恋愛☆デスマッチ

@tamagoyaki014

第1話

 朝の学校は静寂に包まれていた。午前七時、ほとんど生徒はいない。窓から入ってくるひんやりした外気が心地いい。廊下から教室の中をそっと覗く。目とノートの距離が近すぎるくらいにして、一生懸命にペンを走らす橘咲の姿が見えた。

 気づくと彼女の姿に見とれている自分がいた。少し苦笑してから扉をあける。この学校の教室の扉は開ける時にほとんど音がならない。静かな教室にペンの音だけが聞こえている。なるべく音をたてないように歩いて自分の席に向かう。僕の席は彼女の席の隣で、窓際の一番後ろだった。

 机にカバンを置いて、小さく深呼吸してから、軽く体を向けて、思い切って声をかける。


「……おはよう」


 彼女は僕を見上げた。どこかキョトンとした顔をしている。好きな人に見つめられて、恥ずかしくなってそっぽを向いてしまった。


「うん!おはよう」


 顔は見えないけど、快活な彼女の魅力的な笑顔が容易に想像出来た。そっぽを向かれたのに、目一杯の元気な挨拶をするところに包容力とか優しさとかを感じて、そういうところが大好きなんだと思う。

 またペンの音が聞こえだした。見ると、既に勉強を再開していた。髪は短くしていかにも運動部という感じで、彼女のイメージにピッタリだ。まつ毛が意外に少し長くて、目は二重。そんなことは彼女をよく見ているから知っている。

 彼女は不意に顔を赤くして、軽く下を向いた。


「あの、そんなに見られると照れるなー、なんて、あはは」


「あっ、ごめん……」


 気まずい沈黙が流れる。ペンの音がまた聞こえだした。心なしかペンが踊っているような気がする。僕はできるだけ何も考えないように無心でカバンの中の本を机に入れだした。なんだか手が震えてうまく取り出せない。こういう時こそ深呼吸である。

 少し落ち着いた気がする。僕も勉強しようかと思ったが、いまいち気が進まなかった。そもそも学校に早く来たのは彼女と二人きりになるためだった。友人の内田徹から、橘さんがこの時間帯にはもういるということをニヤニヤしながら聞かされた。それを信じる僕は、たぶん相当彼女に飢えているんだと思う。最初は一目惚れだった。入学式に彼女を一瞬見ただけで、僕の頭の中は彼女に染まった。隣の席だと知った時には、舞い上がるほど嬉しかった。そして、彼女を知っていくうちに、ちょっとした優しさや弱さにますます惹かれいった。だから、こんな気まずい雰囲気の時でさえ触れたいと思う、抱きしめたいと思う。

 何かが落ちる音がした。橘さんのペンだと思った。自分の優しさをアピールする良い機会だと思って、体をひねって足元に落ちたペンに手を伸ばす。すると、橘さんの手とぶつかった。


「ごめ……」


 慌てて手を離そうとすると、ぐっと手首を掴まれた。怪訝に思って彼女を見ると、顔を紅潮させてぼーっと僕を見つめていた。


「あの、えっと……」


 混乱してうまく言葉が出ない。僕の目はメダカみたいに泳いでると思う。暖かくて、小さな手が僕の手首を掴んで離さない。だんだんと顔が近づいてくる。もしかして、これって……。


「咲、何やってるのー?」


 橘さんはパッと手を離して、声がした方、工藤藍の方に向いた。


「いやー、あはは、あはは……」


「あははじゃ分からないけど……」


「あのね藍、佐野君って影薄いじゃん?本当に生きてるかわからなくてさ、脈あるのかなーって、あはは」


「そうなの?佐野君」


「そ、そうだよ」


「そっかー、確かに影薄いけど」


 結構傷つくんだけど……。


「まあいっかー」


 工藤さんはいつもの寝ぼけたような声で言って、自分の席に向かった。工藤さんが少し抜けてて助かった。でも、本当に何をやろうとしていたんだろう。もしかして……。


「えっと、その」


 橘さんはぽつぽつと喋り出した。


「……うん」


「ごめん、さっきのは忘れて」


 そう言って小さく笑った。けれどどこか物憂いげだった。それを見て、胸の奥が締め付けられるのを感じた。気づくと口が開いていた。


「いや、その……、別に嫌じゃなかったっていうか……」


「……そっか……」


 自分でも何を言っているかわからなかった。でも、橘さんの顔が少し緩んだようで、こっちまで嬉しくなった。良かった、これでいいのだ。


「…………席……隣…………やがって…………」


 向こうから声が聞こえた気がした。







 その日の昼休み、僕は体育館の裏にいた。工藤さんに呼び出されたのだ。もしかしたら告白かもしれないと思うと、正直嬉しかった。自分のことを好いてくれていたのだ。それでも断るつもりだった。僕は橘さんが好きだと、正直に伝えよう。工藤さんなら、橘さんの友人ならわかってくれると思う。


「あのね、私ね……」


 セミの鳴き声が聞こえ、木もざわざわとしているけど、彼女の声はしっかりと聞こえていた。


「あなたのことが好きでした!付き合ってください!」


「……ごめん、僕は橘さんが好きだから、工藤さんとは付き合えない、本当にごめん」


「そんな事……言わないでよ……」


「ごめん……」


「ちょっとだけでもいいから……」


「ごめん……」


「……咲のこと、どれくらい好き?」


 工藤さんは今にも泣きそうな声で言った。


「……毎日、橘さんのこと考えてる。橘さんが嬉しそうにしてたら僕も嬉しいし、悲しそうにしてたら僕も悲しい……そういう人かな」


「ふーん……そうなんだ……へぇ……」


 工藤さんの声が震えているのが分かる。いつもの寝ぼけたような声ではなかった。


「その程度なんだ……」


思わず耳を疑った。


「……え?」


「私はね……咲を愛しているの……あの子が笑う度に胸の奥がきゅんきゅんして幸せで、辛そうで泣きそうな時なんかは私が胸を貸してあげるの、そうしたらね、子供みたいに私の胸に甘えてくるの……いっぱい甘えさせて依存させたくなっちゃう……それなのに……それなのに、こんな男にたぶらかされて……ッ……私の方が咲を愛しているの……わかったら、私の咲に近づかないで」


 工藤さんは顔を上気させて言い切った。突然のことに僕は絶句した。


「……えっと、橘さんのこと好きなの?」


「さっきから言ってるでしょ」


 流すように、面倒そうに言った。


「そっか……えっ、さっき僕のこと好きって」


「そんなわけないでしょ、咲に近づく悪い虫は私が告白すればみんな了承してくれたもの。そうやって排除してきたわ。あなたは違うようだけど」


「……」


 まだ混乱してるけど、工藤さんが橘さんに恋愛的な感情を抱いているのはわかった。


「諦めて」


「それは……無理かな」


 その瞬間、工藤さんはギロリとこちらを睨んだ。


「は?」


 中学生の頃カツアゲされそうになったことを思い出した。それくらい工藤さんには凄みがあった。正直怖い。けれど、橘さんの事だと思うと不思議と勇気が湧いてくる。


「だから、嫌だって言ってるんだ」


「ふーん」


 工藤さんはゆっくりと足を動かしてにじり寄ってくる。少しでも退いたり目を逸らしたら負けだと思った。負けたくなかった。彼女は僕をからかっているのだ、僕が女子が苦手なことを知っていてこういうことをやっている。

いつの間にか目の前に彼女がいる。身長はほとんど変わらないようで、自然と目が合わさる。彼女は余裕の表情で、じっと僕を見据えている。本当は今すぐにでも逃げ出したい。けれど、負けたくもなかった。ここで自分の、橘さんへの思いを証明するのだ。

彼女は不意にニヤリと笑って僕の顔の左に顔を近づけた。なんだと思った。その後、ひやりとした感触が耳をなぞった。


「ひゃ…」


まだ何が起きたか分からなかった。


「くくっ……、ひゃ、ですって。ふふふふふ、お腹痛い」


おかしそうにお腹を抱えて笑っている。


「な、何を」


「何って、耳舐めただけじゃん。佐野ちゃんにはちょっと刺激が強かったかな?あはは」


「……君達、何やってんの……」


声の方に振り向くと、内田徹がいた。

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