リベンジ予告

吾妻栄子

リベンジ予告

 部屋に戻ると、薄暗く陰になった机の上で小さな光が点滅していた。


 緑、青、緑、青……。

 小さな光は二つの色を行き来する形で点滅する。


 もう夕暮れ時で、雪模様のレースカーテンを引いた窓の外では小雨が降り続いている。


 そうだ。

 今朝は、スマホを家に置いて学校に行ったんだった。


 そう思い出しつつ、充電器のコードをスマホから引き抜く。


 受話器のアイコンの上には「1」、閉じた封筒のアイコンの上には「2」と表示されている。


 傾いた受話器のアイコンをタップすると、表示された着信履歴は「1時間前 木嶋聖貴きじまきよたか」。


 予想通りの名が出たのに、むしろそれゆえに背筋がぞくりとして、手の中で文字列が震える。


 ホーム画面に戻して、閉じた封筒のアイコンを叩く。


 案の定、全体の受信ボックスではなく、「セイキ」と名付けられたフォルダの上に赤く「2」の数字が示されていた。


 胸を刺されたような感じに襲われる。


 震える指で、赤い「2」の数字を弾く。


 開かれたフォルダの中には、電話の着信履歴と同じ「木嶋聖貴」の名が二つ並んでいた。

 後から来た方にはクリップの印も付いている。


 読んだ傍から削除してしまうから、この「セイキ」フォルダにはいつも未読のメールしか入っていない。


 本当は新しい方から確認したいが、あいつの要求を正確に把握するためにも、古いメールから開く。


“From 木嶋聖貴 06/22 09:49  

 それはないよ。手術だって話し合いもせずに全部そっちだけで勝手にやったのに、どうしてこっちが悪者にされるの? 産むなら責任は取るってちゃんと伝えたよね? 逃げたのは未来みくの方だよ? 俺が無責任に逃げたわけでもないのに、別れたいと言われても受け入れられない。”


 こいつのメールはとにかく疑問形が多い。

 こちらの自発的な意思であるように見せかけて、自分の思い通りに動かそうとしているからだ。


 見え透いているのに、逃げられないのが口惜しい。


 取り敢えず、最後の一行が伝えたいことの全てだと分かったので、ゴミ箱のアイコンをタップする。


 これで、別れを拒否する彼のメッセージは私のデータから消し去られた。


 フォルダには、クリップの付いたメールだけがまだ残っている。


 別れを承服しない男が、添付画像付きで送り付けて来た最新のメッセージとは……。


“From 木嶋聖貴 06/22 10:10  

 六時にいつも通り川原に来て。学校は五時には終わるから、そのまままっすぐ来ればいい。すっぽかしたら、分かるよね?”


 疑問文で終わった文面の下には、誇示するように笑う半裸のあいつの首に抱きついて、引きつった笑顔をこちらに向けている下着姿の私が映っていた。


 よく目を凝らせば、私の目も鼻もうっすら赤くて泣いた後だと知れる。

 撮るのを嫌がって、背中に思い切り蹴りを入れられたからだ。


 でも、事情を知らない人が見たら、バカな女子高生が男にのぼせ上がって、むしろ喜んで撮らせていたみたいに思うんだろうな。


 それこそ、こいつの思う壺だ。


 聖貴の下には、そんな風にして撮った私の写真や動画が山ほどある。

 このメールの写真は、まだその中でも控えめな部類だ。


 ゴミ箱のアイコンを弾くと、画面いっぱいに映っていた二人の笑顔は消え、フォルダの中は空っぽになった。


 仮に無理やり撮らせた真相が知れたところで、私がそんな姿を記録に残した、そもそもそんな男と関わりを持っていた事実に変わりはない。


 何度、考えても、この結論にぶち当たると、目の前が暗くなる。


 せっかく家に戻ったばかりだが、また、出ることにした。

 彼が来いというのだから、仕方がない。


 今日は母も夜勤だから、遅く帰っても、何の問題もないのだ。


 *****


 階段を降りて、玄関に向かう前に床の間に行って、仏壇に頭を下げる。

 お父さん、ごめんね。

 でも、私もこうなりたくてなったわけじゃないの。

 遺影の父は、穏やかに微笑んだ顔のまま、何も答えてくれない。


 玄関を出ると、小雨から本降りに変わりつつあった。

 ドアの前の傘立てには、紺色の傘と赤と白のチェックの傘がそれぞれリボンを留めた形で入っている。


 紺色がもう一年も使われていない父の物で、赤と白は私のだ。


 母のクリーム色の傘はないから、多分、出掛けに天気予報を見て持っていったのだろう。

 そもそも、今週は今日までずっと降り続くという週間予報が出ていたと思い出す。


 赤と白の傘に手を伸ばして、一瞬迷ったが、引っ込めた。

 もう半ば濡れてしまっているから、今さら差さなくてもいい。

 どのみち、早めに切り上げるつもりだし。


 二本の傘が並んでいる姿に笑い掛けて、むしろ身軽になった気持ちで歩き出す。


 去年の今頃、やっぱりこんな風に雨が降っていた晩に、父が事故で亡くなってから、私も母も紺の傘を家族の傘立てに入れたままにしていた。


 白い布を被せられた遺体を確認し、骨にして墓に収めても、どこかでまた帰って来てくれることを期待していたのだ。


「もう、戻れないのにね」


 お父さんはきっとすぐに成仏して、この世をもう彷徨さまよってはいないんだ。

 もともと物事にはこだわらない人だったし、残された私たちのことも信頼していたから。


 一人ごちた私の肩に、雨が一粒一粒強さを増して打ち付けてくる。


 時刻としてはもう夕方だが、夏至の空は、まだ明るい。


 *****


 大通りに出ると、雨のせいか道が異様に込み合っていた。

 車道はもちろん、歩道もまるで縁日のように色とりどりの傘を差した人でごった返している。


 手にしたスマホを確かめると、液晶画面が表示する時刻は「17:45」。


 道が空いている時なら、河原までは十分も懸からないけど、この様子だと十五分で着く自信はない。


“もうすぐそっちに着くから、待ってて”


 急いでメールを打って送信する。

 具体的な時刻は指定できないし、その必要もないから、「もうすぐ」とだけ書く。

 あいつが要求しているのは、私が六時きっかりに到着することではなく、もう一度顔を合わせる意思を示すことなのだから。


“1件Eメール送信しました”


 画面はパッと明るく送信完了のメッセージを表示して薄暗くなった。

 誰がどんな内容を書き送ろうが、機械はマニュアル通り動くのだ。


 取り敢えず約束の場所に行く意思を示しておけば、あいつも早まった行動には出ないだろう。


 ブブブブブブブブブブブブブブ……。


 思わずびくりとして空を見上げると、真上の曇り空をヘリコプターが飛んでいくところだった。


 眺める内にも、灰色の空に浮いた巨大なハエじみた黒い影は遠ざかっていく。


「マスコミ、もう来てるぞ」


 人ごみの中で誰かが呟いた。


はええな」


 また別の一人が嘆息する。


 この先で大事故でも起きたのだろうか。


 一瞬、あいつが事故に巻き込まれて、携帯電話ごと焼け死んでくれていないかと期待してしまう。


 でも、こちらからのメールは無事に送信されたみたいだから、多分、あいつも所持品も無傷なんだろう。


 平凡というより、むしろ平均より冴えない私には、名前を書くだけで相手が死んでくれるノートや手助けしてくれる死に神なんて、願っても舞い降りてこない。


 もともと運にはまるで恵まれてないんだ。


 だから、ろくでもない男に散々遊ばれた挙句、リベンジポルノをちらつかせられて別れられずにいる。


 リベンジポルノ、か。


 一体、あいつがしようとしている仕打ちのどこが復讐リベンジなんだろう。

 今までされてきた理不尽の延長、拡大としか思えない。


 そもそも、私と彼の関係は、最初から恋愛とさえ……。


「通行止めだって」


 前の方から不満を鳴らす声が飛んできた。

 周囲で一斉に舌打ちや溜め息が続く。

 不機嫌や失望は伝染するのだ。


「冗談じゃないよ、帰宅ラッシュって時に」


 崩れ出した人の波の中でまた誰かがぼやいた。


 進めなくなった方角を見やっても、こちらと同じように雨粒が斜線を引いているだけで、煙が昇っているわけでもなければ、津波が押し寄せてきているわけでもない。


 ただ、もう、一般の人間には立ち入れないだけの強制力が働いているのだ。


 *****


「やっぱり、ここにいたのね」


 声を掛けると、携帯電話の画面を凝視していた聖貴はびくりと顔を上げた。


 雨降りとはいえ、夏至の白んだ夕空の下、その顔は血が全て抜き取られたようにほの白く浮き上がって見える。


 まるで日暮れの廃ビルの屋上に現れた幽霊少年といった風情だが、生身の人間である証拠に、その足には泥のこびり付いたスニーカーを履いていた。


 いや、スニーカーばかりでなく黒いジャケットの袖口やジーンズの膝下全体が泥や砂で汚れている。


「河原はもう通行止めで入れなかったの」


 ガシャッ。

 歩み寄っていく私の足元に、メールの文面を示したままの携帯電話が投げつけられた。


“From 間宮未来 06/22 17:46 

 もうすぐそっちに着くから、待ってて”


 さっき送ったメールだ。

 拾い上げた携帯電話の画面を目にすると、何だかおかしくて笑えた。


「お前……」


 勢いが弱まった雨の中、泥だらけのまま、ずぶ濡れになった聖貴は言い掛けたまま、凍り付いている。


「河原でもあなたの部屋でもないとすると、ここしかないですよね」


 私は立ち止まって携帯電話を片手に持ったまま、両腕を広げて指し示した。


 元は雑居ビルで、今は電気、ガス、水道といったあらゆる機能を止められ、鉄筋とコンクリートの抜け殻になってしまった、この建物の煤けた屋上を。


「ここなら誰も来ない」


 雨曝しにされ、すっかり黒灰色に変じたタイル張りの床に、言い放った声が低く転がり落ちた。


 まるで録画の一時停止のように、彼は瞬きもせず固まっている。

 その姿に吹き出して、私は続ける。


「覚えてるでしょ?」


 返事の代わりに、濡れた黒ジャケットの肩が感電でもしたようにぎくりと震え上がる。


「最初にここに連れ込まれて襲われた時に、あなたはそう言った」


 遠くからサイレンの音が響いてきた。

 パトカーか、救急車か。

 音だけで姿は見えないので分からない。


「その時までは、本当にセイキ先輩のこと、好きだったんだけどなあ」


 乾いた笑い声が遠ざかるサイレンと囁くような雨音に紛れていく。


「お父さんが死んで、慣れないバイトを始めた時、優しく教えてくれた」


 濡れ鼠になった男は虚ろな瞳をこちらに向けている。

 まるで、目の前に立つ私も、話題にされている相手も、彼にとって見知らぬ人であるかのように。


「あなたも両親を事故で亡くして、学校をやめて働いてたんですよね」


 聖貴はふっと視線を落とした。

 血の気の失せた頬から顎を、雨の雫が伝って転がり落ちる。


「あたしが『未来みらい』と書いて『みく』と読ませるみたいに、本当は『セイキ』じゃなくて『キヨタカ』と読むんだって。そんなことも嬉しかったの」


 雨が加速度的に疎らになってきた。

 同時に、うっすらオレンジ色を帯びた日差しが辺りを照らし始める。


「あの日、忘れ物に気付いて戻って、あなたが店のお金を盗んでいる現場に出くわした時だって、ただ怖かった」


 空から落ち続けていた雫がとうとう止まった。

 沈む直前の日の光が濃さを増して、一気に蒸し暑くなる。


「何も悪いことをしていないのに、あんたに追いかけられて、襲われて、写真まで撮られて、ずっとおもちゃにされ続けた」


 目の前の相手は額を拭った手をそのままポケットに突っ込むと、黒い物を取り出した。

 と、カシャリと微かな音がして、聖貴の手の中に、鋭く白い刃が煌いた。


「そんなもの、もう無駄だって」


 近付いていく私から身を守るように、男はちっぽけなバタフライナイフをかざす。

 その刃先から、粘ついた赤い液体が滴り落ちた。


「来るな」


 呼び出したから来てやったのに、今更、何を言う。


 雑巾を絞り上げるように両手で機体を捻ると、発泡スチロールさながら聖貴の携帯電話は砕け散った。


「なぜならあたしは」


 幽霊みたいに蒼ざめて震えている男の襟首を掴む。

 既に用済みの凶器が再びカシャリと小さく音を立てて、私たちの間に転がり落ちた。


「アンタニモウ殺サレタカラ」


 夕焼けの空を背に、蒼白な顔に目を大きく見開いた形相の聖貴が高々と突き上げられる。


 ミシリ、と赤黒く錆び切った手すりが軋んで潰れる音が響いた。


 *****


「ニュース速報です。K県Y市の河川敷で女子高生が殺害され、現場から犯人が逃走した事件で、先ほど、犯人と見られる無職の十八歳の少年が遺体で発見されました。付近のビルから飛び降り自殺を図ったものと見られています。なお、少年の遺体が発見された現場からは、被害者のスマートフォンも押収されており、K県警では、犯人が殺害後に持ち去ったものと見て捜査を進めています」(了)

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