第9話 家族を失った日

 梓川あずさがわ恋華れんかがカントルムのエージェントとして故郷こきょうの日本をおとずれる時より3年前。

 恋華れんかがまだ都内の実家に住み、高校の卒業式を明日にひかえた夜のことだった。

 その夜、恋華れんかは自室のベッドに身を横たえて眠りにつこうとしていたが、何か重くだるい空気を感じてなかなか寝付くことが出来ずにいた。

 それでも室内灯を消して布団ふとんの中にいると、ふいに大きな物音が廊下ろうかから聞こえてきた。


「なに?」


 人がゆかに倒れるような音と振動しんどうおどろいて、ベッドからね起きた恋華れんかは室内の明かりをつけて部屋のとびらを開け、廊下ろうかに飛び出した。

 時刻は深夜2時をぎ、家族はすでに寝静ねしずまっているはずだった。

 かりの消えたままの廊下ろうかに出ると、そこに立っている人影ひとかげが見えたので、恋華れんかはすぐそばにあった電灯でんとうのスイッチをつけた。

 煌々こうこうと明かりのともった明るいはずの廊下ろうかは、ただよう黒いきりのような空気によどみ、どこか薄暗うすぐらく感じられる。

 そんな中、廊下ろうかのちょうど真ん中に立っていたのは恋華れんかの父親だった。

 だが、その表情は娘の恋華れんかが今まで見たことのないほどに変容へんようしていた。

 これ以上ないくらいにり上がった目は充血じゅうけつし、歯をむき出しにした口からはだらしなく唾液だえきれ落ちている。


「お、お父さん?」


 そう恋華れんかびかけたが、父はまるで娘のことをおぼえていないかのように恋華れんかに向かってうなり声を上げた。

 そして父と目が合ったその瞬間、恋華れんか猛烈もうれつ頭痛ずつうおそわれて頭をかかえ込んだ。


「な、何コレ……い、いたい……」


 まるで頭の中に無理やり何かをめ込まれようとしているかのようなはげしい頭痛ずつう恋華れんかは思わずしゃがみ込んでしまった。

 その視界しかいはしに、廊下ろうかに倒れている母の姿すがたうつった。


「お、お母さん!」


 母は父の足元に倒れていて、先ほどの物音は母が廊下ろうかに倒れ込んだ音だと恋華れんかさとった。

 すぐにでも母のもとへけ寄りたかったが、頭をおそう激しいいたみは想像をぜっするほどで、恋華れんかはうずくまったまま動けなくなってしまった。

 父はその場に立ちくしたまま一歩も動こうとせず、じっと恋華れんか見据みすえている。

 その時、背後のとびらが開き、恋華れんかの妹でまだ10歳の砂奈さなが自室から廊下ろうかに歩み出てきた。

 部屋で眠っていたおさない彼女も姉の恋華れんかと同様に、大きな物音に目をまして廊下ろうかに出てきたのだ。


「お姉ちゃん? どうしたの?」


 眠そうな目をこすりながら出てきた妹に、恋華れんか激痛げきつうをこらえながら必死にさけんだ。


砂奈さな……来ちゃダメ!」

 

 本能的ほんのうてき危険きけんを感じ取った恋華れんかは妹をこの場にいさせてはいけないと思った。

 だが、立ちくしたままの父親は、今度は妹の砂奈さなをその血走ちばしった目でじっと見据みすえる。

 それは一瞬いっしゅん出来事できごとだった。

 砂奈さなは父親に見据みすえられた途端とたん、眠るように目を閉じてゆかの上に力なく倒れ、ピクリとも動かなくなった。


「さ、砂奈さな!」


 父の視線が妹にうつった途端とたん頭痛ずつうがわずかに軽減けいげんされ、恋華れんかうようにして妹のそばに身を寄せた。

 妹はまるで糸の切れた人形のように目を閉じたまま廊下ろうかに横たわっていた。

 変わりてた父のまるで悪魔のような恐ろしい形相ぎょうそうに、恐怖のあまり失神しっしんしたのだと恋華れんかはそう思った。

 だが……砂奈さなは息をしていなかった。


「さ……砂奈さな?」


 恋華れんかふるえる手で砂奈さなの細くて小さな体をすったが、砂奈さなは目をまさなかった。

 すぐに恋華れんかは以前に学校の防災訓練ぼうさいくんれんで教わった一次救助処置きゅうじょしょちの方法を思い出しながら砂奈さなの胸に手をやったが、その心臓しんぞうがまったく動いていないことを知り、愕然がくぜんとした。


「そんな……砂奈さな! しっかりして!」

 

 必死の形相ぎょうそうで妹の名をさけび、すぐに心肺蘇生しんぱいそせいを行おうとする恋華れんかを再び激しい頭痛ずつうおそった。

 それは先ほどよりもさらに激しい頭痛ずつうで、恋華れんかは動けなくなってしまう。

 激痛げきつうのあまり、頭だけではなく体全体がしびれて自由をうばわれてしまったようだった。


「くっ……」


 恋華れんかはうずくまったまま顔を上げ、立っている父を見上げる。


「お父さん……やめて……お願い。砂奈さなを助けて」


 必死に声をしぼり出す恋華れんかだったが、その言葉もまるでとどいていないように父はただおにのような目で娘を見据みすえ続けていた。

 倒れて動かなくなった妹のかたわらで、恋華れんかは自分の意識が遠のいていくのを感じた。


(だめ……砂奈さなを……助けなきゃ)

 

 恋華れんかは必死に自分をふるい立たせようとするが激しい頭痛ずつうのため思考しこうすらもままならず、意識いしき混濁こんだくとしたうずの中へと飲み込まれていった。

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