第7章 3

宵闇の中だろうと、空は委細構わず泣き続ける。延々続く雨音を聞きながら、グリーシャは天井を見つめていた。


 左右をミミとハンナに挟まれ、川の字に寝ていると、毛布を掛けずとも人肌で暖かい。最初こそ気恥ずかしい思いをしていたグリーシャだが、今ではただ母の腕の中にいるよう、安らかな心地に身を任せられている。


「……グリーシャ」

 

誰かが、耳元で囁いた。頭を静かに左側へ向けると、暗闇の中に金色の髪が音もなく零れ落ち、グリーシャの頬を優しく撫でる。ミミの整った顔が、額同士の触れるほど近くにあった。


「……おきてる?」

「…………ん」

「夜更かしさんね」

「……お前も人の事は言えないな」

「ふふ。違うわ、私は早起きしたの」

 

吐息とも笑い声ともつかない、小さな空気の震え。それが心地よくグリーシャの鼻先を弄ぶ。


「……ねえ。少しだけ、話し相手になって貰えないかしら」

 

ミミの声は小さく、霞のように儚い。けれど、グリーシャの耳には不思議なほどはっきりと届いて、首の後ろを優しく撫でられたような気分になる。


「……しばらくなら相手になれる。途中で眠りこけるかもしれないけど」

「構わないわ。大した話があるわけでもないから」


それから数瞬、ミミは静寂を楽しむように喋らず、吐息の交じり合って奏でられる、不思議な音楽だけが部屋を満たす。彼は目の前にある青い瞳と、そこに映る微かな影を眺めていた。


「……あのね。今日、すごく楽しかったの」

 

一言ずつを、噛みしめるように言うミミ。雨の音と、シーツの擦れる音と、彼女の声と。目を覚ましていながら、まるで深い夢の中にいるよう。


「みんなでね、おしゃべりしながら、ご飯を食べて、仕事をして。夜はみんなでゲームをして、気が付いたら眠っていて――本当に楽しかったの」

 

彼女の言葉の端々には、暖かく終えた日を思い返し、明日にもそれを望む無邪気さが宿っている。今日がとても良い日だったから、これから先は、もうきっと良い事しか起こらないに違いないと――そう信じる、子供のような無邪気さが。


「……例えばの話だけど」

 

ミミが少し姿勢を変え、彼女の膝頭がグリーシャの足に触れる。毛布がはだけて、寝巻に包まれたミミの肩が、ちらりと覗いた。


「戦争とか、竜騎兵とか、そういうのが全部夢で。生まれてからずっと、私たちはここで暮らしていて。今日が普段とかわらない、いつも通りの一日だったとしてもね。私、それでいいかなって気がした。ふふ。馬鹿みたいだけど」

 

ミミの澄んで美しい囁き声は、楽しげに弾んでいた。なのに、グリーシャは何故か、寂しいと思ってしまう。それは、彼女の口調がまるで故人の思い出を語るようだったから。


「……今考えるとね」

 

グリーシャの腕に、暖かいものが触れる。それがミミの手のひらなのだと気付いても、彼の心は動かない。


「貴方と出会ってから、ずっとそうだったのかも知れない。朝起きて、あっという間に時間が過ぎて、明日もこんな日を過ごしたいって思いながら眠るの」


ミミの言葉と、笑顔と、温もりが、グリーシャの中を通り抜ける。それらは本来なら、彼の心に明るい火を灯すべきもの。なのにグリーシャは今、寂しさを拭い去れない。


ちぐはぐな感情。その理由が何なのか、彼は少しの間だけ思いを巡らし、殆ど自動的に答えを見つける。


つまり――やっぱりだめなのだ。自分達は朧の希望を掴むため、今日一日中、ただ虚空に手を伸ばしていたのだという、そんな感覚が、ずっと消えない。


例えるなら、夜の駅馬車の待合室。ストーブがあり、屋根があり、そこにいれば満ち足りる、快適な場所。だが時間が来れば、外に出なければいけないと、頭の片隅は常に知っている。後に待っているのは冷たい暗闇と、身を切り裂くような風。暖かさに慣れれば慣れるほど、外に出た時の辛さもまた、肌身に染みる。


彼もまた、胸に巣食う現実を忘れられなくて。結局、答えのないまま終わりに突き進むしかないのだと、それを思い知らされた事が、悲しいのだ。


「ねぇ、今日の私、まずまず役に立ったと思うの。慣れれば、もっといろんな事が出来るわ。そのうちグリーシャよりも子豚の扱いが上手くなるかもしれないわよ?」


何も言わないグリーシャの唇を、毛布の下から現れたミミの人差し指がつつく。彼女の指先に漂う甘い香りは、しかし彼が浅い呼吸をすると、あっというまに散じて消えた。


グリーシャは、ミミの事をずるいと思う。彼女とて、気付いてない筈はない。終点がもはや鼻先にあり、見て見ぬふりをするには近すぎるのだと。


それでも彼女は、ただ今日の出来事だけを、楽しげに語る。終わりを必死で遠ざけていれば、あるいはその先に、永遠を見つけられると信じているのか。


それが無性に気に入らなくて、グリーシャの口から、意地悪な言葉が漏れる。


「最後の町は、すぐそこだ。雨が止んだらここを出よう」


彼の言葉を聞いたミミの口から、ん、と一つ、戸惑うような吐息が漏れる。


けれども、それは一瞬で。


「……あと、どれくらい?」


彼女は、なんでもないように聞く。それが言葉通りの『最後』でなく。きっとこれから先も、今までと同じ道が続くのだと、必死に主張するよう、なんでもない口調で。


「……順調にいけば、二日」

 

グリーシャの答えに、ミミは言葉を添えない。ただ彼女の口角に力が入り、唇が引き結ばれる。それが笑顔を作ろうとして失敗したのだと気付き、グリーシャは見ていられず目を瞑った。


あと二日。自分の放った毒が、ミミを突き刺し、同時に自分自身も苛む。


「……いっそのことさ」


やけくそ気味に言う。なにが「いっそ」なのか、脈絡がないのは自覚していながら、言葉がとめどなく溢れてくる。


「本当にずっと、ここで過ごすのもいいかもな」

「ずっと?」

 

光のない部屋で尚、白く浮かぶ彼女の口元。そこにやっと弱弱しい笑みが浮かんだのを見て、グリーシャはほっとしてしまった。


「そう。適当に空き家をみつけて、豚や牛を集めて、畑を耕して。ハンナにも手伝ってもらおう。きっと良い助言をしてくれる。代わりに俺たちは、彼女に朝食を作ってやるんだ」

 

そうして二人、穏やかに暮らす。その想像は、まるで手を伸ばせばすぐ触れられるような現実味があって、グリーシャは溜らず下唇を噛む。ミミは何も言わず、こちらを眺めていた。


「……冗談だよ」


探るような沈黙に耐えられず、グリーシャはつぶやく。その瞬間、ミミの白い顔に小さなヒビが入ったよう思えたのは、きっと気のせいだったろう。


窓の外を見る。雨は勢いを無くし、雲の向こうからうすぼんやりと月光が透けて星の気配を感じさせていた。明日は晴れるかもしれない。


視線を部屋に戻すと、ミミもまた、表情のない顔を窓の外に向けていた。

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