな気がした。数瞬して、想い直し次の現場へ急行しようと瞬間的に僕は疾走する。風を切る音、胸に響く鼓動、地を蹴立てるこの両足。僕は全力で疾駆しながら、何度も心の中で反芻していた。


 ……この高鳴りは本物だと信じたいと。




                         *



 或いはここで諄々しく述べる必要は無いかも知れない後日談が存在する。と言うのも、矢張り老紳士の元へ未だ待ち人は現れていないからだ。しかし彼は日参する橋の欄干に、以前には無い微細な変化を見て取っていた……。


(利用者の事故や自殺を防止する為にリミッタープログラムの導入が急務だ、とあの青年が漏らしていたが……。既に

このネットワーク空間は様々なアップデートが為されたらしい。成る程、商品の謳い文句通り正に完璧な『再現性』だ……)


 不意に欄干へ零れ落ちる、一筋の雫。彼の双眸から降った、抑え切れなかった雨。


「A/Y」


 何処かの純朴な二人の男女が契った絆を想わせる、ささやかな手彫りの刻印。以前には存在し得ず、当事者にしか知り得ない過去の些細な傷跡迄が再現された、VR空間内での復元技術だった。


 そう、欄干には新しい古傷が刻み付けられている―。


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