腫瘍の首を絞める
涙墨りぜ
腫瘍の首を絞める
彼は考察する。彼は彼女を憎んでいる。
彼女は彼の恋人であった。とても美しく、彼を心底愛していたが、少々気が触れていると噂されていた。
「私、恋をするとだめなんです」
初対面で、彼に包丁とラブレターを突きつけながら彼女は言った。
「これ、読んでください」
彼は流されやすい性質であった。やがて彼女は彼に寄り添い、彼を支配し束縛した。彼女は彼に全てを惜しみなく与え、彼から全てを惜しみなく奪った。
「愛しています、愛しています」
今日も彼女は、目隠しをされ手首を縛られた彼の耳元で繰り返しいる。
「あなたを愛しています、あなたを私でいっぱいにしたい」
彼女は囁き続け、彼は黙っている。いつも通りのふたりの時間だった。
彼は屈辱と、何をされるのか分からない若干の恐怖に耐えながら、彼女の気が済み、縛めを解いてもらえるのを待っている。おとなしく彼女の愛撫を受けながら、彼女との日々を思い出している。手錠で繋がれた生活を強要されたときのことも、無理やり舌を入れられ奪われたファーストキスも、刃物を突きつけられ脅される日々も、すべて、覚えている。
心の中は憎しみでいっぱいだ。憎悪の感情で壊れそうだ。いや、もう壊れている。自分を壊したのは彼女。穢したのも彼女。自分は心底、彼女を憎んでいると、彼はそう自覚していた。
(もう限界だ)
やがて彼女が、覆いかぶさっていた身体を離し、彼の手首を縛るテープを外す。そしてもう一度彼の耳元まで寄っていき、一言、囁いた。
「私のこと、どうしたいですか」
それを聞いた彼はばねのような動きで起き上がり、目隠しを外すと躊躇なく、目の前の女の首に手をかけた。
彼は考察する。自分は彼女を憎んでいるのだ。自由を取り戻すためには、この憎い女からの解放が必要だ。後でどんな罰を受けるとしても、それが必要だと思った。
『人を愛するとか憎むとか、そういうことの前に法律は無力だと思いませんか』
ああ、こんな時にまで彼女の言葉が浮かんでくる。侵食されていると、末期患者なのだと、彼は思った。彼女を殺さねばならない。何もなくなって空っぽになるとしても、この大きな腫瘍を取り除かねばならない。
彼女の企みは成功している。頭の中は彼女でいっぱいだ。彼女への憎しみでいっぱいだ。殺してやる。殺してやる。
ふと彼女を見ると、妖艶な笑みを浮かべていた。さあおやりなさい、そんな挑発的な微笑みにも見えた。
「僕は考察した。……次は絞殺の番だ」
にぃぃ、と口角が上がるのを、彼は感じていた。これで、これでようやく、自由になれる。
首に回した手に力を込めると、美しい彼女の顔が、徐々に苦痛に歪んでいった。じっとその表情を見ていると、突然彼女の頬に一滴の透明な液体が落ちたのが確認できた。
(何だ、これは)
「できないんですか」
思わず手を離した彼に、彼女は咳き込みながら言った。返事も返さずもう一度、逃げようともしない彼女の首に触れようとした瞬間、その液体が自らの両目から流れ出るものであることに、彼は気づく。その瞬間、彼の手はだらりと体の横まで落ちた。もう一度伸ばしてみても、かろうじて彼女の首を捉えた両手には、彼女を絞め殺せるだけの力が入らなかった。
「あなたは私を、殺せないんですね」
やがて彼女が残念そうに呟いた。謀られていたのだ、少し冷静になった頭で彼は思った。
彼は考察する。彼女は殺されたかったのだ。腫瘍となって彼に苦痛を与え、やがて排除され消えることを望んでいたのだ。
自分勝手な女だと思った。腹立たしいとも思った。それでも彼は、ゆっくりと起き上がる彼女に目を釘付けにしたまま、それを置き去りに部屋を出て行くことができずにいた。
(どうしようもないほどに、こいつは僕の一部になってしまったのかもしれない)
「すまない」
そう言うと、一瞬の躊躇の後、彼は彼女を抱きしめた。
「君を殺せない僕だけど、このまま一緒にいることはできないだろうか」
彼女は彼の胸に手をつき、身体を少し離した。そして、彼の目をじっと見つめる。彼女のその目を縁取る濃い黒のアイシャドウが、先ほど彼が流したのとよく似た液体でみるみる滲んでいった。
彼女が声を上げて泣き出すまでに、そう時間はかからなかった。彼は泣きじゃくる彼女の身体にもう一度腕を回し、その身体の暖かさを味わいながら、彼女との日々を思い出した。淀みなく響く囁き声も、重ねた手の柔らかさも、存外に可愛らしい笑顔も、何か自分にとって新しい意味を持つように思えた。怒りも憎しみも消えぬままそこにあったが、それとは別の感情によって幾分薄まったような気すらしていた。
「愛しています」
彼女がしゃくり上げながらもなんとか言葉を紡ぐ。それを聞いた彼は目を閉じ、腫瘍とともに生きる覚悟を決めた。
腫瘍の首を絞める 涙墨りぜ @dokuraz
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