丘の上
空野太陽
第1話
早朝、彼女を起こし、外出の準備をするよう伝える。
黒のカーディガンの上から白い厚手のチェスターコートを羽織り、青色のマフラーを首に巻いてゆく僕に、彼女は眠たそうに目を擦りながら尋ねた。
「……こんな早くからどうしたの?」
まだ時計の短針が5時に届いていない。いつもなら寝ている時間だった。
「君に見せたいものがあるんだ」
ほら、君も着替えてきて。と寝惚けたままの彼女を部屋に押し込む。
しばらくして、大きめのショルダーバッグに僕が荷物を詰め終えた頃、彼女が部屋から出てきた。
着替え終わった彼女は白いニットに空色のダッフルコート、膝丈の藍色のフレアスカートという格好だった。
「それで、どこに行くの?」
いつも通りの
「まだ秘密」
僕はそう言って、バッグを肩に掛ける。
少しムッとした顔の彼女に、いたずらっぽく笑ってみせる。
「ごめんね。でもきっと、気に入ってくれると思う」
戸惑いの表情を浮かべる彼女の手をとって、夜明け前の世界が待つ玄関の扉を僕は開いた。
さく、さく、と僕らの靴が雪を踏みしめる音だけが聞こえる。はらはらと舞う雪がコートに薄く積もり、バッグを肩に掛け直す際に音もなく落ちていった。
「——ねぇ、あとどれくらい歩くの?」
緩やかな丘を登っている僕達。先を歩く僕を見上げながら、彼女は久しぶりに口を開いた。ここに来るまで30分ほど。彼女の頬はやや上気し、息も少し上がっていた。
彼女の吐息が白く凍り付いて、透明に澄んだ朝の空気に融けていくのを見ながら、僕は答える。
「もうすぐだよ。あと10分もすれば着くと思う……ほら、あそこ」
僕は丘の上にある大きな木を指差す。
「あの木の下までだよ」
目的地が分かって安心したのか、彼女の表情から疲労の色が薄れ、前を向く目に力が戻る。しかし、寒さからか足は震え、手袋のしていない両手は赤くなってしまっていた。
「……アリス、手を」
彼女の手を取り、手のひらを重ねた。彼女の指は氷のように冷たく、今まで気付けなかったことに罪悪感を覚えた。
ごめんね。という気持ちを込めて、彼女の手を包み込むように握る。
「あ……」
彼女は小さく声を上げ、
「ん——」
ギュッと、握り返してくれた。
僕はもう一度、彼女と繋がっている右手に小さく力を込めた。そのまま彼女を引っ張るようにして歩みを再開し、丘の上を目指す。
まもなく、目的にしていた大きな木の下へと着いた。繋いでいた手を解き、僕はそこでバッグを下ろすと、中からレジャーシートと水筒を取り出す。
「まだ時間はあるから、少し休憩しよう」
そう言って彼女をシートの上に座らせる。水筒から紅茶を注ぎ、湯気を立ち上らせるそれを彼女に手渡した。
彼女は受け取りながら、やや批難がましい目でこちらを見る。
「それで? ここで何を見せようっていうの?」
「もう少しだけ待って。すぐに分かるから」
「また秘密?」
「……うん、ごめん」
流石に申し訳なく思い、顔を俯かせる。すると今度は、彼女の方から手を握ってきた。
「——あたしを、喜ばせようとしてくれてるんでしょ?」
「あ、あぁ。きっと、喜んでくれると思う」
「なら、いいわよ」
微笑んで見せる彼女。その背後で、待ち望んでいた光景が姿を現そうとしていた。
「見て、アリス」
彼女が振り返る。視線のずっと先、地平線から太陽が上ろうとしていた。
――夜明け。
空に横たわっていた夜の蒼は、朝日の色と混じり、白みを帯びたオレンジ色に染まっていく。今まで歩いてきた白銀の道のりが照らされ、小さな宝石が散りばめられたようにキラキラと輝いていた。
しばらくその美しさに見とれていた僕は、手を強く握られる感触に、隣の彼女を見た。
彼女は目の前の銀世界と同じくらいの輝きをその碧眼に宿し、ただ前を向き続けていた。
「気に入ってもらえたかな?」
彼女の瞳が僕を見る。何かを言おうとするも言葉に出来ないのか、彼女はしばらく唇をわななかせ、
「おっと」
僕の腕に抱きついてきた。
そして、
「……気に入った。ありがと」
そう、小さく漏らした。
僕はなんだか可笑しくて、自然と笑顔になった。
「アリス」
「ん?」
近くで僕を見上げる彼女。その顔を覗き込むようにして、今日言わなければいけない――いや、言いたい言葉を、彼女に告げる。
「ハッピーバースデー、アリス」
丘の上 空野太陽 @sorano
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