モルス戦記

入浴

降り注ぐ災厄

第1話 地獄に差した蒼光

プロローグ

少年は、茫然と頭上を見上げる。視線の先には、地獄があった。

否。正確に言うのであれば、地獄を体現する『存在』があった。

地上を見下し、嵐のような羽ばたきを地上に降り注ぎ、力強い咆哮と共に炎を地上に撒き散らすそれは、紛れもなく太古の昔、帝国の魔法使いと騎士によって、この世界から完全に殲滅されたと言い伝えられている竜だった。

古くより、人々に崇められ、奉られ、そして、恐れられてきた竜。

そのあぎとから放たれる炎は、全てを焼き付くし、咆哮一つで、雷を呼び起こすと言われている。

そして全身は、あらゆる攻撃を受け付けない頑丈な鱗に覆われて、生半可な攻撃は一切通じず、更に驚くことに、人類語を理解するほどの知能を有して、魔法すら操ったと言われている。

紛れもなくこの世界で、最も高位だった存在。

殺し尽くされたはずのそれは、少年の視線の先に確かに存在していた。

パチパチ、と物が燃える音が辺りに響いている。少年の傍には誰とも判別のつかない全身が真っ黒な死体がいくつもあり、そしてたくさんの焦げた建物の残骸が、散らばっている。

正に地獄のような様相を成しているそれらは、少年の友人であり、家族であり、自分の帰る家であったものだ。


ほんの数分前、少年は村からやや離れた場所にある泉で水を汲んでいた。帰ろうと振り向くと、木々の隙間から赤い光が漏れ出していた。

何が起こってるのかもわからず、全速力で、何度も転びそうになりながら、村があった場所に引き返した少年を待っていたのが、この惨状だった。

少年を1人この地獄に残し、みんな逝ってしまった。


この光景を作ったのはたった一匹の、頭上の竜だった。ぎょろりとした目が、数秒間少年の周りの空間を行き来した後、少年を捉えた。

瞬間、向けられる圧倒的な殺意。足が、動かなかった。喝を入れて立ち上がろうとするが、震えが止まらない。少年は驚愕と恐怖によって、微動だに出来ずにいた。

——どうしてこんな事になってしまったのか、なぜこんな事が起こっているのか。頭の中で繰り返されるのは、それだけ。

竜があぎとを開いた。それを見ただけで、この光景を作り出した炎が、あと数秒もしないうちに、自分の身を焼くことが、その時の少年には理解出来た。『ああ、これから自分は死ぬのか』という静かな諦めと共に少年は生きることを放棄し、少年に向けて避けようのない膨大な熱量を伴った爆炎が放たれた。

しかしそれが少年の身を焼くことはなかった。爆炎が少年の体に到着する寸前に、透き通った美しい声が辺りに響き渡った。《ホーリーレイ》と。

直後に少年の後方から飛び上がった光の線が少年の頭上を通過して爆炎と衝突し、互いの威力を完全に殺していた。2つが衝突したときに生まれた衝撃波が少年の体を叩く。少年は為す術もなく後方に吹き飛ばされ、少年は後ろにいた何かにぶつかった。振り返るとそれが足であることがわかり、まだ人が生きていたのかと思いながら相手の顔を見上げた。



……瞬間。世界が静止した。

そう思えるほどにそこにいた女は凄絶に美しかった。


少年は女を見上げたまま、動けずにいた。

その女は少年が生きてきた17年間という生涯で見た、あらゆる物の中でも、段違いの美しさと存在感を纏っていた。

髪は水色に近い青。柔らかそうな唇は桜色。そして長い睫毛に飾られた大きな瞳はサファイアのようだった。

女が口を開き、

「よかった。生き残りがいたのですね、もう大丈夫ですよ。」と少年に微笑みかける。

だが、その可憐な微笑みを前にして少年の思考は全く別の所にあった。

その声は、爆炎を相殺した光が上がった時に聞いた声と同じ音色だったのだ。

「落ち着いて話をするには、上の竜が邪魔ですね。先にアレを片付けてきます。」

と女は言い放ち、頭上の竜を睨みつける。

爆炎を相殺された竜は、女を新たな攻撃の対象としたようだ。女から片時も目を離さず、爆炎を口内に蓄えている。一言も発せずにいる少年をよそに、女は地を蹴って上空へ跳んだ。ただそれだけで、家一軒分ほどの竜の目線の高さまで、軽々と達する。女は不可視の何かを足場として、平然と、竜と同じ高さに立った。

爆炎を蓄え終わった竜が、それを前方に放つが、女は不可視の足場を蹴り飛ばして跳び紙一重でそれを躱した。そして掌を竜に向け、《スパークブラスト》と呟いた。

強烈な閃光と轟音を撒き散らしながら竜の全身を包み込むほどの雷が迸った。それは避ける間もなく竜に衝突し、その威力を余すことなく、竜の全身に与えた。

竜がかん高い悲鳴を上げる。たった一撃で竜の分厚い皮膚に大ダメージを与えた女は、……なぜか悲痛な面持ちで泣き叫ぶ竜を見つめていた。

思わぬ痛恨の一撃を受けた竜は辺りに響き渡る咆哮を放った。瞬間、上空で散り散りだった雲が集合し、1つの巨大な雷雲が形成されていた。

少年は耳を塞ぎ、女は全く動揺することなく、ただ竜を見つめていた。と、女が突き出していた腕を素早く上空に向けた。瞬間、上空の雷雲から雷が女に降り注いだ。

だが、それは女の掌の前にある障壁に触れ、跡形もなく消滅した。

上空からの奇襲も難なく防がれ狼狽した様子の竜は、女に向け複数の火球を吐き出した。女は不可視の足場を蹴って跳び周り、最小限の動きでそれら全てを、華麗に回避する。

竜は力いっぱい顔を後ろに引き、最後に特大の火球を放った。女は《フリーズスフィア》と言い放ち、火球と同じサイズの氷球が放たれた。2つの球体は互いの威力を殺し、美しい光の残滓を空中に撒き散らした。

痺れを切らしたのか、竜は無我夢中の突進を開始する。女はそれを躱す素振りすら見せず、ただ掌を前方にかざし、《インフェルノタワー》と言う呟きだけでそれに応じた。直後、女の目前まで迫っていた竜に巨大な火柱が降り注いだ。竜の全身を莫大な火炎が破壊しつくし、両翼が引き裂かれる。飛翔力を失った竜は、長い悲鳴の尾を引きながら地上へ落ちていく。

それを上空から女は哀しそうな表情でみつめ、「ごめんなさい、落ちて。」と呟いた。

竜は地面に叩きつけられ、少年の目前で浅い呼吸をしている。

改めて近くで見ると…その体躯は想像よりもはるかに巨大だった。全長は少年を10人並べたほどであった。浅い呼吸をする口元から覗く牙が包丁のように長く、鋭い。鋭利な棘に飾られた長い尾は丸太のように太かった。

女が不可視の足場を解除し、地上に勢いよく落下するが、足が地面につく寸前に落ちる速度が減速し、高さの割にふわっと着地する。

地に足がついた瞬間、「近寄ったらダメです!」と大声で警告され、少年は慌てて竜から離れた。

女は竜の元へ走り寄り、息がまだあることを確認すると、深く息を吐いた。美しい横顔だった。

女は振り返ると

「怪我はありませんか?」と少年に心配そうな表情を向けた。

「軽い火傷はあるけど大きな怪我は特にないよ。ありがとう」と色々な疑問を噛み殺し、何とか少年は応えた。

「それはよかった」と女は微笑んだ

少年の胸が高鳴った。それは、人の顔と呼ぶには、あまりにも完璧で、あまりにも美しすぎた。

「あなたの周りに様々な事が起こって、全く頭がついていけてないと思います。ですので私の話を聞いてください。私の知っている全てをお教えします。」

少年は素直に頷く。

「と、その前に、自己紹介をしましょう。」

女は少年の目をしっかりと見据え、

「私はミラ。モルス帝国から来た魔法使いです。」と名乗った。

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