覇王の首
若狭屋 真夏(九代目)
第1話 紅蓮
天正10年6月2日 明智光秀軍2万の軍勢が京本能寺を囲んでいる。対する織田信長は30人の共揃えしかいなかった。しばらくして火が放たれる。どちらが火を放ったかはわからない。しかし放たれた火はまるで漆黒の天に昇る龍のように舞い上がっていく。この紅蓮の炎が一体何を意味しているのか。それを知っているのは世にほとんどいない。世にいう「本能寺の変」である。
摂津の国平野郷でもこの炎がみえる。村の櫓から二人の男が見ている。
一人は村長の重蔵、年は70を超える。顔はしわだらけで優しそうな好々爺だが瞳の奥に鋭いものがある。
「あの炎は、一体、、、、、」
「もしや戦ではないかの?」
「ははははは。おじじさま。とうとうぼけられたか?」もう一人の男が高笑いする。この男は重蔵の孫娘梅の婿弥兵衛である。身の丈はさほど高くないが、筋骨隆々であった。数年前この村に流れてきたが腕といい度胸といい右に出るものがいなかった。そこを重蔵が気に入り婿にした。
弥兵衛はなおも続ける。
「世は右府様(織田信長)の天下じゃ。天下に聞こえたあの武田でさえ滅ぼされたのじゃ。毛利とてじきに滅びる。そんな相手に喧嘩を売るバカ大名はおらん。
そうなれば戦はなくなる。村から兵を出すこともない。」
炎はますます高くなり二人の顔を照らす。
「だとよいのだが。。。。」
「わしはもう寝る」と弥兵衛は重蔵の言葉には耳も貸さず櫓を降りていった。
(わしも年を取りすぎたか?まあ あの婿殿ならこの村を救ってくれよう。)
前述のとおり、この後誰一人としてこの後何が起こるか知らない。
「本能寺の変」の大まかな情報が平野郷に伝えられたのは次の日であった。
京から来た薬売りが明智の桔梗の旗印が本能寺を攻めたことを知らせた。
平野郷では乙名たちが集まり会談をしているが、誰一人口を開くものはいなかった。彼等の心中は「驚き」よりも「不安」が占めていた。
第一情報は一人の薬売りの話だけであるから、それが真であるか確かめようがない。
それに京から平野郷へと続く道はいつもは多くの人々が通るが、今日はまるで嘘のように猫の子一匹いない。
これだけの情報で物事を判断するのは自殺行為といってもよかろう。
かといって見過ごすわけにもいかない。
重い空気を断つように筆頭の安井市右衛門が口を開く。
「誰かを。」
「京にやる、、、、これしかあるまい」
この発言で一同はざわついた。
薬売りの話が本当であるならば京に行くことは殺されに行くことを意味するからだ。誰が好き好んで死んでくれようか。
それにただ行けばいいとゆうものではない。いわばスパイである。情報を収集し時に危険な目にあうこともある。となると、おのずと人数が削られる。
乙名たちはまた頭を抱える。地政学上この地は大勢力に属さねばならない。主を見誤ることはこの地が焼き払われるかもしれないからだ。
「わしがゆく」
この一言にその場にいた全員があたりを見回す。
若集の頭の一人弥兵衛がすっくと立ちあがった。
「わしはここの生まれではないが皆にはよくしてもらった。今こそ皆へ御恩奉じをするべきだと思う。」
「弥兵衛。。。」重蔵の眼には熱いものがあふれていた。
安井市右衛門は「弥兵衛でよろしいか?皆の衆」
「依存ござらず」重蔵がまず言った。
それに続き乙名たちは次々に賛成した。
「では、弥兵衛で決まった。」
弥兵衛は頭を下げた。
「では弥兵衛出立は明日じゃ。よいな。」
「はい」
「後でわしの部屋に参れ」
市右衛門はそういうと席を立った。
それに続きみなみな帰路に就く支度をし始めた。
「弥兵衛様」
奥向きの女中が声をかける。
「こちらに、、、」
彼女のあとにつき市右衛門の部屋に行く。
市右衛門とはのちに豊太閤に気に入られ道頓堀を作った。安井道頓のことである。この地を治める安井家の当主で商人でもあった。
当然屋敷は広い。必死に女中について行き市右衛門の部屋についた。
「弥兵衛さまでごさいます」
「おう。入れ」障子越しから市右衛門の声が聞こえる。
そっと障子を開けると弥兵衛は胆を抜かれた。
見たことのないようなものがずらりと並んでいる。
虎の皮。ギヤマン。火縄銃もあった。
「ようきた。お座り」市右衛門は先ほどとは違い柔和な顔つきをしている。
「これを持って行かれよ」
赤ん坊ほどの袋と一振りの刀であった。
袋の中をのぞいてみると小粒銀であった。これほどの額であれば一生食うに困らない。そして弥兵衛は刀を手に取りゆっくりと鞘を抜いた。
「当家重代の家宝五郎入道正宗だ」
市右衛門の顔が鋭くなる。
「いのちがけ。。。。だぞ?」
「わかっております」弥兵衛は刀を鞘に納めた。
「かならずもどってまいれ。死んだら重蔵に終生頭が上がらぬ」
市右衛門は笑った。弥兵衛も笑った。
弥兵衛は安井の家を出て村に帰る。
恋女房の梅に会いたくなったからだ。
幸い夕方には村に戻ることができた。
「梅。梅」
家の前で声を出してみたが梅はでてこない。
弥兵衛は戸を開けると暗い部屋の片隅で泣いている。
「どうした、梅?」
弥兵衛の問いに「じじさまに聞きました。」と泣きながら答えた。
梅は小柄な女である。15の時に弥兵衛と結ばれた。
その肢体は弥兵衛を満足させたし、梅も弥兵衛の体に酔った。
「まだ死ぬとは決まっておらん。わしはお前を守るために行くのじゃ。」
「ほんとうに。。。。」
梅のか細い声が聞こえる。おもわず弥兵衛は梅を抱きしめた。
「本当じゃ」
梅のはじける肌に弥兵衛は思わず口吸いをした。
「いけません」
とは言いながらも抵抗はしない。
やがて梅の体から力が抜けてゆく。
「あぁ」梅は快感に囚われた。
そして夜になり出立の朝が来た。
弥兵衛は野良着になり大八車を引いている。大八車には市右衛門にもらった銀や五郎入道正宗を載せてある。
(たとえ明智の軍に見つかろうとこれなら近くの百姓にしか見えまい)
乙名たちや村の皆が見送る。梅は昨夜のことを思い出しているのか頬が赤く見えた。
「では行ってまいる」
こうして弥兵衛は村をでた。初夏の心地よい風が弥兵衛の頬をなでる。
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