迷子と除け者
吾妻栄子
迷子と除け者
迷子になるのは羊(シープ)なのに、なぜ除け者になるのは山羊(ゴート)なのだろう。
良く似た生き物のはずなのに。
*****
「あ、おはよう」
思わぬ相手に会った時、反射的に笑顔を作れるようになったのはいつからだろう。
「私、今日一限からだから早いんだ」
まず、自分の情報から開示してみる。
「そう」
相手はろくに目を合わせもせず、さっさとホームの階段を早足で上がっていく。
真っ直ぐな黒髪を短く切り揃えた小さな頭がどんどん遠ざかる。
――お前のスケジュールになんか興味はない。
そう言われた気がした。
あーあ、「おはよう」だけで終わらせておけば良かった。
博史(ひろし)がああなのは、今に始まったことではないし。
能登(のと)博史は、ごく一時期を除いて、小さい頃から向かいの家に住んでいる、私の幼馴染だ。
だが、「幼馴染」という言葉から一般に連想されるようなロマンチックな関係にあったことはこれまでに一度もない。
というより、今となっては、「幼馴染」と呼ぶことにためらいを覚えるほど疎遠な間柄だ。
こんな風に人目がないところでは挨拶も返さないくらいだから、彼から嫌われているのだと嫌でも判断せざるを得ない。
率直に言って、私も今の博史は苦手だ。
中三の夏にご両親の離婚で一度、引っ越す前までは、口数は少なくても、話しかければ笑顔で返してくれるような気持ちの優しい男の子だった。
しかし、高二の秋にお母さんが亡くなってまた元の家に戻ってきた時には、その寡黙さはどことなく偏屈で拒絶的な匂いのするものに変わっていた。
二年の間に背丈は頭一つ分ほど伸び、大きな目は険しげに変わって、不良じみた服装や粗暴な言動をしているわけでもないのに、どこか荒んだ感じがする。
引っ越す前は「博史」と呼び捨てにしても嫌な空気にはならなかったけれど、再会後は「博史君」と呼び掛けるのも億劫になった。
向こうからも、めったに話しかけてくることはない。
私の方は漠然とした義務感から挨拶だけはするようにしていたが、そろそろもう止めた方が彼にとっても気楽なのかもしれない。
こちらにしても、いつもまともに返事が戻ってこないようでは、いい気分ではない。
大学生にもなって常識的な対応すら取る気のない相手ならば、無視して構わないはずだ。
ふっと息を吐いてカバンから取り出す。
本当は一限目からなんて取りたくはないけれど、語学の必修授業として強制的に組み込まれてしまったから仕方ない。
“羊有跪乳之恩/羊は跪いて飲んだ乳の恩を知る、羊でも親の恩を知る“
“山羊咩咩叫个不停/山羊がメーメーとしきりに鳴く”
日本語でも中国語でも同じ「羊」に「山羊」だからありがたい。
ガタンと音がして電車が止まった。
プシューと空気が抜けるような響きと共にドアが開き、煙草とセメントの匂いの入り混じった、冷たい外の空気が流れ込んでくる。
この駅で一斉に乗客が降りてまた増えるのだと思いつつ、窓ガラスに目をやると、静電気で凄まじいことになった自分の頭が目に入る。
ああ、やっぱり、こうなった。
私の髪は天然パーマなので、普段、ヘアスプレーでかっつり纏めて出てきても、しばらくすると縦にも横にも広がってしまう。
今日は寝坊してまともにセットせずに出てきたので、爆発したみたいになっている。
もう一回、ストレートパーマをかけようか。
でも、あれをやると髪が傷むし、半月もせずにまた戻っちゃうんだ。
どうしてこんなウールみたいな髪なんだろう。
窓ガラスに映る顔がしょぼくれていく。
ふと、ガラス越しにぶつかる視線があった。
次の瞬間、ガラス窓に映った博史は手にした本にすっと目を落とす。
どっと車内に人がなだれ込んで来た。
ガタンと音がしてまた電車が動き出す。
あの人、同じ車両に乗ってたんだ。
改めて実物に目をやると、博史は既に新たなページを捲るところだった。
書名までは分からないが、薄っぺらい感じの表紙に横文字が入っているらしいのが認められる。
きっと、向こうも教科書を読んでるんだな。
同じ大学といっても、私は文学部で、彼は農学部なので、普段は学内でも顔を合わせることは少ない。
ただ、お父さんが学部長を務める農学部に首席で合格した彼が学部の入学式で新入生代表として挨拶を読んだことは、近辺ではちょっとしたニュースになった。
うちのお母さんが見せてくれた地方新聞には、「能登史雄(のとふみお)東奥大教授(53歳)と長男の博史さん(18歳)」が並んで映った写真が大きく載っていた。
国内初のクローンヤギを誕生させた教授とその一人息子は、真っ直ぐな固い髪といい、小さな蒼白い顔といい、険を含んだ大きな目といい、どこか張り付いたような笑顔といい、そっくりな父子というより同じ人の過去と未来の姿に見えた。
“披着羊皮的狼/羊の皮を被った狼“
“狼子野心/狼は子供でも野獣の本性を持つ、悪人の凶悪な本性は改まらない”
すぐ向かいのお宅ではあるけれど、小さな頃から博史のお父さんの姿を近所で見かけることはあまりなかった。
「研究に専心する学者」というのが一貫した評判だ。
ガタンと眺めていたページの文字群が一斉にぶれてまた輪郭を取り戻す。
さあ、着いた。
私は教科書をカバンに収める。
元より二駅しか乗らないわけだが、心なしか今日はいつもよりいっそう早く着いた気がする。
ドアの外に出ると思ったより肌寒く、湿った匂いがした。
灰色の空模様からすると、降り出しそうだ。
多分、教室に着くまでには降らないだろうと思いつつ、足を急がせる。
何だかんだ言って、すぐ近くの大学に通えるのは得だ。
本当は遠くで一人暮らししてみたい気持ちがなかったわけではないが、家から二駅目が通学先になったし、そもそもそこがずっと第一志望だったから、自分としても箱入り娘コースを選んだわけだ。
まあ、どのみち……。
「洋子(ようこ)」
改札を出て数歩行ったところで、唐突に耳に飛び込んできた声にびくりとする。
後ろを振り返っても、知り合いらしき顔は見当たらない。
と、左の肩がずしりと重くなった。
すぐ目の前に、声の主が立っていた。
「ああ」
思わず上擦った声を出してから、我ながら間抜けな反応だと思う。
左の肩が軽くなる代わりにさっと冷たくなった。
「来年、北京に行くって聞いたんだけど」
博史は顔を影にしたまま、感情のこもらない声で述べる。
「うん、そう」
私の声も釣られた風に投げやりになった。
「一年くらい、いないんだよね」
相手は変わらず平坦な口調で続ける。
陰になった博史の肩越しに雨がポツリ、ポツリと降り出した。
「そうだよ」
私は頷きながら、折り畳み傘を出すべくカバンの奥を探る。
本当の留学期間は一年よりももう少し短いはずだが、訂正するのが面倒だった。
そんなにつまらないなら、無理して話しかけないで。
私にも予定があるから。
カバンの奥を探る内にも、路地に小さな雫の跡が加速度的に増えていく。
駅舎内の側溝の饐(す)えた水の匂いも微かに漂ってきた。
「分かった」
それは、了解よりも突き放しの語調だった。
私は構わず折り畳み傘を開く。
あんたなんか、どこにでも行け。
薄暗い中に、一部だけパッと緋色の傘の明かりが差した。
「じゃ、がんばって」
――どうせ駄目だろうけど、せいぜいがんばって。
強まる雨脚の中、背を向けて早足で歩き出した後ろ姿はそう告げているように見える。
私も歩き出す。
傘を叩く雨粒の音から、思ったより勢いの強い降りだと分かった。
農学部のキャンパスはここからかなり歩くから傘なしではきついだろうな。
そう思いながら見やると、まだ早足でもそこまで遠くには行っていないはずの博史は、嘘のように姿を消していた。
もしかして、農学部じゃなくて、どこか別のキャンパスでの授業だったのかな?
それとも、私が今、話したのは、博史ではなくて別人?
見知ったはずの大学の構内が急に迷路のように見えて、一瞬、目眩が起きる。
先ほど手を置かれたはずの左の肩にひやりとした風が通り抜けた気がした。(了)
迷子と除け者 吾妻栄子 @gaoqiao412
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