天狗のなり損ないと白き龍(1)

 懐かしい声が聞こえる。


『八重、……八重』


 ぼんやりともやがかった柔らかい乳白色の空間に立っていたのは、いつものように優しい微笑みを浮かべた兄だった。その姿は、何年も前の八重の記憶と寸分違わない。

 しかし、八重にはそれが確かに兄であると断言することが出来るにも関わらず、兄の顔をはっきりと認識することは出来なかった。


『にいさまっ』


 八重は大好きな兄の元へ駆け寄った。背丈が低い。幼子の八重の姿だった。

 兄は両手を広げて八重を抱き留めたが、どこか平常とは様子が異なり、物憂げな表情を浮かべている。

 八重を離してから、兄は彼女の背丈に合わせて低くかがむと、彼女の瞳をのぞき込みながら静かに言い含めるようにする。


『八重、おれは天狗になるよ』

『て、んぐ?』


 状況を飲み込めないでいる幼い八重は、小首をかしげると、兄を見つめてあんぐりと口を開けた。


『だから、おれは行かなくちゃならない。おれがいなくても取り乱してはいけないよ。きっと戻ってくるから』


 兄はすっと立ち上がる。しばらく呆然としていた八重だったが、その意味を理解すると、八重は兄の衣にしがみつき泣きそうな顔で訴えかける。


『行かないで、兄さま』


 いつの間にか、姿は今の八重に変わっていた。それなのに兄との距離は縮まらず、それどころか先ほどよりも、余計に兄が遠く感じられる。


『大丈夫。八重はおれが守るから』


 そう言い残し、八重の頭に手をやると、兄は暗闇の中へと消えていってしまう。


 どろどろとした暗闇は、そんなはずはないのに何故か粘っこく感じられ、兄を追って歩くのにも非常に手間が要った。八重が進めないでいるその間にも、兄はどんどん先へ進んでいってしまう。


 ようやく闇のぬかるみから抜け出し、勢い込んで走り出しても、そこには深い闇があるだけで、方向すらも分からなかった。走っても走っても兄に追いつくことは出来ず、その姿はもう、見えない。


 何かにつまづいて転び、したたかに体を打ち付けた。

 顔を上げ、へたり込んだままで八重は泣きながら叫ぶ。



『待って兄さま行かないで!

 ……い、やだ! いやだ、いやだ、いやだいやだいやだ!』






***



 どくん、と心臓の鼓動が脳裏に響き渡る。びくりと体をふるわせて八重は目を覚ました。

 全身にうっすらと冷汗をかいている。昔の夢であった。


 瞳を開けると、そこは見慣れぬ天井であった。視界の右上では女郎蜘蛛が巣を張っているのが見てとれる。古びた屋敷であり、はりの上にはうっすらと埃が積もっていた。まだ虚ろなままで、八重はぼんやりとそれらを眺める。


「体は大事ありませんか」


 突如聞こえた声に、八重は少し目を見開き、澄んだ声のした方へ視線を移動させた。

 八重の眠っていた寝床のすぐ隣に、八重の羽織が丁寧に畳んで置いてある。

 そしてその傍らには、薄青の衣をまとった青年が座っていた。囲炉裏いろりの火をくべていた手を止め、青年は優しい眼差しでじっとこちらを見つめている。

 一瞬、八重は自分の置かれた状況に困惑した。


 が、すぐにこれまでの出来事を思い出し、思わず八重は周囲を見渡して体を硬くする。その様子を見て、青年はやんわりと微笑んだ。


「警戒しなくてもいいよ。ここは安全だから。あれはもう、追っては来ない」


 柔和な彼の口調に、八重は肩の力を抜いた。同時に自分の体調がまだ万全でないことにも気付く。

 体に力が入らない。当然である、物の怪に追われていたあの時にも、既に八重は力尽きる寸前だったのだ。身を起こそうとした八重はそれを諦め、窮地を脱した安堵と自分の不甲斐なさとに、ため息をついた。


「まだ名を聞いていなかったね。きみは?」

「……八重。八重桜の、八重」


 青年に問われて八重はごく控えめな声で呟く。良い名だ、と頷いてから、「ぼくは」と青年は続けた。


白淳びゃくしゅん。白に、淳和のすめらぎと同じ淳だ」

「……不思議な名」


 思っただけのつもりが、ぽろりと言葉に出てしまって八重は赤面する。彼女の言葉に白淳はまた微笑を浮かべた。

 床に目を向けてみれば、そこは存外にこざっぱりした空間で、床は綺麗に掃き清められていた。白淳の周りには水の張られた桶や手拭い、椀などが置いてある。そういえばおぼろげながら、熱に浮かされている間に、誰かに粥を食べさせてもらった記憶があった。


「あなたが、私を?」

「そういうことになるね。きみを連れてきたのはぼくではないけれど」


 その言葉に、おそらく八重をここへ連れてきたのは先ほどの少年なのだろうと思い当たって白淳の後ろや室内に視線を巡らせる。

 だが、生憎と少年の姿は見えない。今は不在のようであった。


 八重は助けてもらった礼を白淳へ丁重に述べた。相変わらず白淳は柔和な表情で、構わない、と微笑む。

 白淳に手伝ってもらいながら八重は寝床の上に起きあがった。椀を手渡され、促されるままに一口粥をすすってから、白淳に目覚めてよりずっと気になっていることを尋ねる。


「さっきのは何だったの。あの、私を追いかけていた」

「さっきでもないね。きみがここに来たのは二日前だ」

「……二日」


 八重は目を丸くした。


「そんなに」

「無理もない。あれに追われただけでなく、下手をすれば生きて出られないほども深く山に迷い込んでいたんだ。少し休んだ程度ですぐに健康を取り戻せるという方が不思議だよ」


 短い時間であったとはいえ、その体でよくあれに追いつかれなかったものだ。遅ればせながら、八重はぶるりと身震いした。


「分かっていたかも知れないけれど、あれはただの獣ではないよ。人が言うところの妖しの類、あれは──」


 言いかけたところで、白淳の言葉は別の声に遮られる。


「あれはこの界隈を守護する森の主だ。平生なら表に出てくることなどない。

 悪いのは十中八九、お前だ」


 聞き覚えのある声がして、八重は白淳の背後、その天井へ目を向けた。

 八重と白淳がいる南の部屋よりも北側、戸口のすぐ上のはりに、八重を助けた少年が腰掛けていた。


「くら坊」


 白淳は少年の方を向き、不意をつかれた様子で尋ねる。


「いつ帰ったんだい」

「小娘が目を覚ました辺りから。話しかけるのも面倒だから、暫しここにいさせてもらった」


 八重は不思議に思いながら首を傾げる。先ほど八重がそちらを見た時には、彼の姿はなかったはずだ。それとも彼女が見落としていたのだろうか。


 しかしその疑問は頭の片隅にやり、八重はじっと少年の姿を凝視する。

 やはり少年の背には、翼が生えていた。

 見間違えではなかったのだ、と八重は鳥肌を立てる。



――これが夢でなければいい。



 密かに八重は心をたぎらせた。

 少年は腕組みし、胡座あぐらをかきながら話を続ける。


「白淳。主は鎮めた。しかし事の火種はまだ取り除かれちゃいない。そいつは何者だ」

「聞いていた通りだよ。可愛らしい普通の娘だ」


 聞いて少年は不機嫌に眉をひそめる。そういうことじゃない、とぼやいてから、今度は八重に視線を移し、朱の瞳を鋭く細めた。


「小娘、ここは本来ならば人の踏み入らぬ霊峰、お前らが立ち入って良い場所ではない。

 それどころかこの界隈は、人避けの結界まで張ってあるというのに、お前はどうやってここまで入り込んで来た」


 当惑して、八重は首を横に振りながら答える。


「知らない。入りたいと思ったら入れたの」

「馬鹿な、そう易々と……」


 少年は苦い表情でその後の言葉を飲み込んだ。続けて彼が喋り出す前にと、八重は先んじて礼を言う。


「あの時はどうもありがとう。命拾いしたわ」

「別に。主が暴れていた原因を取り除こうと思っただけだ。森の他の奴らまで一緒に怯えるから」


 しかし彼は相変わらずの素っ気ない物言いだ。

 暫し躊躇ちゅうちょした後で、八重はおずおずと少年に尋ねる。


「あの、あなたの名は?」


 少年は相変わらずの冷たい眼差しで八重を一瞥してから、抑揚のない声色で吐き捨てる。


「千の瞑と書いて千瞑ちくら。それが嫌ならチメイだろうがセンミョウだろうが好きなように呼べばいい」


 おざなりな物言いに、八重は呆れ果てて問いかける。


「あなた、自分の名前に思い入れはないの? 文字さえ定まっていれば呼び方はどうでもいいというものでもないでしょうに」


 千瞑は興味なさ気に鼻で笑うと、羽を少しはばたかせてそっぽを向いた。


「別におれが付けた訳じゃない。ヒトでも妖しでも神でもないおれが、余所からどう呼ばれようと知ったことか。誰かがそう呼んだだけだ。

 千の瞑。おれに似合いな名だ」

「千の、瞑……」


 八重は口の中で呟く。どこかほの暗いその名は、白淳のそれよりも奇妙な感覚を伴って、八重の深淵で響いた。

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